Hatena::ブログ(Diary)

atsushiの日記

2018-08-11

夏休み。

なので、当分お休みします!

2018-08-10

テント村。

春先の沖縄出張の際に、高江のテント村を通った。あの、辺野古への基地移転に反対する人たちが暮らしている場所のことだ。

道路脇にバラックが建ち並び、色とりどりののぼりがはためく。ガードレールにも横断幕が貼られている。平日の昼間ということもあって、人は疎らであった。

翁長知事が亡くなられた。最近沖縄に通いはじめた身としても、沖縄沖縄を巡る動きには複雑な思いを持っていた。持たざるを得なかったと言ってもいい。そして、今年の春に体調を崩したという報に接してからは、彼が背負っているものの重さに、いたたまれない心持ちであった。本当にゆっくりと、魂を休めてもらいたい。

テント村の人たちはどうなるだろうか、そして沖縄市井の人たちはどういう判断をこれから下していくだろうか。全てはこれからもう一度動きだしていく。ムーヴメントによって、辺野古移転が撤回されるシナリオもあるだろうし、その逆もあるだろう。誠実に、丁寧に行動を積み重ねたその先に、運命は転ぶはずだ。

2018-08-09

よみがえる。

ふと本棚の古い本を手に取ってパラパラとめくる。昔バックパックを担いで東南アジアをふらふらしていた頃によく読んでいた下川裕治の本である。いまとは隔世の感もあり、懐かしさを覚えながら読んでいた。そうして、裏表紙に目をやると黄色い「よみがえる」と印された100円の値札。

この名称は通っていた大学の近くにある古本屋のものだ。そしてどうやらこの店は僕が大学を卒業してから数年経って閉店したようだ。

値札をまじまじと眺めると、あの日あの店でこの本を手にとって、同じように値札を眺めていた過日の自分が思い出されるようでむず痒い。おそらく店の名前は、古本が新しい持ち主の手に渡ることをなぞらえて名付けられたものなのだろうが、いまここにきて別の意味で記憶がよみがえる。

おそらく僕の本棚によみがえるの値札が貼られた古本はあと何冊か残ったいて、何年かごとに気がつくたびに、淡い記憶が呼び起こされるのだろう。

2018-08-08

瞬間。

相変わらずの猛暑が続いた先日、帰り道の電車に揺られているとふっと車内の灯りが消えた。それとともに勢いよく音を立てて動いていた空調も止まった。電車自体は変わらず動いている。

なにが起こったのかとびっくりして、思わずつり革をぎゅっと掴んだ。周りを見ると、思ったよりもみな落ち着いている。わずか数秒で、灯りがつき、空調が復活した。ドア上のデジタルサイネージは、リセットされたのか、初期画面が映し出されている。

電車はなにもなかったかのように駅のホームに滑り込み、ドアを開ける。乗降が終わりドアが閉まるとまた走り出した。なんだったのか、振り返るまもなく世界が回っている。

ふと残ったのは、空調が切れた瞬間の感覚だ。わずか数秒で、空気がもわっとした気がした。西日がきつく差し込む満員電車で空調が切れてしまうと、たちどころに空気は変質するのだ。なんとも細い綱の上で、僕たちは暮らしているものだ、とつくづく思う。

2018-08-07

異常気象。

京都方面へ。関東よりも暑さが厳しい。もはや熱いという表現のほうがしっくりくるくらいだ。まるで空気が歪んでいるような感覚になる。それでいて、屋内に入るとしっかりと空調が効いているのだから不思議なものだ。

それにしてもこの夏の異常気象はなんだろうか。猛暑台風が交互にやってくる。中庸な天候の日がまるで少ない。ここまで厳しい気候になると、夏の過ごし方自体このままで良いのか、という心持ちになってくる。

この異常気象の原因は、単に、太平洋高気圧とチベット高気圧の動静が特殊だからということだけでは片付けられないように思っている。 非科学的ではあるが、なにか天からのメッセージがこめられている気がしてならない。

