2012-05-19
■[読書メモ] ずいぶん昔に別の機会のため書いたブックレビュー 
「あさ、眼をさますときの気持は、面白い。」――そんな文章からはじまる小説に、すこんと足下が抜けた。手に取る機会を逃し知識だけ頭に蓄え、今さら読んだことないというのも照れくさい、という気持ちの裏返しだったかもしれないが、太宰治は読まず嫌いだった。メロスってなんか暑苦しそうな奴。「生れて、すみません」なんて、いけすかない。そんなイメージだけで頑に敬遠してきたのに、『女生徒』であっさり落っこちた。
朝目覚めてから夜眠りに落ちるまで、ある一日に女学生がつらつら思うそのままを書き散らしただけの短編に、なにしろ驚いた。いくら女々しく繊細だとしても、男の太宰が愛らしく子憎たらしい女学生の自意識をなぜこんなにも瑞々しく書くことができるのか。そしてこの文章は何なんだと。思わず声に出して読み、その音にまた身悶える。
文章を不十分な表現手段だと思う頃があった。だって、文字だけじゃない。漫画だったら絵も字も使える。歌にはメロディがあるし、映画なんて、映像も音楽も言葉だって! それに比べて文字だけって、なんて寂しい。足りない。もどかしい。万が一そんなことを考えている人がほかにいるなら、まず『女生徒』を読むことだ。ただ並んでいる文字が、ときに絵となり音となり、それ以上の何かをもって感覚を刺激するのを味わうべきだ。言葉の並びに、日本語のかたちそのものが持つやわらかさ美しさを視覚で再確認する。少女の独白のなんとも言えないくすぐったさを肌に感じる。目で追うだけでもわかる小気味良いリズムは、こらえきれず口に出せば歌のように流れ出すだろう。
いくら少女ぶったところで、広告一文字あたりの値段に思いを馳せ、自らの言葉はすべて他人の本の受け売りなのではと思い煩う、よく読めば随所に作家売文家太宰の心情が吐露されているようで、また面白い。だからこそ、だ。いい大人の男である太宰が少女の顔で「朝は、意地悪。」なんて書くんだから、こちらが乙女ぶってこの作品を声に出しても恥ずかしいことなどあるものか。実際女学生なりし頃が遥か遠くなっても、わたしはときどき眠る前、『女生徒』の最後の部分を口ずさみたくなる。それは、こんな風。
「おやすみなさい。私は、王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京のどこにいるか、ごぞんじですか? もう、ふたたびお目にかかりません。」
(2010年12月/太宰治『女生徒』について)
2012-04-29
■[記録] 詩人との会話 
「先生は、小説家になろうと思ったことはないんですか?」
「ないね」
「じゃあ、詩人になるっていう意識は?」
「あった」
「詩人と小説家って全然違ってさ、小説家は描写しなきゃいけないんだよ。たとえばここにフォークとナイフがあるだろう。小説家はそれだけで書けるんだ。さっき観た映画に犬が出てきたけど、詩人は犬を書くとき、ただ『白い犬』と言ってあとは想像させればいい。でも小説家は姿かたちや背景、いろいろなことを描写する」
「そっか」
「たとえばあの作家、あいつは何でもよく覚えてるんだよ。どうでもいいことを克明に覚えている。そういうところからして、小説家だね。僕は音があると書けないけど、あいつはずっとテレビつけっぱなしで、情報耳に入れながら書くしね」
「じゃあ、詩人になるのと小説家になるのって、それまでの環境や経験、読んできたもので決まると思います? それとも先天的な何か?」
2012-01-15
■[記録] つながってるかも 
金曜土曜と、一泊二日で日光へ行ってきた。その記録や写真は(気が向けば)アップするとして、ひとつ、驚いたことがある。
今回の小旅行は、古くからの友人Rがようやく大学に正規の職を得たため、そのお祝いを兼ねていた。彼女とわたし、高校時代は毎日顔を合わせていたことから、趣味嗜好が似通うのもある意味当たり前だった。大学からは別々の環境に身を置き、顔を合わせるのは数ヶ月に一度となった。一緒に過ごす時間は減ったのに、会うたび着ている服が似ていたり、同じ時期に本や映画の趣味が動いたりするのは不思議だった。
