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ハックルベリーに会いに行く このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-06-26

ガンで余命3ヶ月という人がいた

昔、少年ジャンプを読んでいたら、本宮ひろ志が描いていた「山崎銀次郎」というマンガの扉絵に、

「ぼくは、高校3年生の17歳ですが、ガンで余命3ヶ月と宣告されました。でも、銀次郎の生き方にすごく勇気づけられています。おかげで、今をしっかりと生きていくことができています」

というような内容の投書が載っていた。


ぼくはこれに強い衝撃を受けた。若くして余命3ヶ月って、どんな気持ちなのだろう?

しかし、いくら考えても答が出なかったので、ぼくは母に尋ねてみることにした。

母なら、若くして過酷な運命を突きつけられたこの青年の気持ちについて、何かを知ってるかも知れない。ぼくのこの、答が分からず不安定になった気持ちを落ち着かせてくれる、何か解決の糸口を指し示してくれるかも知れない。


そうしてぼくは、その少年ジャンプを母に見せた。その文面を読んでもらい、母の答を待った。

母は一体何と言うのだろう?

ぼくは、ドキドキしながら待った。不安におののきながら、母の目を一心に見つめてその言葉を待った。


すると、やがてそのマンガ誌から顔を上げた母は、ぼくの目を真っ直ぐに見つめると、一言、こう言ったのだった。


「これは嘘よ。編集者の人が、読者の気を引こうと思って嘘を書いているの」


ぼくを戦慄が貫いた。

編集者Oさんの待っているもの

編集者のOさんは、サブカル系の本を出すことで定評のある、とある中堅の出版社に勤めている。年齢は40歳くらい。奥さんも子供もいて、今の担当は、主に雑誌と、それから時々単行本を出したりもしているそうだ。

Oさんには夢がある。それは小説を出すことだ。出すと言っても、自分が小説家になるというのではない。自分が編集を手がけた小説を、世に出したいというのだ。

それなら出せばいいじゃないですか?

気軽な調子で言ったら、Oさんは首を横に振ってこう言った。

「今はまだ、その時期じゃないんだ」

Oさんは、小説を出すといっても、いわゆるありきたりなものには興味がないのだそうである。そんなものは、これまでにも小説以外でさんざん出してきた。Oさんが出したいのは、それは世界的なインパクトを持った――とまではいかなくとも、少なくとも日本中にインパクトを与えられるような、出版界だけではなく、社会全体にインパクトを与えられるような、そんな小説を出したいのだそうである。

「おれは、そういう時代がもうすぐ来るんじゃないかと思ってるんだ」

とOさんは言うのだった。

根拠は? と聞くと、「一番大きいのは勘」と前置きした上で、理由は四つあると言った。

一つは、ここ十年くらいの小説の地盤沈下。ここ十年、小説は全く売れなかったし、また実際に読むべき本も出ていない。しかしそれは、単なるバイオリズムみたいなもので、今は雌伏の時期なんじゃないか。だから、そのうち復活するのではないかということ。

二つ目は、ライトノベルケータイ小説の流行。これは、小説復活の兆しなんじゃないか。そして、その兆しを何より敏感に感じているのが子供たちだからこそ、子供たち向けの小説が流行ってるんじゃないか。そういう子供たちの中から、とんでもない、化け物みたいな小説家が現れるんじゃないかということ。

三つ目が、メールとブログの爆発的な流行。この流行によって、十年前と比べると、テキストと向き合う人口は圧倒的に増えた。そしてテキストと向き合う人口が増えれば、その分、小説を書こうとする人間もまた増えるんじゃないか。そして増えれば、それだけ競争も激しくなり、素晴らしい小説が生まれる土壌も形成されるんじゃないかということ。

「そして最後は……」

と言って、Oさんは四つ目の理由を切り出した。

それは、

「社会が今、小説の誕生を待ち望んでいる。まるで救世主の誕生を待ち望んでいるように」

ということだった。

Oさんによれば、もう長いこと続いている「価値観の多様化」というは、テクノロジーの進化によって起こったかのように見えるけど、実はこれは一時的なものに過ぎないというのだった。過去の歴史を振り返ってみても、ローマ時代やルネッサンス、それに戦国時代や江戸時代末期など、価値観が多様化した時代はいくらでもあった。しかし、人間は本来的に社会的な動物なのだから、こうした混沌にいつまでも我慢できるわけはない。いつか必ず、クライシスが起きて、収束する方向に向かうはず。そして、統一された価値観を求めるようになる、と言うのだった。