これから先、もっと夏は厳しい季節になっていくのだろうか、それとも、小氷期が訪れて猛暑もひと息つくのだろうか。人類はこの暑さをイノベーションで乗り切れるものなのだろうか。なんだかいろいろと考えこんでしまう。

2018-08-06

試験。

週末は資格試験だった。2日間みっちりとマークシートと向き合ってきた。なんというか、iPhoneも電源を切って、ひたすらに紙で配られる問題用紙と格闘するというのも新鮮である。資格試験自体は久しぶりではないのだが、複数科目を立て続けにこなすというのはもしかすると大学入試以来になるかもしれない。1日目の帰り道はさすがに脳が疲れていた。

2日目はそれなりに慣れてくる。そして集中力の高め方もなんとなく昔の方法を思い出してくる。たとえば90分の試験にしても、最初から最後まで雑念なく取り組める人はそんなに多くない。意識が外に飛んだり、緊張したり焦ったりすることで思考がループしたりしそうになるときに、どれだけ早く我にかえって目の前の問題に戻れるか、初見で判断がつかない問題に引きずられずに安定的に問題を消化できるか、最後の2択で迷ったときに思い切りよく決断できるか、こういう時々の捌きの感覚は、仕事にも通ずると思う。結果はたぶんダメなような気もするが、それならそれでまた来年もチャレンジするのみだ。

2018-08-05

夏祭り。

地区の夏祭りに行った。いま住んでいるところには寺社はほとんどないので、お祭りといっても町内会が企画して小学校の校庭で行うようなものだ。テキ屋ではない地元の方による夜店が出て、盆踊りの櫓が組まれてそれっぽい雰囲気が出ている。昼間は暑かったものの、夕方になると涼しい風が吹いて、水色からだんだん藍色に変わっていく空に櫓の装飾が映えて綺麗なものだ。

そんなに大きく宣伝されているものでもないのだけれど、同じマンションの人や幼稚園の同級生のお家の人の顔も見える。盆踊りの曲はなじみのないものだけれども、子どもたちは見よう見真似で踊りの輪に加わっている。

完全なニュータウンに思えたこのあたりにも、町内会があって、夏祭りを企画する人がいて、実際にたくさんの人がわんさかと集まって楽しんでお金も落としていく、ということになんだか感動してしまう。これは日本人ならではの、遺伝子に刷り込まれた習性なのだろうか。

2018-08-04

ゾーン。

右肩上がりの成長の時代が終わったあとになにをすべきか、という問題がある。これに対してはいくつかの選択肢があると思う。

ひとつは、より小さな切り口に分けていけば、まだ右肩上がりの構図が作り出せるゾーンがあるので、そこで戦うということだ。実際に、アグレッシブな人はこういうゾーンに進んで身を置こうとしている。

もうひとつは、既存の切り口のなかで残っている畑を耕し続けることだ。おそらくまだ大多数の人はこのゾーンにいるのだと思う。とっつきやすくはあるのだが、このゾーンの畑はもうあらかた耕されており、ここから先さらに掘り進めることは、労力と実りのバランスからすればツラいものがあるかもしれない。それでもなんとなくこれまでの延長線上で行動を続けてしまうのはありがちだし、僕自身もこのゾーンに身を置いていることを自覚している。

最後に、右肩上がりの時代に作られたものを作り直していく、という切り口もあるのだと思う。もしかしたらそれは敗戦処理のようなものに見えるのかもしれないが、誰かがやらなければならない仕事だし、であるがゆえにこれから価値を増していく仕事だと思っている。僕はこれから、このゾーンにシフトしていくのが手かな、と考えている。

