室町時代のクリティカルシンキング
離見の見にて見る所は、即、見所同心の見也
世阿弥が著した『風姿花伝』にある言葉。能を演じる場合には、次の3つの視点を意識しなければならない。すなわち我見、離見、そして離見の見である。
我見とは文字通り、役者側からの視点である。そして離見は、その対極となる客側からの視点。そしてもう一つ、忘れてはならないのが離見の見だと。これは前回のエントリーで書いた『鳥の目』に極めて近い概念だろう。
→ http://d.hatena.ne.jp/atutake/20060607/
つまり客席も含めた舞台全体を上から見る視点といえばいいか。上から見るという意味では『鳥の目』と同じだが、主体と客体の対立を前提として、さらにそれらを包含した上からの視点という意味では、世阿弥の『離見の見』の方がより軸がはっきりしている。
だからたとえば『離見の見』は交渉ごとやあるいは営業の時などに力を発揮する。つまり当社の視点からの説明が我見である。それに対するお客様からの見方が離見となる。ある製品やサービスについては、当然この我見と離見があって、それらが最初から一致することはまずない。
そこで離見の見の出番となる。わかりやすくいえば、その製品をお客様が使えばどんな価値を得られるのか、といった話になるのだろう。
ということは、これはクリティカルシンキングでいうところのメタ思考ではないか。論理的思考といえば欧米合理主義といった受け止められ方をしているけれど、日本にはすでに600年も前にクリティカルな視点の重要性を説いた人物がいたのだ。
そして世阿弥のキーワードは、どうもこの『離』にあるようだ。
なんとなれば世阿弥にはもう一つ、『離』にまつわるテーゼ『守・破・離』があるからだ。
これは物事を極めるためのステップを説いた考え方で、守とは初心者の段階での心がけである。つまり最初は何もわからないのだから師の教えに従えということ。単に教えに従うだけでなく、師の行動をつぶさに観察し、その価値観までも自分のものとする。そして、師とおなじ指導を自分がする(できる)レベルにまで行き着く。これが第一段階だ。
次が『破』。ここでは師の教えにただ従うだけではなく、それを自ら破ってみる。自分独自の工夫を加えていく。師の教えにはなかった要素を付け加えていく。ここで少しずつ自分らしさが出てくる。
そした最終段階が『離』となる。師の教えを自分の血肉にまで消化してしまった後、そこから離れて新しいスタンダードを創りだす。何かを学ぶ場合の一つの理想像として『離』がある。
ここでもキーワードが『離』である。そして、この場合は、師と弟子が対概念としてあり、弟子が師を超克した状態として『離』が設定されている。
これをたとえば空手に当てはめれば、守は型稽古となるのかもしれない。先達から伝えられてきた型を正確に守って稽古し、自分のものとする。表面的な動きだけではなく、型で指示される体の筋肉一つ一つの動きまでを身につける。そしてそれぞれの動きの実戦での応用の仕方までを自分のものとする。
そこから少しずつ自分なりの(たとえば体型や力や戦い方などにあった)解釈を加えていく。そうやって型を練っていくうちに、いつしか師と自分以外の人から見れば新しい型が生まれている。これが『離』のイメージだろう。
いずれにしてもも究極状態として『離』が位置づけられている。
『離見の見』は静的であり、『守・破・離』は動的である。うまく説明できないけれど、この世阿弥の考え方の中には、弁証法的な思考がすでに含まれているように思う。世阿弥、恐るべしである。
昨日のI/O
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