こういう「色んな事情を抱えた人々が一カ所に集められてサバイバルして謎の怪物とか出てくる話」って大体同じようなオチになる印象があります。
「こういう陰謀があって~」とか「怪物の正体はこれで~」とか細かい設定も要らないし楽そう。と穿った見方をしてしまいます。
神様の設定は面白かったです。
本編には関係ないけど訳者あとがきには面食らいました。
普通はもうちょっと穏やかに作品の解説をするものだと思うのですが、びっくりするくらい偉そうに語り始めるので、「あれ、これ本編の一部なのかな?」と思わず見返してしまいました。
良く分からないけどそういう毒舌が売りの人なんでしょうか?
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死の迷路 (ハヤカワ文庫SF) Kindle版
目的も告げられずに、未開の辺境惑星デルマク・Oに送り込まれた14人の男女。使命を伝えるはずだった通信は未達のまま、外部との接触を絶たれてしまった彼らは、その惑星で奇怪な光景を目にすることになる。謎めいた構造物、歌う人工蠅、光線を発射するミニチュア・ビル、不完全な複製を作り出す生命体……。やがて、一人また一人とメンバーが奇怪な死を遂げ始める!? 緊迫感溢れる筆致で描かれる鬼才の異色サスペンスSF。
- 言語日本語
- 出版社早川書房
- 発売日2016/5/25
- ファイルサイズ687 KB
- 販売: Amazon Services International LLC
- Kindle 電子書籍リーダーFire タブレットKindle 無料読書アプリ
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登録情報
- ASIN : B01G8IVRMC
- 出版社 : 早川書房 (2016/5/25)
- 発売日 : 2016/5/25
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 687 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効にされていません
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 279ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 260,285位Kindleストア (Kindleストアの売れ筋ランキングを見る)
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2017年10月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
読了後、私はこの小説の目次に各章ごとのあらすじ風の章題が載っていることに気づいた。しかしこれが内容を全く要約していない完全にデタラメな代物で、おふざけにしてもあまりウィットさを感じさせるものでもない。ほとんどの人が読みとばすであろうこのデタラメな章題の意図するところは何か、、、と私はぼんやり考えてみた。
だんだんと私の脳裡に浮かんできたのが、昔デニス・ホイートリーという作家の小説をそのどぎつい章題に騙されながら読み進めていった記憶だった。一体どんな経緯でこんなあやしい事態が起るんだろうとワクワク期待に胸をふくらませながら話を追うのだが、章のおわりで裏切られ、続く章でも騙されつづけ、本が終わる頃にはこれがある種の釣り手法であることに気づかされた。実はたいしたことの起こらない小説を、仰々しい章題で最後まで読ませてしまうテクニックだ(デニス・ホイートリー・ファンの皆さんゴメンナサイ)。一昔前のペーパーバック物にはこういう手法が常套手段としてまかり通っていて、章題が購買層への訴求アプローチになっていたのかも知れない。
ディック氏はおそらくこの手法をパロディ的に真逆の要素として本作冒頭に用いたのだと思う。そこにはパルプSFというジャンルで本を出す自分への諧謔めいたニュアンスもあっただろう。しかしそれにも増して私が感じるのは、作品に対するディック自身の矜持(とその裏返し)だ。実際この作品は本質的にはメインストリーム並みであるように思う。人類の叡智と真理よここに凝縮せよとばかりに小説を展開するディック。しかし今作もパルプSFである以上は安く扱われるのは必至。ならばこちらからB級パルプよろしくあらすじ章題を巻頭目次に並べて、それをわざと唆らない意味不明なものにしてやることで、逆説的にこの作品が高尚であることを示してやろうじゃないか。ディックがそうたくらんでいたのだと考えれば意味不明の章題にも合点がいくのだ(すごく解りにくいが)。
しかしよく考えるとこれはつまりイカサマの逆であり、翻ってはディックの誠実さの顕われともなる。そして、実にこのような彼の掛け値なしの誠実さが、死後における彼のブランド化に一役買っているようにも思える。陳腐な物言いかもしれないが、読者は彼のこういう姿勢に人類愛めいたものを垣間見てしまうのだ。もっとも実際にディックは(その内面において)人間を、また偽らぬ人間性というものを愛した人物でもあったのだろう。私たちは本作「死の迷路」に登場する一癖も二癖もある人物達に対して、初めこそなんてイカレタ連中なんだとあきれるが、彼らがひとりずつ居なくなっていくに連れて、いつの間にか何とも言えぬ喪失感を抱いてしまう。おそらくディックは、このキャラクター達、そのモデルとなった実在の人物ひとりひとりをとても愛していたに違いない。
そんな人間愛のなせる技か、ディックは本作で読者を一種のホーンテッド・ハウスに引き込みつつ、自らの神学的・哲学的到達点をなるたけ平易に開示してみせる。しかもその見解をキャラクター達に逐一弁証させることで、独断に偏向することを勤めて回避してもいる。ここに本作の読みやすさ、バランスの良さがあるのだろう。まあそもそも彼の真理への希求が本質的に純粋な問いかけから発生しているのだから、これは至極当然な姿勢なのだが。
こうした彼の誠実かつ真摯な姿勢が、「社会への表向きの顔」としてデタラメ章題となって顕われている、とこう私は想像を巡らせたのだが、しょってる感じで一寸ディックらしいでしょ?
