『人はみな妄想する』(松本卓也著、青土社)を読む。
神経症と精神病の鑑別診断という点に焦点をあてて、ラカンの思考の変遷を丁寧にたどる内容でした。この二つの疾患を鑑別するという臨床上重要かつ実践的な視点がラカンと著者で共有されているため、ラカンの思考の変遷の理由がよくわかる記述になっています。現代思想の専門家が解説したものはしばしばこうした視点が抜け落ちて、いきなり核心部分を解説するので難解になってしまうのでしょう。とはいっても第三部の鑑別診断「以後」の思想になるとやはり難しいのですが。患者と向き合う上で普遍的な理論に立脚しつつも実践の時々に立ち現れる特異性=単独性を尊重するというパラドクスをかかえながら行う精神分析という作業は、人間を相手にする営みであれば共通するものなのかもしれません。このパラドクスは、「言葉」というものを存在に埋め込まれてしまった人間の宿命なのでしょう。

『100のモノが語る世界の歴史』(ニール・マクレガー著、筑摩叢書)を読む。
三巻本と大部な書物で、初版が出たとき(2012年)は、やり過ごしていたのですが、このたび大英博物館展が開催されることで写真付きのカバーが装幀されたのを手に取り、購入しました。2010年にBBCラジオで放送された番組の記録をまとめたものということです。展示品を紹介してくれるのは大博物館館長です。一品一品の記事に著者の解説とともに、その時代に詳しい専門家がコメントを述べており、楽しく読める構成になっています。最古のものは約200万年前のものとされるオルドゥヴァイの石器で、最新のものは2010年のソーラーランプと充電器です。空間的にも五大陸遍くカバーする形で収蔵品が紹介されており、日本からの収蔵品は、縄文時代の壺、銅鏡、柿右衛門の象と北斎の「神奈川沖浪裏」が取り上げられています。読み進めていくにつれて語られるのが現実の話ではなく、どこか遠い虚構の世界の物語のような錯覚に陥る不思議な感覚になりました。毎晩寝る前に一品ずつ記事を読めば百夜楽しめます。

『気候変動を理学する』(多田隆治著、みすず書房)を読む。
同社から刊行されている『植物が出現し、気候を変えた』を読んで、地質時代の気候変動のことを知ろうと思って読みました。著者の専門は、古気候学、古海洋学で最近はタクラマカン砂漠の黄砂の研究に従事されており、本書はサイエンスカフェで一般の方を対象として行われた講義がもとになっています。最初に地球表面の温度が何によって規定されるかの話から始まり、過去の地球の気候変動を講義していきます。対話形式(聴講者のレベルも高いです)なので読みやすく構成されていますが、レベルは決して低くしてはいないので、この分野に馴染みがない私には少しとっつきにくいところもありました。全球凍結の話題も取り上げられ、地球の二酸化炭素濃度がどのように変動したのか、そしてそれがどのような事実に基づいて推測されるのかが説明されます。炭素の循環について、生物ポンプ、アルカリポンプ、炭酸塩ポンプというものがあり、このポンプの駆動力は地球の深層水循環の変化が関係しているらしいという話があります。地球温暖化の議論がさかんですが、変動をどの地域のどれくらいの期間について議論するのかが大切だということがわかります。映画『デイ・アフター・トゥモロー』のどの程度までがほんとうらしいかという話もそれまでの講義をまとめる形で取り上げられており、聴講者(読者)を飽きさせない工夫がされています。最後は太陽活動と気候変動の話で終わります。地球温暖化など、巷に賛否が分かれている議論がでは手間はかかるけれど、基礎的知識をしっかり理解することが重要であることを教えてくれます。解説は分かりやすいのにこしたことはありませんが、物事を単純化しすぎる議論には注意が必要だということも著者の講義の姿勢から伺えます。ソフトカバーで手に取り易い本ですが、内容はとてもしっかりしていて、説明と図を何度も往復しながら読みました。

