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暴走する能力主義 ──教育と現代社会の病理 (ちくま新書) Kindle版
学習指導要領が改訂された。そこでは新しい時代に身につけるべき「能力」が想定され、教育内容が大きく変えられている。この背景には、教育の大衆化という事態がある。大学教育が普及することで、逆に学歴や学力といった従来型の能力指標の正当性が失われはじめたからだ。その結果、これまで抑制されていた「能力」への疑問が噴出し、〈能力不安〉が煽られるようになった。だが、矢継ぎ早な教育改革が目標とする抽象的な「能力」にどのような意味があるのか。本書では、気鋭の教育社会学者が、「能力」のあり方が揺らぐ現代社会を分析し、私たちが生きる社会とは何なのか、その構造をくっきりと描く。
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2018/6/10
- ファイルサイズ7705 KB
- 販売: Amazon Services International LLC
- Kindle 電子書籍リーダーFire タブレットKindle 無料読書アプリ
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登録情報
- ASIN : B07DFDVRSG
- 出版社 : 筑摩書房 (2018/6/10)
- 発売日 : 2018/6/10
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 7705 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 210ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 83,851位Kindleストア (Kindleストアの売れ筋ランキングを見る)
- - 369位ちくま新書
- - 2,749位教育学 (Kindleストア)
- - 3,118位教育・学参・受験 (Kindleストア)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2023年10月5日に日本でレビュー済み
レポート
Amazonで購入
本の状態は説明通りでした。配達日も予定通りに届きました。
役に立った
2019年1月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
色々と書いていますが、本質は以下の3段に纏めらるかと思います。(とても個人的な解釈です。)
1、ヒトは物事を論理的に考えてるようで、感覚的に処理している。(c.f.ヒューリスティック処理)
2、人々は専門家に、論理的な"解説"より、共感できる"結論"を求めている。
3、エビデンスと議論を積み重ねる知性派より、大衆と政権の感覚を代弁する為にストーリー(破綻した論理)を創造する反知性派が「専門家」として支持されてしまう。
1、ヒトは物事を論理的に考えてるようで、感覚的に処理している。(c.f.ヒューリスティック処理)
2、人々は専門家に、論理的な"解説"より、共感できる"結論"を求めている。
3、エビデンスと議論を積み重ねる知性派より、大衆と政権の感覚を代弁する為にストーリー(破綻した論理)を創造する反知性派が「専門家」として支持されてしまう。
2018年8月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
かなり専門的に論じられるので、中盤から理解できないところ多数発生
教養として読もうとしても無理です
教養として読もうとしても無理です
2021年10月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「教育社会学の知識と私自身の理論的・実証的研究成果をベースにして」、著者の「現代社会像」を明らかにし、そのことで「通説的能力論を冷静に見ることができる足場を提供すること(p.7)」を目的とする。
つまり、現在進行形の種々の教育改革のバックグラウンドともなる「能力」観について論じるのだが、「能力とは何か」とか「これから必要な能力とは何か」とか「能力をどう育てるか」等を論じるのではなく、「なぜ社会において(こんなにも)能力が論じられるのか」を論じる。議論の枠組みを能力をめぐる通常の議論からずらすわけだ。そのあたりが鮮やか!
著者の結論は、「いま人々が渇望しているのは、『新しい能力を求めなければならない』という議論それ自体(p.24)」であり、それは現代(後期近代)において「メリトクラシーの再帰性」が高まってきているからだということになる。そして、そのことを5段階のステップ―それはpp..47-48に5つの命題として示される―で順次証明していくというのが本書の中身である。
「多少の社会的メッセージを含んではいるけれども(p.7)」
と著者は控えめに記すが、
「多くの人たちが『新しい能力』だけでこれからの時代を回していけると本気で思っているとも思えない。(p.203)」
「今日頻繁に見受けられるようになった『新しい能力』論現象の本質は、新しい選抜原理の胎動ではない。そのような名案など誰も思いついていないにもかかわらず、既存のメリトクラシーを批判し、どこかで聞いたことがあるような陳腐な能力論をあたかも立派な代案であるかのようにして振りまわさざるをえなくなっている……(p.217)」
「……私たちが『新しい能力』を求めて右往左往すること自体が、後期近代の再帰性に伴う麻薬的作用であるかもしれない可能性を察知し……(P.233)」
など、いわゆる「新しい能力」論について著者はかなり辛辣である。
大学入学共通テストの「英語民間検定試験の利用」「記述式問題の導入」をめぐるドタバタとか、PISAの結果をめぐる大騒ぎとかの正体などが、本書を読むとスッキリと見えてくる。こういう教育改革等々に真面目に付き合うのが嫌になってきた(もともと嫌だけれど)。斜に構えておいた方がよさそうだ。
つまり、現在進行形の種々の教育改革のバックグラウンドともなる「能力」観について論じるのだが、「能力とは何か」とか「これから必要な能力とは何か」とか「能力をどう育てるか」等を論じるのではなく、「なぜ社会において(こんなにも)能力が論じられるのか」を論じる。議論の枠組みを能力をめぐる通常の議論からずらすわけだ。そのあたりが鮮やか!
