atkonthenetの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-01-18

[] 遠近感が微妙

この記事の写真の、播戸加地さんの体格差がちょっと信じられない。特撮じゃないですよね、練習風景ですよね。

http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2008/01/18/02.html




ううん?

[] 代替わり

塩田君、がんばって!

そして土肥さんには尊敬の念をこめてきっちりブーイングを贈らせていただきます。ベルディでもがんばって下さい。

[] てにおはとびまくり


ウチダ先生危険水域

卒論四年生たちは全員無事にご提出されたようである。」であれれ?と思ったのだがそのあともえらいことになっていた。大学教授というのは忙しいのだなあ。まさか卒論の読みすぎってことはないとおもうが。



以下原文(本日11:30時点)

「ふつう」のススメ

卒論四年生たちは全員無事にご提出されたようである。

めでたし、めでたし。

最後のゼミで、ひとりひとりから卒論の自己採点をうかがいながら、私の感想を申し述べる。

読んでわかったことがある。

それは、学生諸君は卒論において個人的に切迫した問題に迂回的に触れている、ということである。

なもん当たり前じゃないかと言うなかれ。

そうでもないよ。

というのは、ご本人にとって切迫した問題に触れているなら、どうしてその卒論主題を選んだかをすらすらと言えるはずである。

それが意外なことに、それを自分では言えないのである。

それが「自分にとって切迫した問題である」ということをご本人が意識していないのである。

そういうものを何と呼ぶのか、みなさんにはもうおわかりであろう。

そう、「トラウマ」である。

抑圧された心的過程は症状として顕在化する。

卒論はその意味学生諸君の「症状」なのである。

聞いてびっくりですね。

とはいえ、病態にはかなり個人差がある。

「なるほど、私が心にかかっていたのは『このこと』だったのか」ということを卒論を書いている過程で意識化できた学生がおり、結局自分が何を書いているのかわからなかった学生もいる。

そして、この意識化の程度は、論文の「論理性」とほぼ相関している。

その論題を選んだ「ほんとう理由」を意識化すことに強い抵抗が働いている場合は、彼女たちの筆が問題の本質に近づくたびに、議論は必ずあらぬ方向に逸脱する。

だから、論述はひたすら水平的に拡散し、しばしば「トリビア的知識」が漫然と羅列されたり、支離滅裂な展開になったりする。

しかし、自分でうまく処理することのできないトラウマ的問題に取り組んでいる勇気を私は論理性と同じくらいに高く評価する。

卒業に際しての「むまのはなむけ」として、トラウマ的主題へのアプローチの仕方についてひとことアドバイス差し上げたいと思う。

総じて、彼女たちにとっての「トラウマ的主題」は自分の存在根拠にかかわっている。

当たり前と言えば当たり前である。

平たく言えば、「ほんとうの私」と「みんなが見ている私」のあいだの「ずれ」、自己評価と外部評価の齟齬に彼女たちは苦しんでいる。

もっと若いときであれば、「みんなが見ている私」の欺瞞性や演技性をカミングアウトして、「『ほんとうの私』を知って!」というような定型的な書き物になるのであろう。

だが、さすがに大学卒業時となってくると、そんな「中学生ドラマ」みたいな台詞は恥ずかしくて口にはできない。

「『ほんとうの私』を知って!」という語法そのものがあまりに定型的で手垢のついたものあることがわかってきたせいで、「定型的な言葉づかいでしか記述できない『ほんとうの私』って・・・・ほんとうに『ほんとう』なんだろうか」という疑念が兆すのである。

それよりはむしろ「みんなが見ている私」「演技している私」の方がはるかに「個性的な人間」だということがだんだんとわかってくる。

「あなたって変わってるわね」とよく言われる。

本人的には「ふつうの人」に見られるように、必死に「演技」をしているはずなのであるが、周りの人はなかなか「ふつうの人」に見てくれない。

ということは、ご本人が「ふつう」と思っている標準値の取り方が「『ふつう』じゃない」ということである。

意外なことに、個性というのは「私ってこんなところが変わってるでしょ?」というかたちでは決して表現されず、「これが『ふつう』よね?みんな、そうよね?」という無反省的な確信を通じて露呈するのである。

そのこと二十歳くらいで気がつく。

そこではじめて「みんなが見ている『ふつうのふりをしている私』」とはどういうものであるか?」というかたちの自己点検が始まる。

卒業論文はその仕上げのためのものである。

卒業論文というはフォーマットが厳密に決まっている。

どうしてフォーマットが厳密に決まっているかというと、そういう外形的なしばりをかけた方が個性が露呈しやすいからである。

「自由に書いていいよ」というようなことを言ったら、学生たちはそれぞれの「個性ゆたかな」ものを書いてくるであろうが、それはしばしば死ぬほど退屈なものになるリスクがある。

卒業論文は学術論文であるから、多くの人から(少なくとも指導教員からは)「たしかにこれはだいじな問題だよね」という同意が取り付けられる見通しがないと書き始められない。

そして、「この問題にはみんなも関心を持っているに違いない」という「ふつうの選択」において個性は際だつのである。

というわけであるから、これから卒業する諸君に申し上げたいのは、「心おきなく『ふつう』にしていなさい」ということである。

諸君にとっての「ふつう」は諸君のいちばんすなおな演技であり、けれんのない作品である。

「ふつう」を通じて諸君の「唯一無二性」はもっとも鮮やかにその輪郭を表すであろう。

グッドラック