気候変動を理学する―― 古気候学が変える地球環境観

気候変動を理学する―― 古気候学が変える地球環境観

『植物が出現し、気候を変えた』(D・ビアリング著、みすず書房)を読む。
著者はシェフィールド大学の動植物学部門の教授で、専門は植物学と古気候学ということで、話題はカンブリア紀から始まり、新生代に至るまでの植物の進化と気候を含めた地球環境の変化の話です。動物、特に恐竜を中心とした本はよく目にしますが、植物が主人公ということで手に取りました。オリバー・サックスさんも今年のノンフィクションのベストワンと推薦してましたし。
なるほど読んでみると非常に面白い話題が満載でした。化石になった植物を科学するのに、進化生物学や古気候学といった分野の知見が加わることで豊富な情報が新たに得られるということにまず感動します。物言わぬ化石がこれほどまでに饒舌になるとはという感想です。 第1章では、植物が二酸化炭素を大気中から除くことで地球の気候を変化のさせ、それがひいては葉の形態に変化を与えたということが紹介され、第2章では酸素濃度の変化と生物の影響が取り上げられます。第3章はオゾンと地球環境の話です。過去にもオゾン層が破壊されたかも知れないという興味深い話題に加え冒頭のケンブリッジ大学の試験のエピソードが秀逸です。第4章になると地球温暖化と恐竜の出現の話になり、第5章は南極はかつて温暖だったという話です。かつてあった極地の森に関する通説が覆される話も痛快です。 第6章はでは温室効果ガスが取り上げられ、二酸化炭素以外のガスの役割をもっと考える必要があることが語られます。第7章は、光合成の話で、植物が二酸化炭素から作る分子によって分類されるC3植物とC4植物の話で後者が繁栄した理由が考察されます。第8章は全体を 通しての総括です。著者の業績を含め均等に目配りをきかせた記述で、随所に紹介される科学者たちのエピソードも面白く読めました。なるほど科学のノンフィクションとして推薦できる一冊です。

植物が出現し、気候を変えた

植物が出現し、気候を変えた

反知性主義』(森本あんり著、新潮選書)を読む。
アメリカの反知性主義』(リチャード・ホッフスタッター著、みすず書房)が名著であることは夙に知っていましたが、手つかずのままでいたところ、この本を書店でみて読んでみました。本書の冒頭にもあるように「反知性主義」というのは「単なる知性への反対というだけでなく、もう少し積極的な意味が」含まれており、「知性そのものでなくそれに付随する「何か」への反対で、社会の不健全さよりもむしろ健全さを示す指標で」あったことを著者はまず述べています。具体的には、植民地時代のアメリカにあったピューリタニズムの極端な知性主義に対する反動として信仰復興運動が起こり、それに付随して反知性主義が生まれたということです。ヨーロッパという旧い閉塞した世界から脱して作られた国であるアメリカでは、聖書で説かれる神的で原初的な知へと帰ることが強調されるとともに、そこへのアクセスはいわゆる知性的な一部の人々だけではなく誰にも平等に開かれているはずだという、知性より霊性の優位が強調されます。アメリカでの政教分離政策というものが、宗教の排除ではなく、各人が自由に自分の信仰する宗教を奉じることができるようにすることを目指しており、その推進者として自由と権利侵害に対して強く反対する合理主義者がおり、他方には主流派教会から迫害を受けていた福音主義的な少数派がおり、その両者が結びついたという歴史を読むと、アメリカという国の考え方をずいぶん理解しやすくなります。後半では、反知性主義とその大衆化の歴史が語られ、これが一つのビジネスモデルとして確立していく過程もアメリカという国を理解する上で大変参考になります。「世俗的に成功しているのは神から祝福されている証拠なのだ」というなんともおめでたい信仰がアメリカをの強さの一つなのでしょう。貧富の差が拡大し、人々が平等に疑問を持ち始めた現代アメリカでこの先反知性主義がどのような道をたどるのか興味深いところです。
アメリカという国を知る上でとてもいい本だと感じました。