だんだんと私の脳裡に浮かんできたのが、昔デニス・ホイートリーという作家の小説をそのどぎつい章題に騙されながら読み進めていった記憶だった。一体どんな経緯でこんなあやしい事態が起るんだろうとワクワク期待に胸をふくらませながら話を追うのだが、章のおわりで裏切られ、続く章でも騙されつづけ、本が終わる頃にはこれがある種の釣り手法であることに気づかされた。実はたいしたことの起こらない小説を、仰々しい章題で最後まで読ませてしまうテクニックだ(デニス・ホイートリー・ファンの皆さんゴメンナサイ)。一昔前のペーパーバック物にはこういう手法が常套手段としてまかり通っていて、章題が購買層への訴求アプローチになっていたのかも知れない。
ディック氏はおそらくこの手法をパロディ的に真逆の要素として本作冒頭に用いたのだと思う。そこにはパルプSFというジャンルで本を出す自分への諧謔めいたニュアンスもあっただろう。しかしそれにも増して私が感じるのは、作品に対するディック自身の矜持(とその裏返し)だ。実際この作品は本質的にはメインストリーム並みであるように思う。人類の叡智と真理よここに凝縮せよとばかりに小説を展開するディック。しかし今作もパルプSFである以上は安く扱われるのは必至。ならばこちらからB級パルプよろしくあらすじ章題を巻頭目次に並べて、それをわざと唆らない意味不明なものにしてやることで、逆説的にこの作品が高尚であることを示してやろうじゃないか。ディックがそうたくらんでいたのだと考えれば意味不明の章題にも合点がいくのだ(すごく解りにくいが)。
しかしよく考えるとこれはつまりイカサマの逆であり、翻ってはディックの誠実さの顕われともなる。そして、実にこのような彼の掛け値なしの誠実さが、死後における彼のブランド化に一役買っているようにも思える。陳腐な物言いかもしれないが、読者は彼のこういう姿勢に人類愛めいたものを垣間見てしまうのだ。もっとも実際にディックは(その内面において)人間を、また偽らぬ人間性というものを愛した人物でもあったのだろう。私たちは本作「死の迷路」に登場する一癖も二癖もある人物達に対して、初めこそなんてイカレタ連中なんだとあきれるが、彼らがひとりずつ居なくなっていくに連れて、いつの間にか何とも言えぬ喪失感を抱いてしまう。おそらくディックは、このキャラクター達、そのモデルとなった実在の人物ひとりひとりをとても愛していたに違いない。
そんな人間愛のなせる技か、ディックは本作で読者を一種のホーンテッド・ハウスに引き込みつつ、自らの神学的・哲学的到達点をなるたけ平易に開示してみせる。しかもその見解をキャラクター達に逐一弁証させることで、独断に偏向することを勤めて回避してもいる。ここに本作の読みやすさ、バランスの良さがあるのだろう。まあそもそも彼の真理への希求が本質的に純粋な問いかけから発生しているのだから、これは至極当然な姿勢なのだが。
こうした彼の誠実かつ真摯な姿勢が、「社会への表向きの顔」としてデタラメ章題となって顕われている、とこう私は想像を巡らせたのだが、しょってる感じで一寸ディックらしいでしょ?
