ものがたり(旧)

atsushieno.hatenablog.com に続く

id:inflorescencia:20060728:1154098202 の【追記】を見て、何となく「前提の違い」を感じたので、たぶん大昔に書いたことでもあるのだけど、レイアウト・デザインに関する話を少し。同エントリの本論とは全く関係ない。

そもそも、オンライン・オフラインを問わず、具体的な表現内容を伴わない「デザイン」について、著作物性を認めた判例というのは存在しないと僕は記憶している。ただし最新判例を追っかけているわけではないので、著作権判例百選(第三版)からふたつだけ判例を引用してみよう。個人的には判例百選の論評にはたまに政治的なものを感じるし、後述するように露骨にレベルの低いものもあるので、あまり推薦したくはないのだけど。

ひとつは東京高裁H11.10.28判決、いわゆる知恵蔵事件で、知恵蔵のレイアウトを設計した依頼先が、デザインの依頼先を変更されたことを根に持って、被告がその後も同じレイアウトを使い続けたことを理由として「デザインの著作権」を主張して提訴したもの。具体的な内容から切り離されたデザインそのものについて、東京高裁は明確に著作物性を否定している。

これについては、かつてSGML文書用にDSSSLでスタイルシートを書く仕事をしていた僕としては、クリアに理解できる。白田秀彰氏が判例解説で「レイアウトは組版ソフトウェアに対するプログラムに他ならなくなっている」ように、スタイルシートにプログラムとしての著作物性は認められるかもしれないが、そのアウトプットとしてのフローオブジェクトツリーのデザインは表現ではなく抽象にすぎないのである*1

これと一見逆のことを言っているように見えるのが大阪地裁H12.3.30判決、いわゆる積算くん事件で、原告の積算くんというソフトウェアのアウトプットに酷似するWARPというソフトウェアを開発した被告に対して、「ユーザーインターフェース著作権侵害」が主張された事件で、請求は棄却されているのだが、第四-(2)-(四)でユーザーインターフェースが実質的同一であるかどうかを判断している部分をどう読むかが問題になってくる。

判決では、画面上に列挙された項目が同一であるのみで、思想感情の創作的表現と認識できる表象が画面上に存在しなかったため、著作物性が否定された、と判断しているのみである。これを従来の判例(上記知恵蔵判決など)・通説から理解するのであれば、大阪地裁は本件において、文書、絵画その他の創作的表現に該当するものが存在しない、と述べているのである、と理解するところであろう。

しかし、本判決を解説する久保利英明は、あたかもユーザーインターフェース全般に独立した著作物性が認められたかのようにまとめている。これは明らかなミスリーディング*2で、通常の判例解説なら、適切な解釈が等しく列挙されることが、品質保証の一環して求められるところだ。その辺は第四版に期待したい。

*1:ちなみに氏はこの点について論争が起こるのではないかと結論をまとめているが、法律家があまり技術的な問題を理解しなかったためか、論争が起こったとは言い難い。

*2:この評者の日常からの言動を考えれば、過失に基づくmisreadingではなく、故意のmisleadingであるとしか考えられない。

国際摩擦と法

id:ced:20060711:1152626541で興味を引かれたので読んでみた。概要は同エントリを参照してもらえば分かることも期待できそうなので、僕は個人的に興味深いと思った米国通商法301条(いわゆるスーパー301)まわりの話を引用してみよう:


 アメリカのヒュデックという、従来のGATTの法的側面の研究者が、「正当化され得る反抗」という視点から、通商法301条(特に1988年包括通商・競争力法によってさらに強化されたそれ)について論じた。それが日本でも注目されていたが、「不公正貿易報告書」もそれを批判していた。もとより正当だが、若干インパクトの弱い批判の仕方であった。

 ヒュデックは、従来よりGATTは、ある種の機能閉塞に陥っていた、とする。何かと対応が鈍いし、その他の点でも種々の問題があるから、GATT違反ではあっても思い切った措置をとることによって初めて、事態は進展する。そのための道具としてヒュデックは三〇一条を位置付け、「正当化され得る反抗」論を説くのである。

 だが、若干誤解があるのだが、彼は終始三〇一条はGATT違反だと述べた上でこの点を説いていた。しかも、「正当化され得る反抗」論によって三〇一条を正当化するためには、アメリカが、他国に対して行うのと同様に、自らに向けて三〇一条を適用することが必要である、としていた。結局アメリカは外国に対してのみ三〇一条を適用しているから、正当化できない、というのが彼の結論である。そもそも妙な議論なのである。
(P.166-167, 強調筆者)

国際法の理論において正当化されない実力行使を行っているということは、国際法のレベルで近代法の原則から外れている自力救済を行っているということになる。

こういった例を初めとして、この書では、アメリカがいかに都合の良いルールを都合の良い形で押しつけてきたか、という話が、何十件も紹介されている。石黒国際法の論文から、主張をピックアップしたような形になっているようで、読み応えがある。もしかしたらそれなりの前提知識がいるかもしれない。*1

*1:関係ないけど、国際私法を勉強したことがない人は「牴触」を「抵触」の誤植だと思ったりするかも。