わたしが九州で暮らす間は、半年に一度ほどしか会えなかった。この頃から色や洋服、小物の好みはばらばらになっていった。映画や本の趣味で一致しないものも多く、だからこそ情報交換ができる。「面白いこと」だけでなく、互いの仕事や研究に関係しての会話で盛り上がることも増えた。わたしが東京に戻り、月に一度ほど会う時間を作るようになっても、その状況は変わらない。
東武日光駅について、友人は自動改札をそのまま抜けた。PASMOのチャージ残高の少ないわたしは、係員窓口で清算し、改札外で彼女と再合流した。
「お待たせ」と声をかけるわたしに、彼女は言った。
「ねえ、お財布、見せて」
年末にようやく希望の柄が再販され、手に入れた「文庫屋大関」の二つ折り財布はとてもかわいくて、使いはじめて以来いろいろな人に褒められる。てっきり彼女も、清算の際わたしが出した財布を遠目に見て、デザインに興味を惹かれたのかと取り出す。と同時に彼女も自身のカバンに手を入れる。
「一緒だ」
彼女は花更紗、わたしは枝垂れ花鳥、と柄こそ異なるものの、並んだ二つの財布はどちらも文庫革にうるしで彩色された、「文庫屋大関」の二つ折り財布だった。しかも、どちらも同じようにまっさら。
「学会の帰りにANAの機内誌で見て気に入っちゃって、やっと年末に買えたの」
「出張の帰りにANAの機内誌で見て気に入っちゃって、やっと年末に買えたの」
顔を見合わせて、笑った。
2012-01-07
■[記録] まだちゃんと向き合えないでいる 
十年以上前の話だけど、大学で防衛大を中退してきた女の子と友達になった。わたしが九州出身だということを知った彼女は、無邪気に「防大って、すごく九州の人が多いんだよね」と言った。端的に言葉にすると誤解を生むかもしれないけれど、そのときわたしは防衛大に九州出身の学生が多い理由を「九州は貧しいからだ」と思った。今もそう思っている。実際、祖父母の暮らす農村では、学校に進むだけの経済的余裕もなく、生活を安定させる手段として自衛隊入隊を選ぶ人が過去にもいたし、今もいる。
年末に、知人の勧めで『こども東北学』という本を読んだ。東北の農村で生まれ育った著者の体験、東北が日本の中で歴史的にどのような地位をもつどのような土地だったか。そしてなぜ福島に原発が作られ、今後福島の子ども達はどうやって彼らの暮らす場所と付き合っていくのか。学術に傾かず、率直な素朴な視点で語られる東北、日本の田舎について興味深く思うと同時に、風土も歴史もまったく異なる故郷九州が、著者山内さんの語る東北と重なって見えた。なぜわたしたちは、方言を恥ずかしく思ってしまうんだろう。そんなことすら我が身に重なり、よくわからない共感、よくわからない故郷への罪悪感、いろいろな気持ちがわき上がってきた。
昨年は、本当にたいへんな年だった。被災された方々に比べればわたしの感じた逡巡などちっぽけすぎるとわかってはいるけれど、自分なりにいろいろな価値観のゆらぎに出会い、今もそのゆらぎに向き合いたくて、多分まだ向き合いきれていない。だからまだ、何も書けないんだけど、いつか、今こうして頭の中体の中に渦巻いているものを言葉にしたい、しなきゃと思っている。
わたしはずっと都会に憧れていた。わたしが憧れ、今享受している都会的な暮らしを支えてきたのは、わたしの欲望を支えてきたものの一旦は、おそらく原子力で作られたエネルギーだった。わたしみたいな人間の欲望が田舎をどんどん貧しくさせ、そういった地域が金銭とひきかえの危険を受け入れざるを得なくなった。多分。
わたしは今、ゆっくりとでも、原発はなくすべきだと思っている。原発の電力なしに日本が立ち行くようであれば、あんなものなくしたほうがいい。ただし、もし今すぐ原発を完全に止めてしまうことで、経済や産業に大きな影響が出てしまうのだとすれば、どうだろう。経済的な豊かさと絶対的な安全のどちらを優先すべきなのかという点についてはまだ、自分の中で答えを出せずにいる。わたしは、仕事を失って苦しんでいるたくさんの人々と向き合ってきて、今も彼らの問題と向き合っている。放射能で人は死ぬかもしれない。でも、不景気で、失業でも人は死ぬ。山ほど死ぬ。そういう現実と感情の折り合いがなかなかつかなくて、結局あの日から一年近く経ってもわたしの心は宙ぶらりんなままでいる。