2018-08-03

池袋。

池袋もなかなか降り立つことのない街だ。社外の人に誘われて、中華料理を食べにいく。

北口改札を出て路地に分けいれば、まるで中国にいるかと錯覚する。中文の看板が立ち並び、聞こえてくる言葉も日本語のそれではない。綺麗になる駅前のロータリーとは対照的に、来るたびにここの中華街は発達し、ディープな雰囲気を強めている。

先方の行きつけらしい店へ。狭い店内にはテーブルと椅子がひしめき合って並んでいる。そこに座ると、写真と番号が振られたメニューが出される。

料理が出てくるのを待つあいだ、ぞくぞくと中華系の客人が入ってくる。そしてスパスパと煙草を吸い始める。レストランで煙草の煙に燻されるのもなかなか久しぶりである。一風変わった、でも美味な料理を取り分けて口に運び、青島ビールで流し込むと、なんだか全てがどうでもよくなってくる。

ガンガンに冷房の効いた店内から、むせかえるような熱気の路地へ。饐えたような臭いが鼻をつく。人間が生きている感じがする。

2018-08-02

在る。

いくつになってもなにか新しいことにチャレンジすること、新しい日々を創り出すこと、それ自体が素晴らしいことであることに間違いはない。僕もまた、数年前まではそう考えて生きてきた。

どこかでその考えに変位が起こった。もちろん今でも、新しいことにチャレンジすることもあるし、日々を過ごすことはそれ自体が未踏の道進むことに他ならないのだが、それに加えて、これからの日々が今までと変わらずに在ることを願うようになった。そして、今日という1日が大過なく終わることを願うようになった。

これまでと同じように家族がいてくれること、仲間とともに歩むことができることを願い、その実現のために力を尽くす。そんな風に平々凡々に日々が過ぎてゆくことこそが、最上の幸せであると思うようになった。

なにがあっても揺るがないものがある。自分の軸はここにあるのだと確信できる。日頃なんとなく過ごしていると見えにくくなってしまうものだけど、 いつもその曇りをクリアにしていくように心がけたい。

2018-08-01

休み。

子どもの検診や通院に付き合っての休みであった。わが家では、予見できない休みは妻に対応してもらう代わりに、予見できる休みは僕が取ることになっている。

暑さの厳しい日だったが、軽めの空調をかけて部屋で過ごせば快適だ。出かける予定も、日差しを避けて自転車で移動すれば風も感じられてなんとかなる。ワイシャツにスラックスで都内を歩くよりは断然楽である。

本当はプールにも行きたかったのだが、通院の結果止められたので、泣く泣く断念する。普通に家でお昼を作って食べる。考えてみれば平日の休みに旅行でもなく、所用でもなく、子どもと2人きりで過ごすのは初めてに近い。多少の用事はあるものの、なにものにも追われることのない休日はなかなかに久しぶりのことで、開放的な気持ちになる。昼寝をしたり、一緒にテレビを見たり、ひらがなのドリルを進めてみたりして夕方になる。

2018-07-31

保育園。

幼稚園が休みだったので、春まで通っていた保育園にスポットで預かってもらう。なんだかんだで、月に一度くらいはお世話になっている。

たくさんの荷物を載せ、真夏の日差しのなかヒーコラ自転車を漕いで保育園へ。息子と一緒にドアを開けると元気な声が聞こえてくる。在園の子たちもまだ息子のことを覚えてくれているようである。息子も朝からエンジン全開である。

夕方になり少し遅れ気味のお迎えへ。夕方も元気に走り回っていた。在園のママたちや園長先生とも言葉を交わすことができてよかった。

聞くところによると、終始はしゃいで、昔のようにおふざけをして先生にも怒られたようである。とはいえ元気いっぱいに過ごしてくれたのは何よりだ。昼ごはんの後は昼寝もせずに、誰もいない幼児室でひとり車のおもちゃで遊んでいたようだ。もしかしたら、昔を懐かしんでいたのかもしれない。