「社会が今、疲れているのはそのせいだ。みんな、バラバラであることに疲れているのだ。その疲労が、いつかピークに達した時、人々は、今の多様な価値観を捨てて、再びある程度収束された、統一された価値観を求めるようになるんだ」

そしてOさんは、それが起こる時は一気に起こるだろうと言うのだった。

「それは、パンパンに膨らんだ風船が破裂するように、一気に収束するだろう。そして、その風船を破裂させるものこそ、小説に他ならない」

Oさんがイメージしているのは、ドストエフスキーの「罪と罰」のような小説だった。

罪と罰」は、それが出版された当時、ロシアに一大センセーションを巻き起こした。それは、価値観が多様化し、際限なく膨らんでいたロシアという風船を、破裂させる大きな力を持っていた。そしてそれをきっかけとして、ロシアは再び(もちろんそれはドストエフスキーの意図したところとは全然違うけれども)統一された価値観を持つ社会へと収束していったのだ。

「おれは、なにも統一された価値観を持つ社会が良いと言ってるわけではない」

とOさんは言う。

「しかし、それは社会の必然なのだ。人々がそれを求めているのだ。それは、人間という種の、ある種の本能ようなものなのだ」

だからOさんも、その本能のおもむくところによって、そういう本を出版したいと言うのだった。

「だからおれは、今、探しているんだ」

Oさんが探しているのは、小説家だった。彼が期待しているのは、若い世代だった。幼い頃からメールとブログの文化にどっぷりとはまり、テキストの英才教育を受けた人間。また、多様化する価値観の荒波にもまれ、多種多様な経験をしてきた、今の子供たち。その中から、ドストエフスキーのような、これ以上膨らみようがないほどパンパンに膨らんだ「多様化された価値観」という風船を、破裂させてくれる書き手が現れるのを、Oさんは待っているのだった。

だからOさんは、いつもブログを、特に若い子の書くブログを、注意して見ているのだそうだ。この中から、そういう息吹を持った人間がもし現れたら、いち早く見つけ、目を付けておくために。

また、Oさんはこんなことも言うのだった。

「社会を破裂させるのは小説だけれども、小説が書かれるためには、また別のきっかけも必要なんだ」

そのきっかけは何かと尋ねると、Oさんは、ちょっと言い淀むようにしてから、こう答えた。

「それは、殺人事件だと思う」

Oさんが言うには、いつか社会全体の価値観を根底から揺るがすような、言い方は悪いがイマジネーションに溢れた全く新しい殺人事件が、起こるのではないかということだった。そして、その殺人事件が、小説家を刺激し、風船を破裂させる小説を書かせるのではないかと語った。

その殺人事件が、多様化された価値観の、一つの究極の姿を提示してくれるのではないか。それは、本当に空前絶後の、想像を絶する、言い方は悪いが天才の所業のような、人間のある種の極北を示すような、殺人事件なのではないか。そして小説家は、その殺人事件にインスピレーションを受け、小説を書くのではないか。また人々は、その殺人事件と、そしてそれをモチーフとして書かれた小説に、多様化された価値観というものの限界を感じ、それが再び彼らを収束された世界へと向かわせるのではないか――と、Oさんはそんなふうに語るのだった。

「だからおれは、時々考えるんだよ。それは一体、どんな殺人事件なんだろうか? ってね」

Oさんは、時々考えるのだそうである。実際、どんな殺人事件が起こったら、自分は、そして社会は、根底から揺すぶられるのだろうか、と。どんな殺人事件が起きたら、おれは、多様化された価値観に絶望するのだろうか、と。それを、Oさんなりに想像してみるのだそうだ。

「だけど、ダメなんだ……」

と、Oさんは残念そうな口調で語った。Oさんには、どうしても思い浮かばないのだそうである。その、社会を根底から揺るがすような殺人事件というものが。そして、思い浮かばないからこそ、それは社会を根底から揺るがすようなものなのかも知れない、と、そんなふうにも思うのだった。

それから再び、しばらく間を開けた後、Oさんは、最後にこんなふうに言ったのだった。

「だから、おれは、待っているところがあるんだよね。本当は、そんなものを待っていてはいけないのかも知れない。そんなものを待っていたら、社会人として失格どころか、人として許されないかも知れない。でも、自分の気持ちに正直に向き合った時に、やっぱり、どうしてもそれを待ち、また切望するという気持ちを、認めないわけにはいかないんだ」

ぼくは、その先の答は聞かなくても分かってしまった。だから、その先を促すのは、本当は余計なことだったのかも知れない。聞かない方が、Oさんのためにも、またぼくのためにも、良かったのかも知れない。でもぼくは、その先を促さないではいられなかった。

それで、何を待ってるんです?