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2011-11-26
■[記録] 憧れのおばちゃん弁当 
わたしの勤務先があるのは所謂オフィスビル的な建物で、まあ同業というか、関連機関ばかりなんだけどいくつかの組織が同じ建物に入居している。以前伝え聞いたところだと、建物で働いている人間(テナント除く)は2,500人超、お客さんの出入りも多いので、日々ごったがえしている。
一応都心部とはいえ、商業地域まではひと駅もしくは徒歩10分弱。もうちょっと近くのお店もあることにはあるけれど、やはりお昼は混み合う。60分のお昼休みが与えられているとはいえ、なんだかんだとつぶれて丸々取れないことも多いし、休みの開始、終了前後はやたらエレベーターが混み合うから、下手すると建物を出るまで10分かかる。というわけで、人々の昼食行動は「それでも外に出て食べる組(一日建物の中にいるとうんざりするから)」と「あきらめて建物の中で食べる組(外に出るのも面倒)」に、割ときっぱり分かれている。
中で食べる組にも、テナントの食堂(社食の他に、蕎麦屋、ファストフード店等数店舗が入居)を使う派、コンビニで調達する派、お弁当屋で買う派、さまざまだ。
そもそも出不精かつ好き嫌いの多いわたしは、もっぱらコンビニか、某チェーンのサンドウィッチばかりを昼食にしていた。しかし、某チェーンは購入するのに並ぶし、ボリュームの割に安くはない。コンビニ食も飽きてくる。いつからか週の半分くらいはお弁当を買うようになった。お弁当屋さんは、物販エリアに3社がブースを出しており、400〜500円程度で買える。また、カートに乗せたお弁当をフロアを回って販売する業者が2つあり、これらは「お昼に地下までお弁当を買いに行くことすら面倒」な層に受けている。味はまあ、どこも似たり寄ったりのビジネス弁当なのだが、メニューの好み、ちょっとした値段やサービスの違いでこれもまた、人によって贔屓の弁当屋が違うのが面白い。
通称「おばちゃん弁当」と呼ばれているのは、巡回販売をしてくれる業者のうちひとつで、ショートカットの初老の女性が売り回るから、誰からともなくこう呼ばれるようになった。正式名称は知らない。他より少しだけ値段が安いことと、人懐っこいおばちゃんのキャラクターによりファンは多いようだ。隣の席の係長は、昼食代を節約するため毎日この「おばちゃん弁当」のSサイズ(350円)を食べている。彼には食べる物を携帯のカメラに収める癖があり、飲み会の料理、たまに出かけた先のランチ、本当に困窮した際の昼食である100円カップラーメンまでなんでも写真を撮るのだが、不思議と「おばちゃん弁当」だけは撮らないので、わたしは釈然としない。「おばちゃんに失礼だから、たまには撮ればいいのに」と言っても、彼はかたくなに弁当にはカメラを向けない。
「おばちゃん弁当」のすごいところは、時間が下がると値段も下がることだ。しかもけっこう適当。多分、売れ行きと昼休みの残り時間を勘案して、おばちゃんが決めているんだと思う。たまに後輩が「これ200円にしてもらっちゃった」などと喜んでいる声を聴く。さらにすごいのは、ごく稀にであるが、13時(午後の業務開始)ちょっと前に、おばちゃんがお弁当を片手に執務室に向かって声をかけるのである。「誰かタダでいいから食べない? お昼買い損ねた人とか、お腹減ってる人とか」。なんと無料配布。
そんな「おばちゃん弁当」に興味津々のわたしであるが、なぜか一度も食したことがない。というのもこの建物にやってきて最初に仕事をしたときの先輩が「あのお弁当あまりおいしくない」と言っていたので、なんとなく他業者で買う癖がついてしまったのだ。本当は買ってみたいんだけど、何年間も挨拶だけ交わして一度も買っていないのに今頃購入の列に並ぶのもなあ……という、いつの間にか芽生えた変な自尊心をクリアするのが最近の目標だったりする。
来週こそ、憧れの「おばちゃん弁当」を買ってみたい。