自転車に乗っての帰り道。息子はすぐに寝入ってしまった。前よりも少し大きくなって、シートのベルトが合わず、ぐらぐら頭を揺らしていたが、それでも眠りこんでいた。

2018-07-30

自我。

鍵を持たないままに外出してしまい、マンションのエントランスのインターホンを鳴らした。うちのマンションは、インターホンを鳴らすと自動で録画され、自室のモニターで再度見ることができるのである。

自分の顔がモニターに映っている。暑さが厳しいのと疲れから、口がだらしなく半開きになり、自転車に乗っていたので、髪の毛がはね返っている。なんともくたびれたおっさんがそこに映っている。

普段自分が周りからどう見えているか、それを認識することから無意識に逃げている自分がいることに気づく。普段から否応なく向き合っていれば、正すべきところを正して、もう少し背筋を伸ばして生きているのかもしれない。人前でどれだけ見られていることを意識しているだろうか、誰も見てないところでどれだけ自分を律しているだろうか。

人目を気にすることと、自分を律することはイコールではない。たまに自分の顔を鏡やモニターごしに確認してみることは、自分のことを知る最も手軽な方法かもしれない。

2018-07-29

分水嶺。

長期金利が上がり出している。まだなにも政策決定はなされていないのだが、マーケットのほうから、金利政策の転換を促しているようでもある。

金融緩和の長期化が、金融機関の経営を圧迫し、その副作用として不祥事なども起こっている。今年の決算はなんとかほとんどの銀行が黒字を保ったが、無理なお化粧によるものも多く、このままの状態であれば来年春の決算は酷いものになるだろう。影響は金融機関の機能低下という形で現れるかもしれない。

ただ、現段階での金利上昇は円高を招くだろう。円高への転換がどれほど急激なものかはなんともわからないが、一定程度景気を冷やすのは間違いない。ただ、いまの事業会社の収益構造がある程度筋肉質になってきているので、少々の円高は耐えられるというのが日銀の読みなのだろう。

そろそろアベノミクスも総決算である。ここからの舵取りで全ての評価が決まると言っても過言ではない。どうか、無事に着地して金融緩和の出口を迎えてほしいと願っている。

2018-07-28

札幌の月。

最終の札幌行き快速はほとんど人が乗っていない。その前の飛行機も空席が目立っていた。

左手の窓の向こうには、白い月が浮かんでいる。もう瞼が落ちてきそうな時間だ。流れ流れてなんの因果かこんな電車に乗っている。ただただなにも考えられず窓の外を見ている。

振り返ればいろいろあるのだが、もうひとつひとつを丁寧に取り出す気力もなくなっている。

覚えているのはことあるごとに月を見上げていたことだけだ。大学に入学して、入居手続きが終わった日の夜のこと、そこから1カ月経った夜のこと、卒業する日の夜のこと、転職して深夜残業しているさなかの休憩室から見上げた空。

いつのまにか、たいていの思い出はぼやけて、都合のいいように補正がかかってしまう。人間の思考回路なんてそんな風に都合よくできているのかもしれない。だとすると、無理にひとつひとつのことを掘り出す必要はもうないのかもしれない。

月に雲がかかってきた。駅からホテルまでの道をとぼとぼと歩いている。風が優しい。

2018-07-27

ペース。

この半年くらいはいろいろと自重していた部分もあって、行動量が減った。行動量が減った分、新しい人と知り合う機会も少なくなり、手元に抱えているものも軽くなったのだが、これはこれで良かったのだと、いまになって思っている。

いろんなことを同時並行でまわし続けるのは、それはそれで充実感はあるのだが、どうしてもひとつひとつのものごとへの対応がおざなりになってしまうし、精神的にも体力的にもすり減ってしまいやすい。ずっとハイペースで走り続ける力は自分にはなかったようだ。いろいろなことが空中分解してしまう前に、いまの自分に合ったペースに戻せたのは意味があったと思う。

やはり仕事も日常生活も、ある程度余裕のある、頭がクリアーな状態でやるべきだ。新しいことに取り組む時はなおさらである。少しずつペースを掴みながら、より難度の高いところへとチャレンジしていきたい。3年後くらいにはもう一度大きい仕事をやりたいと、そんなくらいの心構えでいる。

2018-07-26

サイン。

新幹線の待合室でぼうっと1日を振り返っていた。ゆっくりと椅子を降りて、トイレに立ち寄って、本屋をひとなめして、ホームに上がる。ふと違和感があって背中を振り返るといつものビジネスリュックがない。

珍しくおみやげを買い込んで、紙袋を持っていたからなかなか気づかなかったのだ。新幹線がホームに滑りこんでくる。階段を駆け下りようという気持ちが湧き上がったが、ひと呼吸おいて、いまリュックを取り戻してホームに戻っても、もう間に合わないだろうと脳が反射的に判断し、焦って二次災害を引き起こすよりは、落ち着いていこうと気持ちを切り替えた。

果たして、待合室の床にリュックはそのまま鎮座していた。まずはひと安心だ。最悪のケースは避けられた。いちおうとって返してホームに戻るが、新幹線はすべり出したところであった。仕方がない。

まだ最終までにはいくぶんの余裕があったので、気を取り直して後続の自由席に身体を収める。これもなにかのサインでありアラートだ。真摯に受け取るのだ。

2018-07-25

プール。

記録ずくめの暑い日が続いている。なにか、世界が新しいフェーズに突入した感すらある。

あまりに暑いので、前の家で使っていたビニールプールを引きずりだした。ホームセンターで買ったホースを洗濯機からバルコニーまでつなぐ。

腰に水着だけをつけてバルコニーで水浴びである。暴力的な日差しだけならまだしも、エアコンの室外機から絶え間なく熱風が吹き出す。それでも水は気持ちよくて、脚をつけているだけでも涼しさを感じる。子どもはお祭りでゲットしたヨーヨーや魚つりセットを持ち出して遊んでいる。

遠くに出掛けるのも夏らしいけれども、自宅でこうやって小さく遊ぶのもいい。なんだかここのところの暑さで、僕もいろんなところのネジが緩んできてるらしく、なんくるないさの境地で毎日を過ごしている。これだけ暑ければ人間はもうだらだら過ごすしかないのだ。空調を効かせて無理に整えた環境のなかで、平時の季節と変わらないパフォーマンスを引き出すのは、どうも自然に逆らっている気がしてならない。

2018-07-24

台風。

先日は台風のなかのフライトだった。朝方から欠航も相次ぎ、さてどうなるかというところであったが、午後を過ぎると運航がはじまったのでひと安心。

とはいえ気が重い。冬の日本海の低気圧のなかのフライトは経験があるものの、台風は初めてである。駐機している状態で既に風で機体が揺れているのでどうなることやらという気分だ。

離陸するとゆらゆらと揺れ、やがてブオッという風の音と共に降下した。機内に悲鳴があがる。僕は胃がふわっと浮いたような感覚になり痛くなる。続けて2度3度と同じように降下を挟みながら、仰角大きく上昇を続ける。こういう状況のなかで平然とニコニコしているCAさんはやっぱりプロだ。身体も心も強くないとできない仕事だ。

もこもこした雲を抜けると飛行は安定する。抜けると、それは見事な夕焼けが広がっている。ひどい思いをしたあとの心身を満たすように、刻々と太陽と空がグラデーションを変えていく。

お腹をさすりながら、しばし窓の外の景色に見とれる。苦しいことと楽しいことは表裏のように合わさっているなあと思う。

2018-07-23

ひとりじめ。

休みの日、たまに訪れるショッピングセンターで、トミカのコーナーがある。そこには先月くらいから、ファイヤーステーションという消防署を模した大掛かりなトミカの商品が遊べるように置かれていて、トミカ好きなうちの息子ももちろん遊ぶ。緊急出動ボタンを押すと並んでいたトミカが雪崩のように走り出していくのは壮観だ。