著者の結論は、「いま人々が渇望しているのは、『新しい能力を求めなければならない』という議論それ自体(p.24)」であり、それは現代(後期近代)において「メリトクラシーの再帰性」が高まってきているからだということになる。そして、そのことを5段階のステップ―それはpp..47-48に5つの命題として示される―で順次証明していくというのが本書の中身である。
「多少の社会的メッセージを含んではいるけれども(p.7)」
と著者は控えめに記すが、
「多くの人たちが『新しい能力』だけでこれからの時代を回していけると本気で思っているとも思えない。(p.203)」
「今日頻繁に見受けられるようになった『新しい能力』論現象の本質は、新しい選抜原理の胎動ではない。そのような名案など誰も思いついていないにもかかわらず、既存のメリトクラシーを批判し、どこかで聞いたことがあるような陳腐な能力論をあたかも立派な代案であるかのようにして振りまわさざるをえなくなっている……(p.217)」
「……私たちが『新しい能力』を求めて右往左往すること自体が、後期近代の再帰性に伴う麻薬的作用であるかもしれない可能性を察知し……(P.233)」
など、いわゆる「新しい能力」論について著者はかなり辛辣である。
大学入学共通テストの「英語民間検定試験の利用」「記述式問題の導入」をめぐるドタバタとか、PISAの結果をめぐる大騒ぎとかの正体などが、本書を読むとスッキリと見えてくる。こういう教育改革等々に真面目に付き合うのが嫌になってきた(もともと嫌だけれど)。斜に構えておいた方がよさそうだ。
2019年7月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
受験業界、就職業界、そしてビジネスの世界では、「これまでの教育がどんなにダメで」「本当に求められる能力を測ったり育てたりすることができていなくて」、「もっと新しいやり方で、新しい能力を測ったり、育てたりする必要がある」ということが、まことしやかに語られます。
しかし、それは本当なんでしょうか?
私が以前から感じていた、このような言説への違和感の正体を、この本は明らかにしてくれた、と感じています。
そもそも、どんな能力も、厳密には測定することなどできないのです。ある算数のテストで満点を取ったとしても、それはその時その人がそのテストで満点を取ったという事実があるだけであって、その人の「能力」という正体のわからないものがわかったわけではないのです。
私の例えではなんだかよくわからないかもしれませんが、本書ではもっと詳しく丁寧に説明されています。
そして、「◯◯という教育はダメだ」という言説は、そういう教育を受けた人がかなりの多数存在しなければ、起こりえません。これと、そもそもどんな能力も厳密には「測定することができない」という前提を組み合わせると、どんな種類の能力測定手段も、一定数受けた人がいれば、必ず「こんな教育(又は能力測定方法)ではダメだ」という議論が生じることになります。
これが、「◯◯教育はダメだ」「新しい能力を持つ人を」「新しい教育を」という議論が、ずーーーーーっと繰り返される理由なのです。
じゃあどうすればいいのか。
短いですが、それにもきちんと結論が示されています。
皆さんに自分で見てほしいので、このレビューではそれは書きません。
是非読んでみてください!
しかし、それは本当なんでしょうか?
私が以前から感じていた、このような言説への違和感の正体を、この本は明らかにしてくれた、と感じています。
そもそも、どんな能力も、厳密には測定することなどできないのです。ある算数のテストで満点を取ったとしても、それはその時その人がそのテストで満点を取ったという事実があるだけであって、その人の「能力」という正体のわからないものがわかったわけではないのです。
私の例えではなんだかよくわからないかもしれませんが、本書ではもっと詳しく丁寧に説明されています。
そして、「◯◯という教育はダメだ」という言説は、そういう教育を受けた人がかなりの多数存在しなければ、起こりえません。これと、そもそもどんな能力も厳密には「測定することができない」という前提を組み合わせると、どんな種類の能力測定手段も、一定数受けた人がいれば、必ず「こんな教育(又は能力測定方法)ではダメだ」という議論が生じることになります。
これが、「◯◯教育はダメだ」「新しい能力を持つ人を」「新しい教育を」という議論が、ずーーーーーっと繰り返される理由なのです。
じゃあどうすればいいのか。
短いですが、それにもきちんと結論が示されています。
皆さんに自分で見てほしいので、このレビューではそれは書きません。
是非読んでみてください!
