ボトムアップが支える「継続の論理」

これは何も霞が関の官僚ばかりではない。私たちの市町村や区で、バブル時代に計画した豪華な文化ホールを、高齢者に支給していたオムツを半分に削ってまで着工しようとしていないだろうか。バブルが崩壊しても、市民のつましい生活と不釣り合トな豪華庁舎が全国あちこちで建設されている。中央官庁から市町村し区まで、官僚はいったん決めてしまうと見直しなどまったく念頭にない。

日本の役所は省−局―課−係といった縦系列になっている。重要なことは、官庁内部の政策決定プロセスが、上からトップダウンで降りてくるというよりは、はるかに強く下、つまり係から課−局−省へとボトムアップになっているということである。ボトムアップで、物事を決めていくプロセスは慎重であり、民主的だというメリットも多い。決定したときには正しいのであり、変更されない限り正しいのであり、したがって変更しないので正しいという「継続性の論理」が組織に組み込まれているからである。また、ボトムアップ構造は、責任を拡散させ、修正の力学を働きにくくしている。

いったん決定したことを修正したり中止したりすることは、前の決定が誤っていたことを認める、もっと端的にいえば、この決定に関与した官僚の責任を問うことになる。したがって、計画はどんなことがあろうと継続されなければならない。

継続の論理の中心にいるのが、建設官僚のなかでも、とくに実際の公共事業を取り仕切る技官たちで、その力は絶大である。ほかの省庁にはないことだが、建設事務次官には事務系と技術系の高級(キャリア)官僚が交代で就任するのが慣例になっている。農水省でも、土地改良事業を扱う技官たちは省内で「独立王国」を築き、「治外法権」になっている。

補助金については、中央集権のテコになっていること、地方自治体の地域事情に応じた自由な行政を妨げていること、政治家の介入を招いていることなど、ほぼ論議しつくされているので、三点だけつけ加えたい。