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2008-06-22

I'll be watching you.

言葉には、


不思議な力がある。


英語に、


I'll be watching you.


という言葉がある。






直訳は簡単。


「私はあなたを見るでしょう」


だけど………


そう単純ではない。


ニュアンスまで含めると、


ピッタリの日本語が見当たらない。







英語では、


慣用句っぽくなっている。


要所でこの言葉が使われる。


例えば、生まれて初めて公園に遊びに来た少年とそのお母さん……


初めての砂場やブランコにドキドキで、


知らない子供たちもたくさんいて、


あまつさえ、こちらをジッと見られたりして、


怖い……


遊びたいのだけれど、


その輪の中に入りたいのだけれど、


勇気が出ない。


最初の一歩が踏み出せない。


お母さんのスカートをギュッと握って、


不安におののいている。






そんな少年に、


お母さんからかけてあげる魔法の言葉……


それが、


I'll be watching you.


これを聞くと、


あら不思議、


少年も安心して、


一歩を踏み出せる。


お母さんから離れて、


砂場やブランコで遊べるようになる。


不安から解き放たれ、


自分の足で歩いていける。


お母さんからたった一言、


I'll be watching you.


と言われただけで……






見られていることの安心感――


というのはとても大きい。


自分が一人ではない、


誰かに見守られている、


そのことの安心感、


それが勇気を生み、


自由を生む。


I'll be watching you.


この言葉は、


勇気を生み出す魔法の言葉となって、


少年の心に刻み込まれる。






以降、


人生において、


さまざまな困難に突き当たった時、


少年は、


両親からこの言葉を投げかけられる。


初めて学校へ行く時、


友だちとケンカした時、


先生に怒られた時、


テストがうまく行かなかった時、


スポーツの試合で負けた時……


不安と孤独で押し潰されそうになった時、


少年は、


いつでもこの魔法の言葉を投げかけてもらう。


I'll be watching you.


すると、あら不思議、


それを聞いただけで、


たちまち勇気と元気を取り戻せる。


幼き日、初めて公園に遊びに行った時のように、


新たな一歩を踏み出せる。






少年はやがて成長し、


恋を知る。


するとそこでも、


恋人から、


思わぬ言葉をかけられる……




I'll be watching you.


D


するとそれは、


新たな魔法の言葉となる。


言われた瞬間、


安心感と同時に、


世界とつながった幸福感に満たされる。


あの少年の日の、


公園で第一歩を踏み出した時の、


勇気とはまた別の、


自信と、


誇りがみなぎってくる……






やがて少年は成長し、


大人になる。


そして、


社会に出る。






その、


社会へ出る初めての日……


恐怖と不安は、


幼い頃、初めて公園に行った時に勝るとも劣らない。


しかし、


今の彼には、


魔法の言葉がある。


魔法の言葉がくれた、


勇気と自信、


それに誇りがある。






朝、出かける前、


両親と、


恋人から、


その言葉をかけてもらった。


その言葉を胸に、


青年は、


初めて社会へと出る。






すると、


そこで待っていたのは、


こんな言葉だった。


















D

0015「泣きゲー」

今回のアイデア

ゲームのアイデアです。正確にはアイデア未満だけど。


ゲームの内容

最近「99のなみだ」というゲームソフトが出た。これは売れてるのだろうか? 評判が気になる。というのは、以前これと同じようなコンセプトのゲームを思いついたことがあるからだ。テーマは「泣くこと」。それを目的としたゲーム。そういうのができたら面白いのではないかと、以前考えたことがあった。


思いついたきっかけ

もうだいぶ昔に、松本人志が「人間の感情の中で一番上等なのは笑いだ」みたいなことを言っていた。「だから笑いが一番難しいし、一番価値がある」という論を、まことしやかに唱えていた。この影響力は大きくて、以来、もう長いことお笑いブームが続いている。世間では、笑うことが一番高尚だと考えられるようになった。