注目の商品であるわけで、子どもたちが変わるがわるにやってくる。うちの息子はそういうときに、なんの抵抗もなくすっと順番を代わってあげる。この時期の子どもによくある、なにがなんでも渡さない、独り占めしたいという姿を全く見せない。しかしながらあっさり譲ってあげたあとは下唇を噛んで目に涙を浮かべている。やっぱり本心はずっと遊んでいたいのだ。誰かが後ろにきたら、順番を譲ってあげなさいよ、などと教えた記憶もあまりないのだが、これはどういう行動回路なのだろうか。父母どちらに似たのだろうか。興味深くて、ショッピングセンターにくると、遊んできな、と言っていつもその姿を遠目に見守ってしまう。

2018-07-22

奥多摩。

奥多摩に遊びに出かけた。ふと思い出して調べてみたら去年のこの時期も奥多摩に出かけていた。なにかそういうインスピレーションが働くのかもしれない。

青梅レンタカーを借りて、ずんずんと山に分け入っていく。奥多摩湖を越えていつのまにか山梨県に入っていた。山また山の世界である。

小さな村のアスレチックパークで遊んだり、川遊びをする。山間部まで来ても暑いのは変わらないのだが、川の水は驚くほど冷たくて気持ちいい。ほとんど人がいないのも良い。

川の近くで地のものの蕎麦を食べていると、雨が降ってきた。この時期によくある奥多摩スコールだ。雲が抱えきれなかった水分を吐き出すように大粒の雨が地面を叩きつける。ワイパーを高速で動かし続ける帰路になった。雨の音が子守唄になって、後部座席の2人はぐっすりと眠っている。東京都の水がめにも、雨がざんざと降り注ぐ。

下界に降りてくると雨はやみ、また暑熱の世界に逆戻りだ。もわっとした空気が身体を包む。

2018-07-21

ゆったり。

久しぶりに関西へ。関東よりも暑い地なので心して向かったのだが、想像していたよりは身体にダメージもなく過ごせた。

関東に比べてそこまで人が多くない、というのが大きいと思う。電車も混雑していないし、駅や道路でも人の圧力を感じることが少ない。加えて、関西ではどの都市でもある程度地下街が発達しており、中心部をぐるぐるまわる限りにおいては、案外地上を歩かなくとも済んでしまうのだ。

あとは、関東の人よりも関西の人のほうが暑さへの耐性が強いように思う。もともと夏の暑さが厳しかったこともあり、自然に暑さをいなす、和らげるといった行動が取れるのだ。関西人は普段はせっかちだが、この季節はいくぶん余裕をもって過ごしているように見える。暑さがどれだけ厳しかろうが、ゆったりとした服装をして、ゆっくりと動けばそう汗はかかないものだ。

そう思うと、関西で夏を過ごすのも案外悪くないのかもしれない。気候に逆らわずに、人間社会がそれに適応して生活をしていれば、なんとか生きていけるものなのだろう。

2018-07-20

真夏。

猛烈な暑さが続いている。よくも日常生活が普段通りに回せるな、というくらいの暑さである。

屋外を10分くらい歩くと頭がクラクラしてくる。小学校などて熱中症をもとにした痛ましい事件なども起きている。高校野球なども、よくこの環境下で続けられているなと思わされる。いままでの常識が通用しない気候状態に入っていることを認識したうえで、夏の甲子園大会など、慣行で続けられてきたことを見直したほうが良い時期にきていると思う。

学校生活やスポーツだけに限らず、ビジネスも夏の時期のあり方を考え直す動きも出てくるのかもしれない。欧州のように長期でバカンスを取るケースや、夏の間だけ信州北海道などの避暑地に拠点を構えて過ごすようなことも増えるはずだ。

この際慣行や全体のスケジュールを優先して無用な我慢を強いるようなことはどんどんやめれば良いのだが。そしてその最たるものはオリンピックである。もう間に合わないのかもしれないが、このまま強行してしまうのは不安しかない。

