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2015-06-14

ふしぎの国のバード

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以前からイザベラ・バードを少しづつ読んでいて、純粋な地域文化への興味と、バードという人物への興味が半々くらいになりつつあったのだけど、ついに、バードの魅力を存分に表現する漫画が登場していた。

これ、よくバードの魅力が伝わってくる。無邪気な視点と、圧倒的な好奇心、しかし類まれな洞察力と謎のストイックさを持っている、という。もう、僕が想像していた通りのバードがいて、すごくうれしい。

 森薫の「乙嫁語り」、入江亜季の「乱と灰色の世界」などが連載されている雑誌「ハルタ」に載ってるらしい。ハルタすごいなぁ。

 しかもこれ、

 ふしぎの国のバード〜朝鮮編〜

 ふしぎの国のバード〜中国編〜

 ふしぎの国のバード〜ハワイ編〜

 ふしぎの国のバード〜カナダ編〜

 ふしぎの国のバード〜アメリカ編〜

 ふしぎの国のバード〜チベット編〜

 ふしぎの国のバード〜ロッキー山脈編〜

などなど、ほぼ際限なくシリーズ化できそうなところがおいしい。ただ、漫画→日本奥地紀行と読むのはいいと思うけど、日本、中国朝鮮チベットあたり以外は、ちゃんと読める普及版がなかったり、邦訳が微妙だったりするので、平凡社ライブラリーあたりが(別に出版社はこだわらないけど)優れた邦訳の普及版を出してくれるといいなーと思うところ。

イザベラ・バードという素敵な人物について:日本奥地紀行
中国奥地紀行

日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)

日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)

2015-05-05

中国奥地紀行

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イザベラ・バード中国旅行記。日本奥地紀行を読んで以来、バードに大変惹かれてしまった。詳しくは上記エントリを読んでもらうとして、まとめるならば、既存の価値観(≒西洋的な価値観)に囚われないし、一方でオリエンタリズムにも囚われないフラットな視点をこの時代の、しかも女性が持っているところは驚愕モノ、というところ。日本奥地紀行を読んだ後に、中国奥地紀行が平凡社ライブラリー入りして、あーこれは読まなくてはなーと思い、気がつけば1年以上が経ってしまったのだけど、ついに読めた。正直、中国のほとんどは僕にとって未知の土地だから、日本の時ほどおもしろくないかも、と思っていたが、そんなことはまったくなかった。やっぱり、バードは只者ではない。

この田舎を見たいからだ

 スタートは上海揚子江を遡上して、漢口(現在の武漢のあたり)、巫山を越えて、万県へと遡る。万県は現在でいうと、重慶の万州区のあたりなので、おそらく三峡ダムに沈んでるあたりと思う。そこから引き続き、保寧府、成都まで長江を遡る。そこから先も、もう少し、山地というかチベット高原のほうまで進むのだけど、もう、地名を見てもなにもわかんない・・・

 日本の旅より遥かに壮絶なのは、バードが道を行くと、どこでも「外国の悪魔だ!」とか「子どもを殺して食べる気だ!」みたいなことを言われるわけですよ。悪意と敵意を向けられ、石なんかも投げられることはしょっちゅうで、一度は頭に石を受けて気絶してしまう。ふつう、これ、旅をやめるよね。でも、やめない、というか、そういう選択肢がそもそもないみたい。どういうモチベーションなんだろう。キリスト教の布教や、ちょっとした興味などでできることではない。

村の長であるこの主人から「未開人(バーバリアン)」に殺されるかもしれないのになぜ旅などしているのかと尋ねられたので、この田舎を見たいからだと答えたものの、明らかに本気にはされなかった。ほかでもそうだったが、できることなら、本を書くためであり、本を書けば「高位」が与えられるのだと答えたかった。そう答えれば、彼らはよく納得したに違いない。

 「この田舎を見たいからだ」って、すごい動機だと思う。一応、巻末に「結論」みたいな章があって、中国が今後衰退していくのかどうか、とか、大英帝国としてどういう対中国戦略を取るべきなのか、とか、そういうことが色々書いてあるのだけど、これはもうぜんぶ蛇足というか、出資者に対するエクスキューズだと思っていて、バードがホントに思っていたのは「この田舎を見たいからだ」でしかないだろう。