しかし、もうそろそろそういう時代は終わりにしても良いんじゃないだろうか――と、ぼくは常々考えていた。もうそろそろ、新しい時代に移り変わっても良いんじゃないだろうか。お笑いに取って代わる、何か新しい価値観が台頭してきても良いんじゃないだろうか。


そして、それは『泣き』が良いんじゃないだろうか――とぼくは考えた。

そう考えたきっかけは、ぼく自身泣くことが好きで、そういうコンテンツを欲していたからだ。


ぼくは、エンターテインメントで泣くのが好きだった。ドラマを見ていても感動的な場面に来るとグッと入り込むし、小説などでも、泣けるシーンを何度もくり返し読んでしまう。

なぜ泣くのが好きかといえば、そこで深い癒しを得られるからだ。エンターテインメントで泣くことは、ぼくにとって大きなカタルシスだ。このカタルシスは、ぼくの生活に必要不可欠であると同時に、コンテンツのあり方としてもとても大好きなのである。コンテンツが、人に深い癒しを与えることができる、その状態が好きなのである。


だからぼくは、いつでも泣けるコンテンツを探しているところがあった。そうした中で、最近では、2ちゃんまとめサイトで「泣けるコピペ」を読むことも好きになっていた。

ぼくは、まとめサイトの中でもコピペが特に好きで、中でも「泣けるコピペ」を見つけると、喜んでブックマークしていた。その中で、数年前に読んでとても深い感銘を受けたコピペが一つあった。それはこんなコピペだった。


小学生のとき、少し足し算、引き算の計算や、会話のテンポが少し遅いA君がいた。

でも、絵が上手な子だった。

彼は、よく空の絵を描いた。

抜けるような色遣いには、子供心に驚嘆した。


担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。

冷や汗をかきながら、指を使って、ええと・ええと・と答えを出そうとする姿を周りの子供は笑う。

N先生は答えが出るまで、しつこく何度も言わせた。

私はN先生が大嫌いだった。


クラスもいつしか代わり、私たちが小学6年生になる前、N先生は違う学校へ転任することになったので、

全校集会で先生のお別れ会をやることになった。

生徒代表でお別れの言葉を言う人が必要になった。

先生に一番世話をやかせたのだから、A君が言え、と言い出したお馬鹿さんがいた。

お別れ会で一人立たされて、どもる姿を期待したのだ。

私は、A君の言葉を忘れない。


「ぼくを、普通の子と一緒に勉強させてくれて、ありがとうございました」


A君の感謝の言葉は10分以上にも及ぶ。

水彩絵の具の色の使い方を教えてくれたこと。

放課後つきっきりでそろばんを勉強させてくれたこと。

その間、おしゃべりをする子供はいませんでした。

N先生がぶるぶる震えながら、嗚咽をくいしばる声が、体育館に響いただけでした。


ぼくは、このコピペをくり返し読んだ。何度読んでも飽きなかった。何度読んでも涙が出た。何度読んでも泣けるのだった。いまだに、読んでいると涙腺が緩む。これまで何度泣いてきたか分からないし、自分が読むだけでは飽きたらず、多くの友人、知人にも紹介してきた。


ぼくはこれまで、このコピペのことを何度も考えてきた。

ぼくが考えるたのは、

「どうしてこのコピペはこんなにもぼくの胸を打つのだろう」

ということだった。

「この短い文章のどこに、それだけのパワーが秘められているのか?」

それを知ることができれば、何かコンテンツを作る時の、強力なメソッド、型になるのではないかと考えた。


そこで、その要素を分解し、まとめてみようと考えていた時だった。ふと、「泣く」ことをテーマにしたゲームを作れば面白いんじゃないか――ということを閃いたのである。このコピペを分解し、泣くことのメカニズムを解析できれば、それを基に泣けるゲームが作れるのではないか。日々の生活の中で、ふと泣きたい気持ちになった時に、そのゲームを遊ぶことによって、泣くことと、それに伴う深い癒しを得ることができる……そんなコンテンツができたら素晴らしいんじゃないだろうか――そんなことを思いついたのである。


そうして、ぼくはそのゲームの内容を考え始めたのだが……残念ながら、そこのところで頓挫してしまった。いまだに、どういうゲームにすれば面白いのか、考えられていない状態だ。

けれども、コピペの分解の方は、やるだけやってみた。その面白さの理由を、自分なりに解析してみた。


そこでここでは、その分析したものを書いてみようと思う。ただ分析しただけだから、アイデアとしてはもちろん不十分なのだが、自分の考えを客観的に見る意味でも、一旦まとめてみたいと思ったのだ。


コピペ分析


小学生のとき、少し足し算、引き算の計算や、会話のテンポが少し遅いA君がいた。

コピペは、この文章から始まる。回りくどい前段はなし。ズバリ物語の核心から綴られている。

この「潔さ*1」が、カエサルの「ガリア戦記」にも似て、読む者の胸に鋭く突き刺さる。コピペだからやむなく前段を端折ってるのかも知れないけど、それが大きな効果を上げている。これは大いに見習うべきところだ。


内容を見てみると、すでにこの時点で、涙を予感させる要素が盛り込まれているのが分かる。それは、主人公が「障害者*2」だということだ。「障害者」は、そのまま「聖者」と置き換えてもいい。障害者には、何か人に無垢な聖性を感じさせる不思議な力がある。ドストエフスキーの「白痴」をはじめ、障害者のキャラクターに聖者が多いのもそのためだ。そして障害者の登場人物は、その聖性でもって、読者に深い癒しを与える。その癒しは、泣くことで得られる癒しと相似形だ。障害者は、泣くことととても相性が良いのである。


でも、絵が上手な子だった。

彼は、よく空の絵を描いた。

抜けるような色遣いには、子供心に驚嘆した。

ここは巧妙な構成になっている。

まず「絵が上手だった」というのが、その前の一文を受けて、すんなりと受け入れやすいものになっている。つまり、「障害者だから、絵が上手い」という論の展開なのだ。山下清や「レインマン」の主人公のように、「サヴァン症候群*3」――いわゆる障害者が何か特殊な能力の持ち主である――という設定は、人を無条件に感動させる力がある。その感動によって得られる癒しも、涙を流して得られる癒しと同種のものだ。


ここにはもう一つ、「空の絵」というキーワードが出てくる。これも重要だ。

「空*4」のビジュアルというのは、それだけでもう涙を誘う原初的な力がある。最近の映画「恋空」も、まさにこれを応用している。

そんな「空」の、しかも「上手い絵」を「障害者」が描くわけだから、ここまででもう、涙を誘引する要素が三つも出てきたことになる。この物量は凄まじい。


さらに、この「絵が上手」というのが、後の展開の巧妙な「伏線*5」になっている。一つの文が一つの役割を担うのではなく、複数の役割を担っている。これも、構成上大きなポイントになっているのだ。一つの文が複数の役割を担っていることによって、とても自然に伏線を隠せているのだ。そして伏線を自然に隠すことができて初めて、後に大きな衝撃を引き起こすことができるのだ。


担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。

ここでもう一人の登場人物が登場する。この登場人物には「先生」という職業であるところから、「権威者*6」という分かりやすい役どころが与えられている。

「権威者」は、物語の中ではたいてい「悪役」と相場が決まっている。例えば「警官」「父親」「専制君主」などもそうだ。彼らが登場すれば、もうそれだけで、悪役を担わされるというのが暗黙の了解として読者に伝わる。しかもこの先生は、「解けないと分かっているのに答えをその子に聞く」のだ。これでもう、彼の悪役のポジションは揺るぎないものになった。


冷や汗をかきながら、指を使って、ええと・ええと・と答えを出そうとする姿を周りの子供は笑う。

N先生は答えが出るまで、しつこく何度も言わせた。

私はN先生が大嫌いだった。

ここで、さらに二人の人物が登場する。

一人は「周りの子供」。もう一人は「私」。


まず「子供」。彼らには「民衆*7」という役割が担わされている。

人は、古来より民衆――つまり人々が群れ集まった状態――を見ると、どうもそこに「愚かさ」を見出してしまうらしい。古来より、民衆は、物語の中ではたいてい「愚か者」の役割を与えられてきた。

例えば、「オオカミ少年」の村人。彼らは、少年の嘘に騙された結果、愚かにも羊を失う羽目になる。あるいは、「ハーメルンの笛吹き」の親たち。彼らは、笛吹きに正当な対価を支払わなかったばっかりに、愚かにも子供たちを連れ去られる羽目になった。あるいは、「みにくいアヒルの子」。みにくくないアヒルの子たちは、愚かにも、白鳥たるみにくいアヒルの子を笑ったのだ。

そんなふうに、民衆には「愚か者」の役割がとてもよく似合う。このコピペでも、その法則に従って、「子供」には算数のできないA君を笑うという愚かな役割が与えられている。


もう一人、「私」は、ここでは「傍観者*8」として、読者の気持ちをリードする狂言回しの役割を担わされている。この「私」の独白によって、「A君」「先生」「子供」は、それぞれ「聖者」「権威者」「愚者」としてのキャラクターを強化されている。また「私」の独白によって、この三者の力関係や織りなす構図というのが、はっきり見えてくるのだ。そして、それによって分かるのは、悲劇には、どうやら「聖者・権威者・愚か者という三角関係*9」が、とてもよく似合うらしいということだ。

例えば、「みにくいアヒルの子」だったら、「聖者=白鳥」「権威者=アヒルのお母さん」「愚か者=他の子供たち」ということになる。例えば「泣いた赤鬼」なら、「聖者=青鬼」「権威者=人間」「愚か者=青鬼」ということだろうか。「罪と罰」だったら、「聖者=ソーニャ」「権威者=判事」「愚か者=ラスコーリニコフ」ということになるのだろう。


クラスもいつしか代わり、私たちが小学6年生になる前、N先生は違う学校へ転任することになったので、

全校集会で先生のお別れ会をやることになった。

ここでは、まず「小学6年生になる前」という書き方の巧妙さが目につく。これを「小学5年生の終わり」と書いてしまったのでは、あまりにケレン味がない。小学6年生には、「最終学年」であるとか、「もうすぐ卒業」であるとか――を想起させる力がある。サブリミナル的ではあるけれど、これが案外効く。芸術の神はディティールに宿る。こういう「ケレン味のあるレトリック*10」を疎かにしない姿勢が、とてもだいじなのだ。


また年齢設定も絶妙だ。11歳というのは、誰にとっても「多感な時期*11」だから、読者は複雑な感慨とともにそこに感情移入しないわけにはいかない。どんな読者にとっても、11歳というのは甘く切ない思い出とともに蘇る。そしてその甘く切ない思い出というのは、泣くこととも直結しやすい。この頃の多感な感情は、人に涙を催させる強い力があるのだ。


また、「全校集会」での「お別れ会」という設定も心憎い。「この設定*12」だけで、もう何か「泣ける事件」が起こりそうな予感をさせる。さらに面白いのは、その泣ける設定と悪役たる先生のミスマッチ*13」だ。この異化効果も、読者に何かが起こりそうだと予感させる。この「予感させる」という効果が、読者の感情移入をより深いものにし、物語を読み進めることの大きな原動力ともなるのだ。


生徒代表でお別れの言葉を言う人が必要になった。

先生に一番世話をやかせたのだから、A君が言え、と言い出したお馬鹿さんがいた。

お別れ会で一人立たされて、どもる姿を期待したのだ。

ここで注目すべきは、愚者である「子供」の再登場だ。彼にここで愚かさを発揮させることで、物語を展開させるのと同時に、読者の感情を「子供」への怒りへと「ミスリード*14」している。注目の矛先を、一旦「子供」にそらしている。だから、この後の展開が効いてくるのだ。


しかも、読者を怒らせることには、また別の効果もある。怒らせることによって、彼らの心を無防備にできるのだ。

「怒り*15」というのは、人を無防備にさせる。だから、より泣かせやすくするという効果がある。人を泣かせようとするなら、その前にまず怒らせるのが効果的だろう。それも、このコピペの「私」のように、「義憤*16」で怒らせるのが一番効果的だ。なぜなら、どんなに穏やかな人でも、この「義憤」という感情はたいてい持っていて、簡単に怒らせることができるからだ。


さらに物語を読み進めると分かるのだが、この愚か者たる「子供」の一言は、物語上非常に重要な役割を担っている。これがなければ、物語は展開しなかったのだ。こういう「あえて重要ではない登場人物(序列でいえば最下位にあたる)に重要な役割を担わせる*17」のは、物語に奥行きと幅を持たせる。


また、子供が突然言い出すという「偶発的なエピソード*18」は、使い過ぎると「ご都合主義」に見えてしまうが、このように要所で使うのであれば、むしろ物語に神秘さを増すという効果がある。


私は、A君の言葉を忘れない。

ここで物語は一気に展開する。この「展開の急激さ*19」も重要なポイントだろう。まさに「大どんでん返し」なのだ。

またこの一文は、先ほど出てきた「ケレン味のあるレトリック」になっている。これも「ご都合主義」と同様、使い過ぎると鼻につくが、要所で使う分には絶大な効果を発揮する。


「ぼくを、普通の子と一緒に勉強させてくれて、ありがとうございました」

物語が最高潮に達するクライマックスには、あえて「台詞*20」を持ってくるのが効果的だ。しかも、驚くべきことに、これはA君が発する最初の台詞となっているのだ。物語のクライマックスに来て、ここまで守ってきた「約束事を破る*21」というのは、読者に強いショックを与える。


A君の感謝の言葉は10分以上にも及ぶ。

水彩絵の具の色の使い方を教えてくれたこと。

放課後つきっきりでそろばんを勉強させてくれたこと。

その間、おしゃべりをする子供はいませんでした。

N先生がぶるぶる震えながら、嗚咽をくいしばる声が、体育館に響いただけでした。

最後は、あえて「泣く」という言葉を使わないのが心憎い。震える様子と嗚咽をくいしばる声で、泣くことを表現している。クライマックスの後は、あえてこうした「控えめな表現*22」を心掛けると、その泣きを一層加速させることができるだろう。

また、ここで初めて分かるのは、読者に最初好感を持たせておいたA君の絵が、実は先生の教えによるものだったということである。

この一文で、これまでの展開が、あまりにも鮮やかな「騙し絵」だったということが初めて分かる。今まで見えていた風景が、真実とは180度異なっていたことを、読者は知らされるのだ。

この種の「騙し*23」も、人を無防備にさせる効果がある。人は「やられた」と思った瞬間、心の防御壁が取り払う。すると、そこから感情が流れ込みやすくなる。つまり、泣きやすくなるのだ。こうした鮮やかな「騙し」は、人を泣かせるためには大きな効果を発揮するだろう。


このように、十重二十重に「泣ける要素」を積み重ね(数えてみたら23もあった)、心の防御壁を丁寧に取り払ってきた結果、読者はもう、一気に「泣き」へといざなわれるのだ。

*1:要素1「簡潔さ」

*2:要素2「障害者

*3:要素3「サヴァン症候群」

*4:要素4「空」

*5:要素5「伏線を張る」

*6:要素6「権威者」

*7:要素7「愚かな民衆」

*8:要素8「傍観者」

*9:要素9「聖者・権威者・愚か者という三角関係」

*10:要素10「ケレン味のあるレトリック」

*11:要素11「多感な時期」

*12:要素12「お別れ会という設定」

*13:要素13「泣ける設定とのミスマッチ」

*14:要素14「ミスリード」

*15:要素15「怒り」

*16:要素16「義憤」

*17:要素17「脇役に重要な役割を与える」

*18:要素18「偶発的なエピソード」

*19:要素19「急激な展開」

*20:要素20「クライマックスの台詞」

*21:要素21「約束事を破る」

*22:要素22「クライマックス後は控えめな表現」

*23:要素23「騙し」