『考える足』(向井雅明著、岩波書店)を読む。
大脳生理学や画像診断学分子生物学などの進展によって急速な進歩のみられる脳科学の隆盛で人間の思考や感情を唯物的に解釈する動きがひろがる中、論理的還元的思考とは異なる”主体”的思考というものがあると著者は主張する。その”主体”とは精神分析学的主体であり、本書ではフロイトラカンを主軸として人間の主体的次元における真理とはどういうものかを説明し、精神分析による治療は何を目指すのかを解説している。脳科学的脳による思考に対置される思考をする存在として「考える足」である人間がいるわけだ。ここでいう主体とはけっして能動的な自我ではなく、言語というものに従属している存在としての主体であり、「他者」の欲望を読み取りそれを満足させるよう駆動されつづける(享楽を求め続ける)主体である。言葉というトラウマ(バディウ的「出来事」)に出会ってしまった寄る辺なき人間がより自分をひきうけより自分になりゆく営みが生き続けることであることを著者は静かにしかし力強く語っている。
終章での√2の比喩が印象に残った。

精神分析はその逆に、患者が自分の人生を捨てず、引き受けられるようにするために存在する。人間にとって「言語との出会い」が真の「出来事」である以上、そして人が言語世界に行き続ける以上、新たなものに出会う度に、それが「出来事」となる可能性がある。人生を正方形に喩えれば、その四辺を歩むことは順調な道行きと言えるだろう。しかし、時として人は「対角線」という迷路にぶつからざるをえない。その長さは永遠に測定することができず、均整がとれていたはずの正方形の人生に、大きな不安と問いを投げかける。分析の場は、こうした問いに苦しみ、身動きのとれなくなった人たちを、それぞれの対角線に向き合わせ、それぞれの√2を見いだせるよう導いてゆく。

関連する本:『ラカンラカン』(金剛出版)、『ラカン精神分析入門』(誠信書房)、『集中講義精神分析』(岩崎学術出版社

考える足――「脳の時代」の精神分析

考える足――「脳の時代」の精神分析