 バードほど肝が座っているかは別として、僕も常に「良き観察者」でありたいと思っている。良き観察者は、風景から意味を抽出できる。ある風景が美しくない、という価値判断をすることは良いが、つまらない風景だと断じるのは間違いだ。つまらないのは、風景から情報を抽出できていないだけで、それは常に、観察者側の問題である。自身のなかにストックされてきた過去の風景との比較、自らが考え続けてきた文脈との照らし合わせ、あるいはそれに則った価値判断。そうしたものがあって初めて観察が面白くなる。

中国人の「ひたむきさ」について

 ・・・とまあ、読んでいくと、どうしても現実の中国との比較で読むよりも、どうしても冒険譚的な、つまりフィクションとして読んでしまう。日本奥地紀行では、「自分の知っている日本」との比較ができたが、残念ながらそれができるほど中国の内陸部のことを知らない。サンプルにできるとしたら、自身が会ったことのある中国の人たちだ。彼らと、バードの書く中国人とを比較してみることはできるかもしれない。

中国人は無学であるし、信じがたいほど迷信深い。だが、概していえば、いろいろな欠点はあるにしろ、ひたむきさという点では他の東洋民族にはないものがあるように思われる。

 とりあえず、無学であることは現代においては当てはまらないとして、常々感じるのは「ひたむきさ」という部分だ。「中国の方はひたむきだ」と言うと、必ずと言っていいほど「それは今の日本人が相対的に裕福だから、頑張らなくてもよくなったからだ」という指摘を受けるが、それはややニュアンスが異なる。ここで言う「ひたむきさ」を支えているのは、頑張ることに対して然るべきポジティブさを持っている、ということだ。

 多くの日本人は、頑張っていてもそれを表に出さないようにしたり、成果を出すことに後ろめたさを感じたりする。「頑張ってお金を得たけれど、これは本当に正しいことなのだろうか?」と自問したりするような(明らかに悪いことをしている場合でなくとも)。中国の方はほとんどこういう反芻はないように思えて、「お金を得るために努力するのは当然だし、得られたならそれは当然良いことだ」と思うようで、日本人の自省とかは、絶対に意味がわからないだろうし、わからないことは何も悪いことではないだろう。

 この考え方は裕福さに依らず、裕福になった日本人は「自分は社会に対する責任がある」と感じる人が多いように思うし、中国人は「自分はなるべくして裕福になった」と感じているように見える。ある意味、日本人も中国人も「ひたむき」ではあるけど、そのメンタルが異なるので、どういう時にひたむきでなくなるか、も異なる。日本人は「ひたむき」であることが社会的に求められているから「ひたむき」であろうとするけど、中国人は「ひたむき」であることが自身の利益と相反するなら「ひたむき」である必要はない、と考える。そういったところだろう。

 そういう意味での中国人的「ひたむき」さは、バードの見た時代も、今も変わらないのではないか。やっぱり、こういう民族(?)レベルの価値観傾向は、100年200年程度では変わらないんだなーと思う。

2015-03-08

月は無慈悲な夜の女王

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 映画化が決まったそうで。コロニー落としの元ネタとも言われる隕石落としは、今のハリウッド映画技術で映像化すれば、さぞよろしい絵と思う。ストーリー面は、いかにテンポよくできるかが課題だと思うけど。

 ハインラインの描く男性主人公って、「やたら有能だけど、一方で寂しい奴」なんだよね。「異星の客」でも「宇宙の戦士」でもいいんだけど、主人公はだいたい社会の上位数%クラスの、かなり有能な人間と思う。

 例として「夏への扉」で考えると、主人公ダンは家事用のロボットを一人で開発して、友人と会社を立ち上げるレベルの人間。でも、友人にも婚約者にも裏切られ、すべてを失ってしまう。

 「夏への扉」っていうタイトルが、そもそもかなり寂しい由来で、飼い猫のピートが「この扉を開けたら夏が広がっているんじゃないの?」みたいな感じで扉のそばにやってくるんだけど、扉を開けてやると、やっぱり冬であることを確認して、すごすごと戻っていく、というのを毎日繰り返す、みたいなエピソードによるもので、要は、なかなか幸せをつかめない主人公の心情投影なわけだ。

 本作の主人公であるマンも同じように、メチャクチャ有能な人間で、大体なんでも修理できるので、月政府では重宝されており、それを縁に、月のAIと接触することになる。で、マンは、このAIが実は人間の「意思に相当するもの」を持っていることに気づいて、コミュニケーションを取り始める。

 どっちかって言うと、マイクと名付けられたAI側が、「早く人間になりたい」みたいなことを言うので、マンが「よしよし、人間のジョークとしてほんとうにおもしろいものを教えてやろう」みたいな感じになる。AIマイクは「自分に意思があることを認めてくれる人間」を渇望していたので、マンとのコミュニケーションを何より楽しみにする。

 でもこれって、救われているのは、実はAIマイクではなくて、主人公のマンだよね、絶対。なんか月政府独立運動とかいって、教授と女の子と「組織」ごっこやってるけど、これは、あれですよね、涼宮ハルヒの憂鬱。自分の意思ではないけどSOS団に巻き込まれてしまったので、なんか一人で斜に構えてたけど、ポジションの絶対的な優位性とそこそこの頭の良さを持って、「やれやれ」とか言いながら問題を解決して、ちょっとした英雄になる話。

 もちろん、そういう自己実現というか、認めたくはないけど仲間っていうのも悪くない、みたいなテイストは、本作にはそれほど明示的に書いてないんだけど、少なくとも言えるのは、AIマイクの物語では決してなくて、主人公マンの物語だということ。

 というのは、主人公マンは物語を経て、色々変わっていく(成長といってもいい)けど、AIマイクには、そうしたティッピングポイントというか、成長が特にないから。

 やっぱりAIなので、人格を複数パラレルに保有できたり、組織のリーダーや反体制詩人としての人格を創出したり、人格イメージを映像化したりすることはあるけど、これらは全部「技術的な」話なので。

 人間として、あるいは物語としての、AIマイクの成長は一切描かれていない*1。だから、救われていたのは、自信たっぷりで、人間について教えていた主人公マンのほうであり、月政府とかAIとか言ってるけど、人間レベルで物語を見たら、仲間やコミュニケーションの大切さを確認する作業だったんだなー、と思う。

 なので、ラストはすごく、しんみりする。完全にネタバレなんだけど、月政府が独立した後に、AIマイクの人格とは連絡が取れなくなってしまう。これは、ロジカルに考えれば、AI人格の自殺だろう。政府樹立後も、AIが不正な操作を行っていたことが発覚すれば大スキャンダルであり、すべての犠牲が水泡に期してしまう。それを防ぐために、自ら渇望していた「人間らしさの追求」を永久に諦める、という、最も人間らしい行為に出た。これほど人間らしい行動はない。物語の最後で、マイクは人間になったのである。

夏への扉[新訳版]

夏への扉[新訳版]

*1:この後の段落で書いた点は、マイクの成長とも取れるんだけど、これは僕の解釈に過ぎないし、なにより物語を通して、という視点で見れば、物語のなかで、悩んで、決断しているのはいつも主人公なので……

2015-02-01

猫はささやく

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とうとう我が家にもネコがやってきた。あーかわいい。水槽やケージで飼えない生物を飼うのは初めてなので、色々お勉強中である。イヌはベジタリアンになれるけど、ネコは完全肉食動物なのでベジタリアンにはなれない、とか(ネコは必須栄養素のタウリンを体内で合成できないので、肉を食べる必要がある!)。ちなみに、カバーを外すと、おそらく原著の表紙が見え、かわいらしい。原題は"The Cat Whisperer"(意訳:猫はささやく)。いいなぁ。

ネコの性格形成

 おもしろかったのは、ネコの性格形成。ネコも人と一緒で、遺伝と環境とで性格が決まっていく。生まれつき、人懐っこいネコと、そうでもないネコがいる。一方で、幼猫期の環境次第では、すぐ怖がる子になってしまったり、愛嬌のある性格になったりと、だいぶ異なる。

 友人宅の白ネコはすごく怖がりで、僕がお邪魔すると、3〜4m離れた冷蔵庫の上まで逃げていく。しかし、これでも「まとも」になったそうで、以前は一目散に別の部屋に逃げていくほどだったという。そのきっかけは、大きな病気をしたときだという。そんなことで性格が変わるものだろうか?

 本書によると、どうやら、経験的に、そういうことはあるようだ。深刻な病気を患うと、ネコは本能的な逃走反応に従うことができなくなり、人間の世話がどうしても必要になる。そうすると、親ネコが子ネコの世話をするような関係性が再現される。人間に対して自分が恐れていたことは起きず、むしろゴハンと暖かい居場所提供してくれる存在なのだ、と。こうした子ネコ時代を追体験より、性格が変わる、特に穏やかになることがあるようだ。

ネコは家付き

 イヌは人に付きネコは家に付くという。なんとなく、動物の野生は尊重してあげたいな、と思っているので、マンションではベランダにすら出してはいけない、というのは最初少し戸惑った。里親募集の会のようなところにネコを貰いに行ったのだが、網戸には防護ネットを配置し、玄関にも逃走防止柵が必要とのことだ。確かに、生まれてから長く室内で生きてきたネコにとって、都会の野外(?)に出て行くと危険がいっぱいだろう。外との出入りがあるネコと完全室内の猫では寿命がずいぶんと違うらしい。

狩りと遊び

 うちのネコはかなり人懐っこく、初日から遊びまわっていた。成長とともに遊び方は変わっていき、今では明確に「狩り」と「遊び」が分かれている。揺れている猫じゃらし系おもちゃに飛びつくのは「遊び」だ。余力を残して飛びついたり、猫パンチをする。

 「狩り」では、すぐに飛びつかない。一定の距離を保ってから、獲物(ぬいぐるみ)までの距離を測る。物陰などに隠れるとなお良い。そこから、おしりをモゾモゾさせ(本書によれば、狩りの対象の居場所が把握できているときに狙いを定める行為)、全力で飛びかかる。獲物の動きも多様にしてやると満足度が高いようで、「瞬間的に逃げる」、「長い距離を逃げる」、「ハイジャンプ」、「クッションに隠れる」、「捕まる」などを用意してあげている。ネコ様を満足させてあげないと、夜寝るときに後悔するのはこっちなのだ。

2015-01-18

昭和史(半藤一利)

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半藤一利さんの昭和史。評判通りオモシロイし、サクサク読めた。毎晩お風呂で読んでいたけど、仕事帰りでもすっと頭に入ってくる講義スタイルはありがたい。この2巻を読むと、満州事変のあたりから、ちょうど僕が生まれる前くらいまでの歴史がパッケージされていて、「歴史」がいまの社会にどう接続しているか、というのが大変良くわかる。読む動機というか視点というかは、2つあって、ひとつは純粋に昭和の歴史っていうのがよくわからないこと。もうひとつは、どういう社会が望ましいかを考えるうえで、避けて通れないと思っていること。

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)

昭和史 戦後篇 1945-1989 (平凡社ライブラリー)

昭和史 戦後篇 1945-1989 (平凡社ライブラリー)

昭和の歴史がよくわからない

 いや、ほかの時代がよくわかっているという意味ではないんだけど、昭和って、理由やメカニズムがよくわからないんだよね。倒幕や明治維新、日清・日露戦争あたりまでは、「なんでそうなったのか?」がよくわかる(廃藩置県とか日英同盟とか、確かにそうするよね、と頷けます)んだけど、これが満洲事変あたりから「なんで?」っていうことばっかりで。「軍部の暴走だ」とか言われても、それって理由になってる?って思う。Q.プロジェクトがうまくいっていないのはなんで?→プロジェクトメンバーが暴走しているからです!→理由になっていない!、ですよね、ふつうに考えて。WHYが500回足りない、と怒られることでしょう。

 まあ、なんでわからないのかは、たぶん教えていた教師もよくわかっていないからではないのかとか失礼なことを考えていたのだけど、確かに、この時代の意思決定の仕方というのは、かなり複雑な相を為しているようで、この本のように「物語」形式で読まないことには、わかりにくいのかもしれない。

日本社会の意思決定の仕方

 どういう社会のあり方が望ましいのか、というのを常に考えているので、いまの社会がどういう経緯でできているのか、というのは当然知っておくべきことと思っている。この辺で考えていたことが近い↓