2017年6月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
キリスト教でもイスラム教でも仏教でもユダヤ教でもない宗教、というか神学が出てきて、それに対する登場人物たちの態度がストーリーと深く絡んできます。これをSFの「社会環境設定」の一つとして飲み込めるなら、「そして誰もいなくなった」的な生き残りサスペンスとして楽しめるでしょう。P.K.ディックのファンでなくても大丈夫です。もちろんディックファンなら、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」や「ヴァリス」に通じる雰囲気や概念が散見され、味わいもひとしおです。感覚が裏返しになるようなどんでん返しもあり、最後にかっちりまとまっているようで、実は作り込まれた大きな穴が残されているところなど「あなたが落下し続けているゾッとする現代社会」を直観させてくれますよ。
2016年8月3日に日本でレビュー済み
1982年に53歳の若さで亡くなったフィリップ・K・ディックの世界はなお健在である。本書は1970年にA Maze of Deathのタイトルで上梓されたが、1989年になって創元社から日本語版が出版され、さらに2016年に早川書房で文庫化された。彼の魅力は年月を経るほど増幅するようだ。但し本書は、作家が得意とし映画化もされやすい「時間操作」劇とは異なる、心理劇とも言うべきドラマである。
「2105年」頃の銀河系宇宙。そこには「フリーネットワーク」と称するインターネット網はあるがパソコンが無い。ケータイ、スマホもなく、探検に出かける登場人物たちはトランシーバーがないのを悔やむ。録音再生ギアもHDDやフラッシュドライブではなく磁気テープだ。今読んでみて、作家の未来予想力の限界を笑ってしまうところもある。ここはむしろ現実世界の、SF作家の想像力をはるかに超える技術進歩の速度に驚くべきであろうか。
とにかく物語の始まりは、22世紀初頭の地球は既に人が住む惑星ではなくなり、20世紀人の子孫たちは地球を知らずに、銀河系の他の星や宇宙船の中で暮らしている。それらのあちらこちらから14名の男女が「デルマク・O」という宇宙最果ての惑星植民地への移住に志願し、片道分の燃料しか積めない小型宇宙艇で到着するところからである。
この移住者たちだが、経歴が異常である上に性格も異常とされる(カッコは「語り」が付けた性格)。博物学者(アル中)、言語学者(薬中毒)、海洋生物学者(過食症)とその妻、居住地管理人、神学者(幻想病)、プラスチック工学者、医師(心気症)、心理学者、写真家兼土壌専門家(分裂症)、コンピュータ技術者(発明狂)、超高齢の社会学者(110歳?)、タイピスト(セックス狂)、経済学者(潔癖フェチ)。
発令者が何を目的に彼等を選んだか全く判らす、その上、全員が揃った後で聞かされるはずの指令が録音機の「故障」で消えてしまう。交信するには余りに遠い宇宙の果て。彼等は自分たちが「落ちこぼれ」で故意に遺棄されたと感じざるを得ない。
ここまで読んで気づくことは、この小説の元ネタだ。ジューヌ・ベルヌの『十五少年漂流記』(1888)やウイリアム・ゴールデングの『蠅の王』(1954)の他に、居住地の外にある「ビル」を目指して入れないシーンは、カフカの『城』も思い出させ、一人ずつ団員が殺されてゆくシーケンスは、アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』(1939)を彷彿とさせる。剽窃を非難しているのではない。テクスト(小説)とは本来「先行テクストの再構成」(間テクスト理論)であるとされているのだから。それ自身に読み応えがあれば良い。
もう一つ気づく点は、登場人物が本当に「異常者」であるかという疑問である。この程度の性癖は誰もが持っており、あの程度の自己中心主義、他人への無関心等は普通人程度だ。一人一人を観れば理性的に振る舞おうとしている知識人の彼等が、人間精神の「低位」に当たるとは思えず、彼等を異常と決めつける現代人の方がよっぽど異常でないのか、と考えさせられる。それとも1970年代から2016年の間に人間全体が「低位」に落ち込み、彼我の違いが判らなくなったとでも言うのだろうか。
