伴読部 EXTRA 『贈与論』

 今回の伴読部はEXTRA回。第7回でないのは、この本を選んだのがメンバーではなく、伴読部そのものだから。「贈与論」を選んだ、というよりは、この流れならやはり「贈与論」は抑えておこう、という文脈が存在したのです。

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

もともとは、

『埋葬』の自己と他者を預けあう感覚は、『熊から王へ』の贈与と重なっているようにみえる。それじゃあ次は贈与と関係のあるものを、あるいは贈与から横滑りするものを指定しよう。ならば贈与経済とは違った形態のもの、貨幣経済をテーマにしよう。

ということで、なむさんが「貨幣論」を提示したときに、「贈与論」もありか?という話は挙がっていた。僕にとっては貨幣経済/贈与経済という切り分けはよく分からないもので、そういう区分があるのかーという感じだったけど、ここへ来て、そういう切り分け方にも、少しずつ馴染みつつある。

もし細田守が「贈与論」を読んだら

 この本のテーマ設定はシンプルで、「未開な」社会において、受け取った贈り物に対して、その返礼を義務づける一定のルールがあって、それはどうやら貨幣経済の持つルールとは違うようだけど、じゃあそのルールはどんなもんでしょう?というお話。しかも、多少の解釈を含めて言うなら、どうやらそのルールは現代の(=「未開」でない)社会においても有効であって、少なからぬ影響を及ぼしてるんじゃないの、と。
 伴読部恒例の、ではないかもしれないけど、映画で例えると、サマーウォーズ。あれが贈与論的価値観マックスな感じ。おばあちゃんが各界の要人に電話するシーンは現実離れこそしているものの、あーゆーのに可能性を感じるのは、贈与経済への憧憬がかなり多くの人に残っているからだろうな。

サマーウォーズ 期間限定スペシャルプライス版 [DVD]

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まずは文化人類学的に楽しむ

 いつもだと、社会がどうあるべきか、みたいな話に展開しがちだけど、それは後に取っておいて、まずは民族学だか民俗学だか文化人類学だか、その辺の正確な分類はわからないけど、ミクロな話を楽しんでみる。ミクロとマクロと両方の視点で楽しんでいかないと、イデオロギー的なものに染まってしまうんじゃないか、と最近は思っていたり。
 いやだって絶対ふつーにオモシロイでしょ。贈り物と返礼の仕組みを解き明かすために、ポリネシアメラネシアアメリカ北西部の民族を調査するんだから。例えば、贈与論の体系を言い表すマオリ族の「ハウ」の話は、よくもまあそんなことを考えついたなあ、と思う。

あなたは私に一つのタオンガ(品物)を贈る。私はそれを第三者に贈る。その第三者は別のタオンガを私に返す。彼は私の贈り物のハウによってそうせざるを得ないからである。そして私もそれをあなたに贈らなければならない。

なぜなら、ハウを持ち続けると悪いことが起こるから、だという。こうした神話というか言い伝えというかが存在する根源的な理由は、共同体の存続のために必須だから、ということしかない。共同体どうしが緊密なリレーションをつくって、争いを回避するには、効率の良い体系であったということだ。進化論的にみて、そうでない共同体は緩やかに消滅していった、と考えても良い。こういう、具体的なぐちゃっとしたところから、普遍的な法則みたいなのを取り出すのって、すごく楽しいんだよなー。早くレヴィ・ストロースも読みたいんだけど……

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

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来たるべき社会のかたちと贈与論

究極的には、フリー、シェア、パブリックの流れに従って、世の中の価値は貨幣から貨幣でないものに移っていって、しかもそれを貨幣の循環が後押しして、世の中の価値のうち、貨幣が占める割合はどんどん小さくなる

というようなことを「貨幣論」を読んだときには書いたんだけど、イメージとしては、貨幣が登場してきたときの人類も同じようなことを考えていたのかもしれない。つまり、当時の人は「世の中の価値のうち、贈与論的なものが占める割合がどんどん小さくなって、やがてすべての価値が貨幣に取って代わる」と。
 しかし実際はそうはならなかった。もっとも直接的な例を言えば、お中元やお歳暮などの仕組みは地方に行けばしっかりと残っているし、そうでなくても旅行に行ったら周りにオミヤゲ配ったりするし、もう少し大きな話をすれば、内田樹などは「教育は贈与論だ」というし、僕もわりと納得している。というわけで、贈与経済は亡びたわけじゃなくて、どちらかと言えば目に見えにくいところでしっかりと機能し続けてきた、という印象で、それに貨幣経済モジュールが追加されたような感じ。

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

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 そうすると、社会の持つ経済はひとつじゃなくて、贈与経済とか、貨幣経済とか、評価経済とか、そういう複数の経済タイプを持てるんだ、というのがひとつの気づき。どの経済タイプが理想的なのか?という問いは間違っていて、考えるべきなのは(1)どの分野はどういう経済タイプがフィットしているのか(2)その境界をどうやってコントロールするか、という議論なんじゃないかな。
 (2)については、完全な素人考えで、読み込むべきテキストもさっぱり読み込まずにこういうことを言うのもなんなんだけど、贈与経済と貨幣経済の接続が全然うまく行ってないように思う。評価経済やらなんやら経済も良いけれども、とりあえず、今現在の問題って、両者の境界付近で生じているような気がするよね。農村の閉じた人間関係、贈与が支配する小さなコミュニティが窮屈だと言って都会に出てみたら、コミュニケーションの希薄化やら孤独死が問題になったり。
 人間どうしの価値の交換のうち、どの辺を贈与経済に担わせて、どの辺を貨幣経済に担わせて、そんでもってどうやって両者を接続するか、というあたりをデザインしないといけない。もちろん、そんなふうに「社会をデザイン」できるかどうかなんてわからないけど、理想的な社会はこういうもんなんじゃないの、というのが経済タイプを足がかりにして言語化・イメージ化できるなら、便利な概念であることは間違いない。
 どういうところに貨幣経済が適していて、どういうところに贈与経済が適しているか。モースさんの研究結果を見る限り、贈り物のし過ぎで破綻しそうなほどボロボロになってしまう(というか、それを良いこととしていた)部族もあるみたいなんだけど、それはやっぱり「野蛮」と言わざるを得ないかな。あ、これは「未開」的な意味の「野蛮」じゃなくて、中沢新一が大量消費社会をさして言うところの「野蛮」ね。やっぱり、贈与経済にせよ貨幣経済にせよ、度が過ぎればおかしなところに行ってしまうというのは、感覚的にたぶん間違いない。
 贈与経済と貨幣経済を対立させて考えてみて違いを感じるのは、貨幣経済のスタートが個人ベースなのに対して、贈与経済はコミュニティ単位で行われていることが多いということ。本書で例に挙げられる、儀式の「ポトラッチ」にせよ交易の「クラ」にせよ、単位はだいたい部族とかなんだよね。もちろん個人の場合もあるけど、現代に立ち返って考えてみたって、贈与経済が根強く残ってる部分っていうのは、個人というよりも、なんらかのセグメントとして切り取られた人のまとまり単位で、だと思う。世代セグメントとか、地域コミュニティとか、多対多。っていうふうに、意外と切り分けはできそうなんだよね。あまりすぐ結論が出るでもなさそうなので、ここら辺をゆるゆると考えていきたいな、と思っている。

赤亀さん:http://d.hatena.ne.jp/chigui/20120729/1343555574
なむさん:http://d.hatena.ne.jp/numberock/20120729/1343588316