そう尋ねたぼくに、Oさんはこう答えたのだった。

「おれは、殺人事件が起きるのを待ってるんだ。社会を根底から揺るがす、イマジネーション溢れる、我々の想像を絶した、見たことも聞いたこともないような、多様な価値観というものの限界をまざまざと見せつけてくれるような、そんな殺人事件が起こるのを」

その13「身も蓋もない災い」

「さて、第4章で予言された災いは、同じ章で早くも実現することとなる」

「どんなことが起きるんですか?」

「お父さんが現れるんだ」

「お父さん!? ハックのですか?」

「そう」

「ハックのお父さんって、『災い』なんですか?」

「残念ながら、その通りなんだ」

「あら……」

「この小説で、ハックのお父さんは、いわゆる『災い』として描かれている。完全にダメな、救いようのない人間として書かれているんだ。そして、もうネタばらししちゃうけど、最後まで救いがない。この小説で、お父さんは最後まで悪役なんだ」

「なんだか……切ないですね」

「それがこの小説の一つの大きな特徴といえるだろうね。安易な家族愛など説かないんだ。血のつながった父親を、救いようのない人間として描いている。そこら辺も、この本が長いあいだ(そして今でも)悪書の一つに数えられてる理由の一つだろうね」

「『ハック』は悪書の一つに数えられてるんですか?」

「保守的なキリスト教文化圏では特にね。神を冒涜したり、家族愛を蔑ろにしたり、他にも色々不謹慎をおかしているから」

「確かに……」

「それでね、次の第五章では、このお父さんのひどさが蕩々と語られるんだ。それは、『ハック』特有のユーモラスな語り口で、フリがあってオチがあるというちゃんとした笑い話にはなってるんだけど、でも、救いようがないことには変わりがない。だから、話としてはとても暗い。ハックのお父さんが現れる第四章から第五章にかけて、小説のトーンは一気に暗くなる」

「そこも、読者の想像を裏切ってるんですよね、たぶん」

「うん、そう! 確かにその通りなんだ。前作の『トム』では、ハラハラドキドキのシーンはあったけれど、こういう暗い、ジメジメした感じはなかったからね。そうなんだよね。マーク・トゥエインは、この小説を大人向けに書いたということを強調していたらしいけど、こんなふうに、人生の身も蓋もない暗黒面を描いたところに、そういう意気込みを込めたんだろうね」

「ただその暗黒面を描くのも、ユーモアを交えて描いてるんですよね。ただ暗く書いたわけではない」

「そう! まさにその通り! 今日のリコちゃんは冴えてるなあ」

「えへへ」

「そうなんだよ。そういう暗黒面は描くけれども、ただ単に暗く、湿っぽくするのではなく、ユーモア交えたおかしみのあるトーンで、笑い話として書いている。価値観が、二重三重に重複しているんだ。多義的なんだよね。奥行きがあって、薄っぺらくない。その意味するところはあくまでも曖昧にして、どう読んでも良いようになっている。そこら辺も、『ハック』の名作たるゆえんの一つだろうね」

「お父さんが現れて、ハックはどうなっちゃうんですか?」

「うん、それまでの、窮屈ながらも健全な生活から、お父さんと一緒の、自由でありながらも不健全な生活へと、徐々に引き戻されていくんだ。ハック自身、価値観が多重的なのらりくらいとした性格だから、その真意がどこにあるのかなかなか読み取りづらいんだけど、でもお父さんとの生活をすることで、どんどん堕落していってしまう」

「あら」

「それで、読者はきっと焦るんだ。ハックまでが堕落してしまっては、本当に身も蓋もないことになってしまう。なんだかんだ言いながら、ハックは『トム』の頃からヒーロー性だけは保ってきた登場人物だからね。そのヒーローが暗黒面に転ぶことに、読者はここで大いなる危機感を覚える」

「そうやって、危機感を煽っておいて、この後どうなるか!? と引っ張るわけですね」

「まさにその通り。それについては、またこの次に話します」