数字の読み方、使い方


日本にピアノの調律師は何人いるか?


コンサルなどの入社試験でよく使われる問題である。マイクロソフトの入社問題にも似たようなのがあった(たしか全米にガソリンスタンドがいくつあるか、だったと記憶します)。こうした問題に出くわしたときに、どう反応するか。ネットを使えるなら、もしかしたら検索して答をみつけられるかもしれない。しかし入社試験の場ではそうはいかない。とにかく何らかの答を自分の頭でひねり出さなければならない。


そんなのわかりません、とキッパリ宣言するのも一つの回答ではある。だが、その手の返答は、入社試験の場では自分を極めて不利な状況に追いやることこれはしかと覚悟しておかなければならない。


では、たぶん1万人ぐらいではないでしょうかと答えてみればどうか。入社試験ならすかさず「その根拠は?」とたたみかけられるはずだ。この場合も、正解が仮に1万人だったとしても根拠を説明することができなければ合格は難しいだろう。なぜなら出題者が見極めたいのは、どんな答えを出すかではない。見たいのは、答えを出すに至るプロセス上で重要なポイントとなる次の2点である。


まず第一には、一見回答不可能な問題に直面したときに、その人がどういう態度を取るのか、である。資料が無い、準備できていない、だから答えられないという人はいらないのである。なぜなら、コンサルの仕事とはそういう困難な状況で最適解を導き出すことにあるから。逆にいえば資料が十分に揃っていて、準備にもたっぷりと時間をかけられるなら、法外なギャラを支払ってまでコンサルに仕事を頼む人はいない。


従って第二のポイントは、一見何も手がかりの無い状態からでも、いかにして解に近づこうとするか。この知的タフネスさ、みたいなものを出題者は見ている。ここで問われるのがいわゆる地頭の良さだ。


最終的な答が、現実の正解と合っているかどうかはほとんど関係ない。どんなささいな手がかりでも構わないので、とにかく初めの一歩を見つけられるかどうか。わずかな取っ掛かりからどのように推論を組立てていくか。その推論の筋さえ悪くなければ「使える奴」と判断されるだろう。


こういうとき几帳面な人ほど無意味な自縄自縛に陥りやすい。生真面目さがもたらす『正確さ信仰』の弊害とでもいえばいいだろうか。無謬性を求めるあまりに、的確な答を出せそうもないとわかった瞬間に考えることまで放棄してしまう。潔いと言えばそうかもしれないが、それでは何の問題解決にもならない。


実際はもっと気楽に考えれば良いのである。失敗学で有名な畑村氏は、推測については倍・半分程度の誤差は全然オッケーだという(「週刊東洋経済」2007年4月14日号40ページ)。さすがにケタ違いとなると問題があるが、倍・半分ぐらいの違いは誤差と考えてよいと。


では、日本にピアノ調律師は何人いるのだろうか。


ピアノ調律師の数を出すためには、まず日本にピアノが何台あるかを考えなければならない。ここで、もっとも身近な例として思い浮かぶのは、たとえば小学生の頃クラスにピアノを持っている子どもが何人いたかといった事例だろう。仮に一クラスあたり3人いたとしよう。当時は一クラス40人程度である。ということは40世帯に3台の割合で日本にはピアノがあることになる。


では当時の世帯数はどれぐらいか。基本を4人家族として人口が1億人ぐらいだから、ざっと2500万世帯になる。ということはピアノ台数が大まかに出る。時代の違いも計算に入れて大まかに補正すれば、だいたい200万台といったところだろうか。ピアノ台数がでれば、一台あたりにかかる調律時間を踏まえて一人の調律師が一日に何台のピアノを調律できるかと考えていけば、ピアノ調律師が何人ぐらいいれば日本のピアノをメインテナンスできるかがわかるだろう。


こうした計算プロセスをたどれば、たぶん桁外れな間違いにはならない。そうやっておおよそのあたりをつけられればいいわけだ。


ここで大切なのは、思考プロセスのスタート地点を自分感覚に置くことではないだろうか。その意味では大きな数は何でも一人当たりにしたらどうなんだ? と考えるクセをつけるとよいのだと思う。


ちなみに日本の国について考えてみた場合は、GDPがだいたい500兆円。ということは一人当たりなら、だいたい400万円ぐらいだろうか。以下、税収が50兆円(40万円)、国債発行額30兆円(25万円)である。日本の国際収支でみれば、製造業が70兆円稼ぎ(60万円)、燃料代に18兆円(15万円)、食料輸入に6兆円(5万円)払っていることになる。ご参考までに。



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