とにかく団員の相互疑惑と相互不信のために人殺しが人殺しを産んでゆく。さらにはこの惑星にいないはずの外部者の侵入があり、宇宙最果てのデルマク・Oに居るはずの入植者たちは、実は廃棄されたテラ(ギリシャ語で怪物の意)と呼ばれる地球に来ていること、等々が段々とネタバレされて行き、さらにそれすらも「脳重合の融合意識」と教えられ、さらにそれすらも……と、物語は二重三重の「マトリューシカ構造」になっていて、最後は馬鹿馬鹿しくなるが、筋書きのどこで止め、どこを読むかは読者の読書力だろう。わたしには「人間は何時の時代になっても変わらないものだ」、という陳腐ともいえる慨嘆が強く残った。
面白かったのは、宗教に関する記述である。22世紀、地球の既成宗教は消え去り、新たに「宇宙教」とも言うべき信仰が創造されている。人々の祈りはインターネット回線を経由して、神に届く仕組みだ。ネットから隔離されている居住地の人々に祈る手段は失われているが、それでも人は祈らずにはいられない。宇宙教の三神、「導製神」「仲裁神」「地を歩く者」もキリスト教の「ヤハヴェ」「イエス・キリスト」「預言者」になぞらえ得るし、「形相破壊者」についての議論は、悪魔についての神学的な論争と同じだ。人間は「極限の神」を既に手にしているのかも知れない。
「2105年」頃の銀河系宇宙。そこには「フリーネットワーク」と称するインターネット網はあるがパソコンが無い。ケータイ、スマホもなく、探検に出かける登場人物たちはトランシーバーがないのを悔やむ。録音再生ギアもHDDやフラッシュドライブではなく磁気テープだ。今読んでみて、作家の未来予想力の限界を笑ってしまうところもある。ここはむしろ現実世界の、SF作家の想像力をはるかに超える技術進歩の速度に驚くべきであろうか。
とにかく物語の始まりは、22世紀初頭の地球は既に人が住む惑星ではなくなり、20世紀人の子孫たちは地球を知らずに、銀河系の他の星や宇宙船の中で暮らしている。それらのあちらこちらから14名の男女が「デルマク・O」という宇宙最果ての惑星植民地への移住に志願し、片道分の燃料しか積めない小型宇宙艇で到着するところからである。
この移住者たちだが、経歴が異常である上に性格も異常とされる(カッコは「語り」が付けた性格)。博物学者(アル中)、言語学者(薬中毒)、海洋生物学者(過食症)とその妻、居住地管理人、神学者(幻想病)、プラスチック工学者、医師(心気症)、心理学者、写真家兼土壌専門家(分裂症)、コンピュータ技術者(発明狂)、超高齢の社会学者(110歳?)、タイピスト(セックス狂)、経済学者(潔癖フェチ)。
発令者が何を目的に彼等を選んだか全く判らす、その上、全員が揃った後で聞かされるはずの指令が録音機の「故障」で消えてしまう。交信するには余りに遠い宇宙の果て。彼等は自分たちが「落ちこぼれ」で故意に遺棄されたと感じざるを得ない。
ここまで読んで気づくことは、この小説の元ネタだ。ジューヌ・ベルヌの『十五少年漂流記』(1888)やウイリアム・ゴールデングの『蠅の王』(1954)の他に、居住地の外にある「ビル」を目指して入れないシーンは、カフカの『城』も思い出させ、一人ずつ団員が殺されてゆくシーケンスは、アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』(1939)を彷彿とさせる。剽窃を非難しているのではない。テクスト(小説)とは本来「先行テクストの再構成」(間テクスト理論)であるとされているのだから。それ自身に読み応えがあれば良い。
もう一つ気づく点は、登場人物が本当に「異常者」であるかという疑問である。この程度の性癖は誰もが持っており、あの程度の自己中心主義、他人への無関心等は普通人程度だ。一人一人を観れば理性的に振る舞おうとしている知識人の彼等が、人間精神の「低位」に当たるとは思えず、彼等を異常と決めつける現代人の方がよっぽど異常でないのか、と考えさせられる。それとも1970年代から2016年の間に人間全体が「低位」に落ち込み、彼我の違いが判らなくなったとでも言うのだろうか。
とにかく団員の相互疑惑と相互不信のために人殺しが人殺しを産んでゆく。さらにはこの惑星にいないはずの外部者の侵入があり、宇宙最果てのデルマク・Oに居るはずの入植者たちは、実は廃棄されたテラ(ギリシャ語で怪物の意)と呼ばれる地球に来ていること、等々が段々とネタバレされて行き、さらにそれすらも「脳重合の融合意識」と教えられ、さらにそれすらも……と、物語は二重三重の「マトリューシカ構造」になっていて、最後は馬鹿馬鹿しくなるが、筋書きのどこで止め、どこを読むかは読者の読書力だろう。わたしには「人間は何時の時代になっても変わらないものだ」、という陳腐ともいえる慨嘆が強く残った。
