2012-05-19
■ 「ゲーマーの幸福」
- 作者: 宮内悠介
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2012/03/22
- メディア: 単行本
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宮内悠介さん『盤上の夜』について「ゲーマーの幸福」という文章を書きました。
https://docs.google.com/document/d/1Jl3hjnBggwQvwOgHI2eZnOP5VZq0aFpJvf7MjSJZtUo/edit
紹介というより作品論なので、先に『盤上の夜』を読んでから読んだ方がよいとは思います。
2012-04-21
■ 不幸の哲学 - 不幸は過去からどれだけのものを奪い去るか
本日応用哲学会で発表した資料を共有させて頂きます。
https://docs.google.com/presentation/d/1cR-JNfYBSwlc97TzyTecA4knEHFwpt02u8jrp7eoDwI/edit
20分でつめこみすぎた感と常識的な話におさまりすぎる感はありますが、おおむね話を伝えることはできたようでよかったです。
そういえばこの話は自分の中の恐怖(過去の幸福を奪い去られてしまうかもしれない)を根拠づけようという動機があったのだったが、あまり恐い感じの話にはなっていないので伝わりにくいかもしれない。
補足
4/24追加
まずこの発表については、明らかな問題点が何点かあります。多くの方から指摘されましたが、まず20分で話をつめこみすぎであること、遡及的な不幸の事例とグローバルな価値の話のつながりがわかりにくいことなど、わたしの技術的な問題もあって、わかりにくくなってしまった部分については大変申しわけありません。
以下、わかりにくい部分はなるべく補足していこうと思います。
上でちらっと触れたように、この発表の(きわめて個人的な)動機のひとつはわたしの恐怖を根拠づけることにあります。恐怖を根拠づけるとはどういうことかというと、まず、恐怖には正しい恐怖と正しくない恐怖があると考えます。たとえば、「枯れすすきを幽霊とまちがえて怖がる」のは正しくない恐怖です。なぜならば枯れすすきはわたしに危害をおよぼさないからです。この意味で、この恐怖は誤情報にもとづいた正しくない恐怖になってしまっています。
つまり、恐怖を根拠づけるとは、恐怖が正しい情報に基づいており、実際に危害をくわえられる蓋然性があることを擁護する作業のことです。
一方「過去の幸福を奪う害に対する恐怖」のようなものについては、まず、そうした害が本当に可能なのかという疑問があります。従ってこの恐怖を根拠づけるためには、まずこの害が可能であることを議論する必要があります。本発表では、「過去の幸福を奪う」という表現はややミスリーディングであるものの、この種の害は十分に起こりえるということを議論しました。
FAQ
わりと頻繁に質問された事項について、答えを用意しておきます。
Q「前半は過去の価値を奪う害について、後半はグローバルな価値について論じているが、両者はどのような関係にあるのか?」
A「過去に対し、遡及的に効果をもたらすように見える害が存在するが、よく検討すると、実際はグローバルな害であるというストーリーになっています」
Q「人生に対する欲求など完了的出来事に対する欲求は、いつ実現するのか?あるいは実現による価値はいつえられるのか?」
A「これはちょっと難しいです。答えはわりとはっきり書いてあるつもりなのですが、こういう質問を頻繁に受けたので、おそらくちょっと飲み込みづらい部分があるのだと考えられます。従って、何がわかりづらさをひきおこしているのかを含めて説明する必要があるでしょう。
「まず『いつなのか』と問いへの答えは『実現した期間全体』です。まず欲求実現による福利は欲求が実現した時点にえられるというのが一般的な方針です。これにくわえて特殊な実現の仕方をする欲求があるというのがポイントになっています。完了的出来事は、ある期間全体において実現するが、それぞれの瞬間においては実現しないという特徴を持っているため、『いつ』という問いに対してはつねに『この期間全体』という形でしか答えることはできません。
「もしこれが奇妙に感じられるとすれば、それはわれわれがつい欲求というものを『具体物に対する欲求』のモデルで考えてしまうためであると思われます。具体物については、欲求が実現したとき、欲求の対象を『所有する瞬間』がかならず存在します。たとえば『車がほしい』という欲求については、もし欲求が実現すれば、その時点以降われわれは、欲求の対象を所有します。具体物を所有するとき、当の具体物は所有者の前に完全に現前し、われわれはその具体物を意のままに扱うことができます。
「ところがこれは、抽象的な事態や命題を対象とするような欲求についてはかならずしも成り立ちません。『家から学校まで往復すること』を所有するなどということはありえないし、そもそもそれが何を意味するのかよくわかりません。こうした出来事はそもそもある瞬間に完全に現前するということがありえない種類の対象です。
「しかし、だからといって、そうした種類の出来事についてわれわれが欲求を持つのも確かだし、それが価値をもたらすというのも否定しがたいだろうというのが、わたしの主張です。
蛇足
発表直前にうっかりアリストテレスを読んで「あれ、言いたかったことぜんぶここに書いてあるわ」状態
twitterでこう書きましたが、該当箇所は『ニコマコス倫理学』の1174aです。
出来事のアスペクトと価値論を結びつけた議論はほとんどないと思っていたのですが、アリストテレスがとっくに触れていたというわけでした。
- 作者: アリストテレス,Aristotelis,朴一功
- 出版社/メーカー: 京都大学学術出版会
- 発売日: 2002/07
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すなわちまず、見るという行為は、いかなる時点においても完全であると考えられる。なぜなら見ることは、その行為の後に生じてきてその行為の「形相」を完成させるような何ものも欠いてはいないからである。そして、快楽もまたこうしたものと思われる。なぜなら、快楽とは、一つの「全体的なもの」であり、いかなる時点においてそれを取ってみても、それがより長い時間生じるなら、その形相が完成されることになる、といったことはありえないからである。まさにそれゆえに、快楽は「動き(キネーシス)」でもないのである。なぜなら、たとえば家を建てる動きのように、動きはすべて時間の内にあり、何らかの目的に向うものだからである。そして動きは、それが目指しているものを達成したときに完全なものとなる。したがって、動きが完全であるのは、それが要した全時間において、あるいは目指す目的が達成されたその時点においてなのである。
しかし、部分部分においては、またその時点においては、あらゆる動きは不完全であり、形相の点において、動きの全体とも相互とも異なっているのである。(...)