2019年8月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
能力は正確に測れないこと、常に見直される社会的理由があることなどが論理的に語らられています。メリトクラシー、能力主義のことや再帰性、見直されることなどがでて、難しくも感じられますが、筆者は論理的に述べていて読み応えのある本。
2018年8月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
現在、大学入試制度が強権的に変えられようとしており、その背後には、「大学入試は知識の暗記=再生に偏っている」という誤った認識があるだけでなく、社会でも、「学力ではなく、コミュニケーション能力や人間力が重要だ」と言われ、「キーコンピテンシー」「非認知能力」等がもてはやされる。著者は、こうした「能力の問い直し」を、後期近代社会に固有の「メリトクラシーの再帰性」という視点から分析する。前近代の階級社会・身分社会では、社会の支配的地位やポストは特定階級の世襲であったが、近代以降は、「能力のある人が支配的地位に就く(=メリトクラシー) 」のでなければ皆が納得しない。それで、大学進学率が非常に低い間は「能力のある人=高学歴の人」という「基準」が通用していたが、情報化の進展と大学進学率の急上昇により、その基準が懐疑に曝されるようになった。それが「学力より人間力」という短絡した発想である。「21世紀のグローバル化時代に、誰もが持つべき新しい能力」などとも言われるが、著者は、そのような抽象的能力は存在しないし、その多寡を測ることもできないと主張する。そもそも「個人の属性」としての「能力」などは存在しない。なぜなら、能力というものは実際に成果を上げることによってしか存在を証明できないが、成果が上がるかどうかは個人を超えた文脈によるからである。「非認知能力」と言われる「根気強さ、注意深さ、自信」等は個人の属性とは言えない。誰でも、好きな事なら根気強く続けられ、調子がいいときは注意深いし、得意な事なら自信をもっている。「キーコンピテンシー」が重視する「コミュニケーション能力」も、ロビンソン・クルーソーにはそもそもコミュニケーションする場がないし、一日を孤独な作業で過ごす職人とセールスマンではコミュニケーションの在り方がまったく違う。コミュニケーションとは人と人との関係性だから、その文脈から独立した個人の属性としての「コミュニケーション能力」なるものは存在しない。にもかかわらず、「本当の能力」なる神話が繰り返し喧伝されるのは、我々の社会が、良いポストをめぐる競争社会であり、我々は、さまざまな場面で思い通りに事が運ばないと、「自分の能力が足りないのでは」と悩むからである。本書は、こうした「メリトクラシーの再帰性」を、専門家システムへの信頼性や、高校入試の内申書重視、企業の指定校制度廃止などと合わせて考察する。大学教育における「能力の涵養」という問題に、もう少し踏み込んでほしかったが、本書は原理的な考察が光っている。
2018年10月10日に日本でレビュー済み
能力主義の時代だといわれるが、それはいわゆる学力偏重からの移行だと一般には認識されている。
だが、「かつてはガリ勉は高く評価されていたけれども、最近では勉強ではだめで、人間性とかコミュニケーション能力などの否定形な能力が評価されるようになりつつある」といった議論は何も新しく始まったことではない。
実は、「新しい能力」としてあげられるのに近い能力感というのは、かなり古くからみられる能力感というのが著者の開設するところだ。
つまり、時代はいつの時代も新しい能力を求めてきたということだ。
それに合わせて教育も新しいの力に適合して変遷を繰り返してきた。
だが、学校教育に取り入れたとたん、学力として測るということが必要となる。
能力は測れるものだということが前提となっている。
だが、いかなる抽象的能力も厳密には測定することができないのである。
能力をめぐる議論はなぜ起こり、どこに向かおうとしているのか。
哲学的で難解な議論ではあるが、考えるきっかけになるだろう。
だが、「かつてはガリ勉は高く評価されていたけれども、最近では勉強ではだめで、人間性とかコミュニケーション能力などの否定形な能力が評価されるようになりつつある」といった議論は何も新しく始まったことではない。
実は、「新しい能力」としてあげられるのに近い能力感というのは、かなり古くからみられる能力感というのが著者の開設するところだ。
つまり、時代はいつの時代も新しい能力を求めてきたということだ。
それに合わせて教育も新しいの力に適合して変遷を繰り返してきた。
だが、学校教育に取り入れたとたん、学力として測るということが必要となる。
能力は測れるものだということが前提となっている。
だが、いかなる抽象的能力も厳密には測定することができないのである。
能力をめぐる議論はなぜ起こり、どこに向かおうとしているのか。
哲学的で難解な議論ではあるが、考えるきっかけになるだろう。