東インド会社とアジアの海
ローマというシステムの強さ
「壁と卵」の現代中国論
社会を作れなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門

 僕も転職した後から、官公庁の方と関わる機会も多くて、こんなふうに意思決定するんだーと日々新鮮に思う毎日なのだけど、やっぱり良いところ悪いところがあって、満州事変のあたりなどはもう絶対に悪いほうが出てしまっている例なわけだ。

 半藤さんは著作の最後で、歴史から学ぶべき教訓として、下の5点を挙げた。

・国民的熱狂を作ってはいけない、時の勢いに駆り立てられてはいけない
・抽象的な観念論を慎み、具体的で理性的な方法論を検討すべき
・日本型タコツボ社会における小集団主義の弊害から脱却せよ
国際的な常識をわきまえよ
・時間的空間的な広い意味での大局観をもて、その場しのぎの近視眼的な対応をやめよ

あー、でも、このポイントそのものは大して重要じゃないというか。これらは至極まっとうなことなので、関東軍でも頷くだろう。でも、意思決定の際、どういう状況になると、これらが維持できなくなるか、というのを、実際のケースをもって、追っていけるのがこの本のすごいところ。みんなこんなことわかっている。わかっているんだけど、おかしな決断をしてしまうことはやっぱりあって、大切なのは、そのとき、どういう力学が働いているか、ということだ。

三発目の原子爆弾は日本に落ちる

 やっぱり、日本という国は平時には強いけど、緊急時には大変弱い国だな、と思う。江戸幕府が、参勤交代とか土木工事を大名にやらせて勢力を削ぐ(一方で地方は安定する)とかやってたとか感動するし、戦後に一致団結して復興してきたのはやっぱり凄いと思う。

 一方で、緊急時、黒船が来てから対策を考えて、尊皇攘夷か倒幕か、なんてやってるのはどう考えても遅いし、そういうとき、幕府周りがどんな対応していたかを考えると、ちょっとやる気あるのか?っていうレベルだと思う。これは昭和でも同じで、満州事変あたりから、どうやって意思決定をしていたかを見ると、もう大変残念なスタンスで、意思決定をするのを徹底的に避け、時の勢いを借りる、空気を読む、まあそういうことだと思う。そういう意思決定をしていると、どうしても戦争には弱い。相手が論理的に判断しているのに、こちらは空気?で判断してるわけで、それは、冷静に状況を分析できているほうが勝つのではないか。

 さらに言えば、日本の社会が、自ら組織を再構成することはほとんどない。常に後手に回ってしまう。黒船が来なければ、世界の状況についていける政府はつくれないし(一方で「つくることができるポテンシャルがある」ことはかなり評価すべき)、大戦に負けてGHQ改革してもらわなければ帝国主義後の世界に対応する政府はつくれないし、原発事故が起きなければ社会制度も改革できない。

 森有正のエッセイには、フランス人との会話のなかで絶句するシーンがある。女子学生はこう言う。「三発目の原子爆弾は日本に落ちる」と。彼が絶句したのは、彼女の言葉が思いもよらないものだったかったからではない。その反対に、まったく当然のことのように納得できてしまったからだった。森有正がそのとき気づいたのは、日本社会は自ら再構築する力が大変弱いということだ。外圧や大災害など、カタストロフィックなところまで行かなければ自らを変えられないということ。

 そして、残念ながら、予言は成立してしまった。フクシマの問題は明らかに人災であって、3.11以前、津波に対して問題がないなんてことは言えていなかった。確かに既往最大潮位レベルで対策はしていたものの、2008年には15m級の津波が発生するケースでの試算が出ていた。にも関わらず、霞ヶ関では原子力関連へアプローチすべきではないなどの働きかけがあったり、どうも「ファクト」よりも「政治」を重視する動きがあったらしい。これは、広島長崎への原爆投下を「許してしまった」構造とまったく同じだ。つまり、自己言及が機能しない、ということだ。その代償を、一度焦土になる、ということで支払っているというのは、いつ考えても、納得のいかないことである。

森有正エッセー集成〈5〉 (ちくま学芸文庫)

森有正エッセー集成〈5〉 (ちくま学芸文庫)