だから、これらの動きは、形相において互いに異なっており、またわれわれは、いかなる時点においても、形相の点で完全な動きを見出すことはできないのであって、もしできるとすれば、それはその動きが要する時間の全体においてなのである。
2012-03-28
■ 山口尚『クオリアの哲学と知識論証』
- 作者: 山口尚
- 出版社/メーカー: 春秋社
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おもしろかった。いわゆる「マリーの部屋」の思考実験と、それを用いた論証について、論争史を丁寧に紹介しつつ、著者自身の議論も刺激的。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%B1%8B
ひとつのラインとしてはデネットのように知識論証の欠陥を指摘する立場を受け入れ、一方で「どのようであるかについての知識」(赤いとはどのようなことか)についての分析も提示する。このあたりの議論は、ほとんど違和感なく読めた(知識が足りなくて検討できないのもある)、が問題は8章か。
■ Roger Crisp『理由と善』
- 作者: Roger Crisp
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr (Txt)
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この人の文章は教科書的に整理されてて、なかなか解説書くのがうまい気がする。とりあえず「理由」の章だけ。
理由は以下に分類されるらしい。
理由 ├─認知的理由 └─実践的理由 ├─説明的理由 │ ├─動機的理由 │ └─非動機的理由 └─規範的理由 ├─行為を基礎づける理由 └─行為を正当化する理由
認知的理由は信念の理由で、日本語でいう「根拠」。
説明的理由は「なぜその行為をしたか」を説明する理由、規範的理由は「その行為をなすべきである」理由。
あとは細かいからいいや。
■ Vorobej「過去の欲求」
Mark Vorobej (1998). Past Desires. Philosophical Studies 90 (3):305-318.
http://philpapers.org/rec/VORPD
この前の論文に引きつづき良い。過去持っていたが、現在は持っていない欲求を実現させた方がよいかという話。
この人は「させた方がよい」派。過去の欲求を今充足させることは、自己利益の向上になるという可能性を認め、その上でパーフィットの批判に答えている。
パーフィットの批判は、過去の欲求と現在の欲求を同程度に考慮しなければならないというのはばかげているというもの。一方、Vorobejの反論のひとつは、「同程度に」考慮しなければならないというのはまちがいであるというもの。
なぜならば、現在すでに持っていない欲求については、それを充足することによる満足感をえることはできない。この意味で、過去の欲求は、現在の欲求よりも優先順位が一段落ちることになる。
■ Vellman「福利と時間」
J. David Velleman (2000). Well-Being and Time. In J. David Velleman (ed.), Possibility of Practical Reason. Oxford University Press.
http://philpapers.org/rec/VELWAT
読みおわるのに一月くらいかかった気がする...。Vellmanってテーマとか関心は、すごくおもしろいと思うけど、論証とか書き方では全然感心できない。これもなかなか読むのはつらかった。混乱しているとしか思えない箇所も。
2012-03-14
■ Keller, 「厚生と目標達成」
読んだものを淡々と記録するよ。
Keller, Simon, 2004, "Welfare and the Achievement of Goals,"
http://philpapers.org/rec/KELWAT
趣旨はそれほど共感しないが、書き方はコントロールされていて、わりと好み。
目標達成説(「自ら立てた目標を、自らの努力を通じて達成することは、厚生を高める」)を擁護する論文。
おもしろかったのは、目標達成がなぜ厚生を高めるかを説明しようとしているところ
- 目標の形成にあたって、人はそれによって自身の人生が評価されることになる基準を設定する(「目標は達成できたか」という基準)
- この基準はこの人自身の内から生じたものである
- 従って、この基準を満たしたかどうかは、この人の人生がうまくいったかどうかに影響する
価値判断には、評価基準がつきものだが、ここでは一応、なぜある基準が人生の評価(厚生の評価)に関連するのかを説明しようとしているので、それはよいなと思った。
もう一点は、目標達成説が、厚生の完全な説明ではなく、厚生を高める多様な要素のひとつとしてのみ提出されているところ。
いわく、厚生という概念は、「身体能力」のような概念に似ている。たとえば、「より速く走れる能力」を身につけることは、身体能力を向上させるかもしれないが、ある面だけを向上するにすぎない。身体能力には相互に還元不可能な複数の要素がある(ex. 「重いものを持ち上げる能力」)。目標達成も、これと同じようにあるひとつの面で厚生を向上させるにすぎない。