2018-07-19

サイコパス。

僕の属する業界でも、この人サイコパスに限りなく近いな、という人が何人かいる。ちなみに僕の属する会社にはそのような人はほぼいない。良くも悪くも非常に人間臭い人ばかりだ。

私見では、ある分野において卓越したパフォーマンスを出す人にはサイコパス的な資質を持っていることが多いように思う。もともとサイコパス的な偏った能力の持ち主で、その能力が仕事などにおいてハマったということなのだろう。それと引き換えに、ほとんどの人が持ちうる感情が欠落しており、それがサイコパス的と感じられるゆえんなのであるが。

それでも、長年にわたりハイパフォーマンスを出し続けているということは、ぎりぎりのところで本当のサイコパスではなく、良心のかけらを持っていたり、自分をコントロールする手段を持ち合わせているということなのだろう。勝ち続けなければ生き残れない世界というものは、それくらいのメンタリティがなければ泳いでいけないのかもしれない。

一方で、ハイパフォーマンスを叩き出す人が、たいへんな人格者であることも珍しいことではない。このあたりの対比はすごく面白い。

2018-07-18

早稲田。

仕事でも遊びでも、普段なかなか来ることのない早稲田にきた。本当にこのあたりに足を運ぶことは珍しくて、もしかすると大学受験できた17年前以来だったのかもしれない。

受験に訪れたのは確か2月19日だったろうか、竹橋のホテルに1人泊まった。窓から見える寒々しい景色の向こうには皇居が見えて、もう特に最後の追い込みをするような気持ちにもならなくて、ぼーっと部屋で過ごしていた。なにを食べたのかも覚えていない。きっと吉野家あたりだろう。

おぼろげに覚えているのは、CDプレーヤーで宇多田ヒカルの歌を聴いていたことだ。同い年の女の子の歌を聴いて、何者かにならないといけないと自らを奮い立たせて、眠りについたことを覚えている。

そしていま、なにが成功でなにが失敗だったかはわからないが、どうにかしてここにいる。まだ何者にもなっていないし、何者になりたいという思いは霧散してしまったけど、どうにかしてここにいる。そして行動するままに、次の道も開けていくものだと信じている。

2018-07-17

最終上り。

地方都市で会食をして終電で帰る。しこたま飲んだはずなのにそれほど酔いがまわっておらず、眠気もこないので、暗い窓の外を見つめている。もしくは、iPhoneを目的もなく眺めている。ずっとメモのページを開いているのだけど、なにも言葉が出てこない。

地方で仕事をすることは楽しい。東京と比べて緩やかな時間が流れているし、心身ともに元気になれる。頻繁に地方に出られるいまの身分は恵まれていると思う。

一方で、これは首都圏を根城にしているからこそ思えることなのだろう、とも感じている。ごく一部のエリアを除けば地方を取り巻く閉塞感は大きい。個別でみればキラリと光る会社もあるが、おしなべてみれば構造不況に陥っている感は否めない。そしてそういう場には優秀な人材も流入しにくくなっている、というのが現実である。

地方を巡る仕事はこれからもしていきたいと思っている。ライフワークだとも思っている。ただ、それを誰と組んでどの切り口でするべきか、そろそろ考え直してみなければならない時期だという気持ちもある。

2018-07-16

人生観。

久しぶりに将棋の話。

前は欠かさずに見ていたNHK杯将棋トーナメントもすっかり見なくなってしまったが、久しぶりに興味をそそられるカードが出てきた。藤井聡太七段vs今泉健司四段である。

中学3年での衝撃のデビュー以降も順調に実績を積み重ねる高校生棋士の藤井七段と、何度も奨励会の壁に阻まれた後に戦後最年長41歳でのデビューを果たした今泉四段はその歩みも対照的だ。実力から言えば藤井七段に圧倒的に分があるのだが、どうしても今泉四段のジャイアントキリングを期待してしまう。