面白かったのは、宗教に関する記述である。22世紀、地球の既成宗教は消え去り、新たに「宇宙教」とも言うべき信仰が創造されている。人々の祈りはインターネット回線を経由して、神に届く仕組みだ。ネットから隔離されている居住地の人々に祈る手段は失われているが、それでも人は祈らずにはいられない。宇宙教の三神、「導製神」「仲裁神」「地を歩く者」もキリスト教の「ヤハヴェ」「イエス・キリスト」「預言者」になぞらえ得るし、「形相破壊者」についての議論は、悪魔についての神学的な論争と同じだ。人間は「極限の神」を既に手にしているのかも知れない。
2013年8月7日に日本でレビュー済み
私のポリシーとしてストーリーに言及するのは控えます。
本編の謎が謎を呼ぶ強烈なサスペンスや、めくるめく奇想天外な展開に「予備知識」を与えることは読者の快感を減ずるばかりで、読書のガイドどころか「害読」になるので。
この作品でもディック特有の「何が現実で何が幻想なのか?」という問いかけが登場人物達によってしきりに為されます。いわゆる「現実崩壊感覚」が襲って来ます。
これを快感とするか、不快感とするか読者の側でも混乱が生ずることでしょう。
しかしディックの筆を信じ(タイプライターだけど(笑))読み進むしかありません。
やはり最後にはディック十八番の「●んで■返▲」が待っています。
これで「ホッとひと安心」する人も居れば、「えっ何だよインチキじゃん!」と不満に感じる人も居るでしょう。
人は様々ですが、実はディックの言いたいこと・メッセージは物語の中に隠れていて読者の心に何時の間にやら侵入しているのです。
「相手のことを思いやり」「仲間同士で助け合い」「信じあう心を持って人に接する」等々。敢えてひと言で言うなら「優しさ」です。
ディックは奇想のSF作家であり、各作品で独自の様々な異世界「恐怖と猜疑心の支配する世界」を作り出しましたが、その中に在っても人々は希望を失わず隣人への「優しさ」を忘れずに居ます。
これがディックの最も言いたかったことなのです。ディックの「優しさ」に是非触れてみてください。
本編の謎が謎を呼ぶ強烈なサスペンスや、めくるめく奇想天外な展開に「予備知識」を与えることは読者の快感を減ずるばかりで、読書のガイドどころか「害読」になるので。
この作品でもディック特有の「何が現実で何が幻想なのか?」という問いかけが登場人物達によってしきりに為されます。いわゆる「現実崩壊感覚」が襲って来ます。
これを快感とするか、不快感とするか読者の側でも混乱が生ずることでしょう。
しかしディックの筆を信じ(タイプライターだけど(笑))読み進むしかありません。
やはり最後にはディック十八番の「●んで■返▲」が待っています。
これで「ホッとひと安心」する人も居れば、「えっ何だよインチキじゃん!」と不満に感じる人も居るでしょう。
人は様々ですが、実はディックの言いたいこと・メッセージは物語の中に隠れていて読者の心に何時の間にやら侵入しているのです。
「相手のことを思いやり」「仲間同士で助け合い」「信じあう心を持って人に接する」等々。敢えてひと言で言うなら「優しさ」です。
ディックは奇想のSF作家であり、各作品で独自の様々な異世界「恐怖と猜疑心の支配する世界」を作り出しましたが、その中に在っても人々は希望を失わず隣人への「優しさ」を忘れずに居ます。
これがディックの最も言いたかったことなのです。ディックの「優しさ」に是非触れてみてください。
2016年5月29日に日本でレビュー済み
ディック作品としては分かりやすいほうではないかと思うのでディック入門には適してるんでしょうね、たぶん。
それでも他の作家に比べたら分かりにくいわけですが。
それはともかく、翻訳者の山形浩生の御大層な御解説は余計ですね、若造時代のものも現在のものも。
独善的で知ったかぶりで身の程知らずで気取り屋で。
それでも他の作家に比べたら分かりにくいわけですが。
それはともかく、翻訳者の山形浩生の御大層な御解説は余計ですね、若造時代のものも現在のものも。
独善的で知ったかぶりで身の程知らずで気取り屋で。
2005年4月24日に日本でレビュー済み
こねくり回して、こねくり回して、最後に「エッ」今までのなんだったの?みたいなディックな所全開だと思います。読み飛ばし感が最高。
2016年6月15日に日本でレビュー済み
書架をチェックした際、サンリオ文庫の同名の作品があったが訳者が違うので購入。
が、既読感満載でおかしいなと思ったら創元推理文庫で89年に刊行されたものであった。
巻末にはしっかり東京創元社のを再文庫化と記されてあった。。。
が、既読感満載でおかしいなと思ったら創元推理文庫で89年に刊行されたものであった。
巻末にはしっかり東京創元社のを再文庫化と記されてあった。。。