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

『暴力の人類史』上・下(スティーブン・ピンカー著、青土社を読む。
上巻580ページ、下巻652ページという大部な書籍で、邦題のとおり太古から現代までの暴力についての歴史を取り扱った本ですが、原題は『The better angles of our nature』とあるように、暴力という悲しむべき悪が一貫して減少してきていることを膨大なデータから示し、私たちが理性を正しく使用することでさらに希望が持てることを論じています。一般的に楽観論よりも悲観論を述べる方がこうした類の本の場合、もてはやされることが多いようですが、本書は違います。優れている点は、まず暴力が実際に減っているということを歴史的なデータを駆使して示していることです。第2章から第7章までは実にこの論証に費やされており、本論は実はここから始まります。そして次に暴力が環境と遺伝の両者が関与していることを冷静に論じており、バランスがとれており、著者お得意の進化心理学の考察が水際だっています。人間の<悪魔>としての側面には、捕食、ドミナンス、報復、サディズムイデオロギーがあり、一方<天使>としての側面には、共感、自制、道徳感情、理性があるといいます。悪の中でもイデオロギーは時に破壊的な災禍をもたらしうること、善の中では最近もてはやされている共感については限界があり、普遍化するためには理性がやはり優位にたたなければならないと論じられているのが印象的でした。また暴力が減少してきた機序については、ゲーム理論囚人のジレンマを示しながら、リバイアサン、穏やかな通商、女性化、輪の拡大、理性のエスカレーターの要因に分けて論じています。「感傷的でない歴史と統計リテラシー」に基づき、理性と啓蒙主義が暴力の減少にはもっとも大きく貢献したのだということが主張されています。暴力という人間性の歴史を論じるにあたり進化心理学という武器が遺憾なく発揮されている点が、他に類を見ない点で貴重であり有益です。今後暴力以外の人間性の歴史を論じる場合においても、こうした進化心理学的考察が欠かせなくなるだろうと思われました。間違いなく今年のマイベストブックの一冊です。

暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

暴力の人類史 下

暴力の人類史 下

『氷』(アンナ・カヴァン著、ちくま文庫)を読む。
序文に紹介されていますが、本作はスリップストリーム文学というカテゴリーに分類されるそうで、”予想を超えた事態や偶然の出来事の連鎖のうちで語られるストーリーは、実質的にプロットを欠いて”いると書かれているように、主人公は極寒の異国に少女を探しに訪れ、そこを支配している長官との間に戦いが、そして当の少女の間でも葛藤を繰り広げるという展開が次々と繰り広げられます。この脈絡のなさには読んでいて少し辟易しますが、この物語の主人公は舞台となっている氷であり、その崇高さの中で踊っている三人は、あくまで添景なのだと考えると次の小説の最後の文章にも妙に納得してしまいます。
「私にはわかっている。逃亡の道はない。氷から、私たちを最後のカプセルに包み込んでゼロに近づいていく時間の残余から、逃れるすべはない。」

『モラルの起源』(クリストファー・ボーム著、白揚社)を読む。
ヒトの道徳観がどのように進化してきたのかを考察する本を昨年末から読みました。著者は文化人類学が専門で、ヒトの利他性がどのように進化したのかについて独自の仮説を提唱しています。血縁のある者どうしでの利他性は自分の遺伝子を残す確率を増やす利益があることで説明ができますが、まったく血縁のない者を私たちヒトはどうして助けるのか。コストを少なくして利得を大きくするためには、協力はせずにただ乗りするのが一番のはずで、そうしたこずるい個体より利他性のある個体がどうして生き延びられたのかということについて、著者はこうしたフリーライダーよりも暴君的に振る舞い利益を独占する者こそが集団でもっとも問題になる裏切り者だといいます。こうした暴君は下位の者たちによって排除されてしまうので、結果的に自らの潜在的な攻撃性を環境に応じて柔軟に制御できる個体が生き延びられるようになるのだというわけです。その前提としてわたしたちは狩猟生活を営んでいるときから平等主義的傾向が遺伝的に組み込まれているのです。平等主義については著者は更新世後期タイプ(late pleistocene appropriate)の狩猟社会の事例を紹介します。こうして自らの攻撃性を適宜抑制しながら利他性を発揮する集団が選択されたということです。こそこそとただ乗りする戦略より他人と協力して暴君を排除する戦略の方が進化的にどういう条件の時に有利になるのかが明らかにされていないことと、そうした集団が他の集団より有利になるという群選択に結びつくのか明らかでないところが議論の余地のあるところだと思いますが、集団の平等主義とそれによる暴君の排除とそれに対するフリーライダーの戦略で利他性が、ひいては道徳の進化につながったという仮説はとても面白いと感じました。私たちが許されざる罪に対して死をもって応報するという制度を長らく維持していることもこうした進化的理由があるのかもしれません。死刑制度や集団の安全保障を考える上でも広い射程をもった仮説だと思いました。似たような題名ですが、ボーム著の『道徳の起源』が最近出版されたので、これも読んでみようと思います。

モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか

モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか