『ダラス・バイヤーズ・クラブ』〜手段と目的〜
馬鹿のなんとやらで映画をみています。
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死ぬことを通じてしか生きることを振り返れない、人間の悲哀を描いた良作でした。
というか、これは「マシュー・マコノヒーがすごい映画」でいいと思う。すごい俳優さんだなと思いました。嗚咽を漏らせる俳優さんってなかなかいないのではないか。泣くとも、喚くとも、笑うとも違う、ため息の延長のような断末魔の声。
あとは、死なないことが目的なのか、生きることが目的なのかって、同じことのようで、違うんだよなぁと感じました。薬を飲むのが目的なんじゃなくて、それは生きるための手段なのだけど、生きられる時間が短くなればなるほど、目的と手段の距離は縮まっていく。私たちはそれほど、目的と手段の間の距離を、正確に認識してはいないのかもしれないな、とか、考えました。
で、以下はいろいろ考えて映画とは関係なくなりましたので区切っときます。
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タイミング的にいろいろ思うところはあるのですが、死を目前にしたとたん、人間の目的は、死なないことというよりも、むしろ死を忘れることにあると気づかざるを得ない。常に、目の前にあるにもかかわらず、忘れようとして逃げ続けることが生きることなんじゃないか。そういう夢をみたままでいたい。だからみんな、基本的に、生まれながらにピーターパンなんだろうと思い出すんですよね。
そこで気づいて立ち止まり、死に向かい合ったところで、それは死を先延ばしにするために生きることに過ぎず、あるいは、死ぬことをうまく受け入れるための調整期間でしかなくなってしまう。それまでずっと同じ状態にあったにもかかわらず、どうしようもない時点までこないと、気づかない。
愚かなのだけど、私もそうだけど、死ぬことはいつも忘れていて、あるいは、何かの逃げ口上としてしか使われず、ニヒリズムに陥らずにどうやって死を受け入れるのかっていうのは、ひどく難しいことだなぁと改めて思います。向かい合うと真っ暗なものに飲み込まれそうな気がして怖いんだろうなって思う。
ただ、そこで私が思いだすのは、自分が意識を持ち始めた瞬間のことで、それはほんとうに偶然起こったことだし、そのとき意識を持ち始めたのはいまの私とは違うものだったかもしれないのだけど、それがなくなる瞬間はとても衝撃に思えるというのは、実はけっこう不思議。どちらも偶然のことだし、唐突なことのはずなのに。
私は、不可逆的に、私の自意識に価値を与えてしまったので、それが消えることはとても怖いんだろうと思います。でも、それは常に当たり前のことだったし、これからも当たり前のことなので、普段は省略して生きてるんだろうと。
結局彼が死に気づいてからやっていたことも、彼がそれまでやっていたことと変わらなかったような気もするし、だとしたら、今の生き様がたぶん、死ぬ直前に変わるってこともないんだろうなと。
私はずっと劇的な変化というのを信じていたけど、変化はいつもゆるやかに起こっていて、ただ、それが唐突に現れるだけなんだと思う。つまり私たちはいつもゆるやかに死んでいっていて、その未来がたとえ輝かしいものでなくても、その間をどう埋めるかということでしか自分の自意識の価値を満たせない不自由な生き物なので、片側にニヒリズムを抱えながらも、片側では幸福な仮面をつけていきるしかない。私たちが一生にできることは限られているからこそ、私たちは社会を作ったのだし、言葉をつくって伝えることにした。私は死にも生にも意味というのはなくて、ただ死や生があると思う。でも、それは受け入れるにはあまりにグロテスクだから、一生懸命意味を与えようとしているんだと思う。その営みがどれほど虚しくても、無駄だとしても、生きることはそれ自体とても奇跡だし、ときどきは、美しく、心をうつ。