対局は先手の今泉四段が終始攻め続けた。途中でおそらく双方にミスが出て、形勢は二転三転したが、今泉四段はチャレンジャーらしく前のめりな姿勢を崩さず、途中で切れかけた攻めをなんとか最後まで続け、藤井玉を詰みに打ち取った。今泉四段の勝利を望んではいたが、まさか現実のものになるとは思いも寄らなかった。

終局後に配信された記事のインタビューで、「人生観が出た将棋」と今泉四段は語っていたが、まさにそれにふさわしい内容だった。いいものを見せてもらった。

2018-07-15

コメダ珈琲。

この3年間くらいひょんなことで知り合ってお付き合いしている人と、初めてサシでお茶をした。夜のコメダ珈琲、人気のない店で心ゆくまで話をした。

丸い器に注がれたミックスジュースを飲みながら、話はいろいろと飛んだ。歳は30歳近く離れているのだけれども、価値観が似ていることもあって話がしっくりとかみ合う。ここ10年以上、僕はなぜか25歳くらい歳の離れた人と波長が合うことが何度もある。不思議なものだ。

もうこの歳になると、意識して場を作らなければ、新しい出会いはない。自然に任せていれば、仕事の付き合いが多くなる。いまの仕事が、自分自身が人生をかけて取り組みたいことと方向性を一にしていればいいのだが、そういうわけにもいかない。もともとなにがやりたかったのか、自分の現在地と目的地の差異は、普段は会わない世界の人を通してでしか測れない。

とっぷりと昏れてから、駅まで車で送ってもらう。後ろに飛んでゆく学園線の街灯になんとも言えない気持ちがこみあげてくるのを感じる。

2018-07-14

アジェンダ。

ロングランの会議は疲れる。狭い会議室に長時間いると、酸素濃度が薄くなってくるのを感じて、ただでさえ疲れた脳に追い打ちをかける。

ただ、そういう煮詰まった、誰しも疲れて自分のタガが緩んだときにしか交わすことができない意見もあるのも事実である。ふとしたタイミングで本音に近い言葉が堰を切ったように溢れ出して、それが参加者にも伝播してゆく。

よく、会議にはあらかじめアジェンダを設定して、その通りに、時間厳守で行わなければならないと言われるが、それは半分くらいは当たってはいるが、当てはまらないときもまたあるだろうと思う。時にはとことん重い時間を過ごして、みんなで手を繋いで苦しい海の底に潜らなければ見えないものもあるはずなのだ。

そうやって本音を交わした夜は、いつもよりもぐっすりと眠ることができる。まるで脳が休息を求めているかのように。夢も見ずに朝を迎えれば、身体は少し重いけれど、頭はスッキリとしている。もう少し頑張れるとつぶやく。

2018-07-13

マスカット。

少し標高の高いエリアに足を運んだ。首都圏は早くも真夏の様相を呈しているのだが、ここまでくるとさすがに過ごしやすい。

時間があったので、道路沿いで果物や野菜を売る店に入ってみる。吹きさらしの露店のようなつくりで、昔の八百屋のように果物や野菜が並べられている。あまりに開放的なので、どこからか虫が入り込んで飛んでいるくらいだ。

ひとしきり品物を眺めて、マスカットを手に取る。東京では目にすることのない立派なものだ。房が縦に30センチくらい長く伸びていて、上から下までびっしりとさまざまな大きさの実がはちきれんばかりについている。

個性が強すぎる房で、たぶん街中の果物屋では売りものにならないので、こうしてこの店に並べられているのだろう。もしかしたら出荷されること自体なかったのかもしれない。そう思うと、なんだか買って持って帰りたくなった。

結局はそのあとのアポイントもあったので、泣く泣く断念したのだが、あのマスカットはちゃんと誰かに買われて美味しく食べられたのか、気になる。