不快の快化


武道とは不快の交換であり、不快を快化する鍛錬である


このまま放っておけば不快耐性がどんどん低くなりそうな今の子どもたちに、何をしてあげれば良いのか。つらつら考えるに、武道の効用に思い至った。


いきなり話が飛躍するが、不快耐性を養うためには武道(古武道と限定した方がいいかもしれない)を学ぶことこそがベストソリューションではないだろうか。武道の稽古とは、たとえば空手の場合は基本稽古、型稽古、組み手稽古に補強運動、ミットなどである。


ポイントは基本、型、組み手だと思う。いずれも相当長い期間に渡って不快である。


まず基本稽古。単純な動作を延々と繰り返す。子どもたちにとっては、少なくともおもしろいことではないだろう。大人だって、しんどい。しかし基本は力一杯やってこそ、本当の稽古になる。ここで力をセーブしているようではあまり意味がない。もちろんムダに力を入れまくれ、という話ではなく、きちんとメリハリをつけて力の強弱を意識せよということ。いずれにしてもあるレベルまでいかないと、基本稽古を「快」とは感じられないだろう。


型稽古もまた然り。そもそも動きを覚えること自体が面倒である。しかも、その動きたるや、訳のわからない動きが多々ある。理屈で考えれば、たとえば平安一などは前へ進みながら受けたり、相手との距離を詰めながら突くなど実戦の動きとまったく矛盾する動作がある。平安二ともなると、一体この手の動きは何なのだと問いたくなるような動作が組み込まれている。しかも型というだけあって、きちんと自分の動きを決められた型にはめなければならない。好き勝手に動いちゃダメなのである。極めて不自由であり、まったく「不快」である。


さらに組み手稽古となれば、これは典型的な「不快」と言わざるを得ない。何よりもまず痛い。これは本能的、圧倒的に不快である。しかもつらく苦しい。いつまで経っても自分より強い人、大きい人、すばしこい人などは必ずいるわけで、これが「快」となる日がやがて来るのかどうか。


ということで武道の鍛錬は「不快」に満ちている。


だからといって永遠に「不快」のままであるかといえば、決してそんなことはない。ここに日本において武道が連綿と伝え継がれてきた真髄があると思う。すなわち「不快」に耐えて稽古を繰り返しているうちに、あるとき目の前が急に明るく開ける瞬間が来る。劇的な快が訪れる。


たとえば基本の突きなら、自分の突きがビシッと決まったなと実感できることがある。あくまでも感覚的なことなので、空手をやる人みんなに共通することなのかどうかは定かではない。ただ、少なくとも自分の場合は、まず最初は拳の捻りについて「決め」を感じることができた。この「決め」の感覚はその後、ある指導を受けることによって「ほぉ〜」とまた一つレベルアップした。


肩の使い方も似たような経路をたどっている。引き手の取り方、腰の動き、足の使い方。基本稽古はある段階を越えると「不快」から「快」に変わる。おもしろくなる。


おもしろいのは型も同じである。むしろ型の方が最初は意図の分からない動きを強いられる分、その動きに秘められた使い方を教えられたときには興味深さが増す。さすがに長い間に渡って伝えられてきた型の動きには、空手の理念が巧妙に練り込まれているようだ(型の意味について語れるようなレベルにはまったく達していないけれども、平安一だけでも発見がいくつもある)。


型の動きの意味を理解し、それを自分の体の動きに同化させることができたときには、型はきっと「使える」ものとなるだろう。


組み手に関しては残念ながら、未だに「不快」であり続ける。これが自分にとって「快」となる日が来るのかどうか。今のところは疑問だ。もしかしたら、今の組み手を続ける限りは難しいのかもしれない。ただ、可能性が無いとは思わない。組み手に「快」があることは、先輩たちを見ていればよくわかる。お互いに技を出し合う。技とは原則的に相手を「不快」にするために繰り出されるのだが、上級者の組み手では、この技が極めて巧妙に、流れるように攻防一体となってお互いに交換される。


傍で見ていて、二人の動きが「きれいだな」と思うことがある。これは技の交換すなわち「不快」の交換が、お互いにとっては「快」につながっているからだろうと勝手に解釈している。それぐらい高段者同士の組み手にはある種の美しさがある。これなどはまさに不快の快化である。


というぐらい不快耐性をつけるために、武道の効用は十分にあると思う。子どもに武道を。これからの時代を生き抜く力を付けるためにも、習わせて決して損はないと思う。


昨日のI/O

In:
複雑さを生きる/安冨 歩』
Out:
某社ソフト添付小冊子原稿


昨日の稽古: