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2008-07-04

ネットで攻撃的なことを書く人は本当は良い人か?

齋藤孝さんと梅田望夫さんの共著「私塾のすすめ」の中で、とても印象に残った言葉がありました。それは梅田さんが述べられてた言葉なんですが、オフ会でセミナーみたいなことをやった時に、一番前の列ですごく熱心に聞いてくれて、いい質問をしてくれた人がいたらしいんです。ところが、そのセミナーが終わった後に名刺交換をしてみたら、その人はいつもネットでひどいことを書いている人だったのだそうです。梅田さんは、そのことをこんなふうに表現しています。


とにかく、ネットでは皆、少し過激になる。僕はネットの世界で相当経験を積んでいるからわかるのですが、アテンション(関心)を引きたくて、偽悪的、露悪的な表現をする人が多いというのを感じています。


これを読んで、なるほどなぁと思いました。確かに、ネットではひどい言葉で他人を罵倒する発言ばかりをくり返していた人が、実際に会ってみたら、本当は他人の気持ちをとても気遣える、思い遣りのあるやさしい方だったというのは、よく聞く話です。

事実、人の神経を逆撫でするという行為は、その人の嫌がることが分からないのとできないのですから、相手の気持ちを理解できる、観察眼の鋭い人である必要があるわけです。ですから、その能力を逆に平和利用すれば、その人が泣いて喜ぶような、思い遣りのある気遣いもできるということです。


ところで、話は変わるのですが、「ネットでは皆、少し過激になる」ということは、その逆もあるのではないかと思いました。つまり、ネットでは凄く良い人に思えた人が、実際に会ってみたら、それほど良い人ではなかった、というケースです。

これも実際によく聞く話です。そういう人も、やっぱりネットの世界でアテンション(関心)を引きたくて、偽善的、露善的な表現を、どうしてもしてしまうのではないでしょうか。


ですから、結論としては、ネットで凄く良いことを書いている人というのは、かえって信用できないということですね。そういう人は、もしオフ会でセミナーを開いたとしても、きっと一番後ろの席に座り、全然無関心であったり、質問をしたとしても、とても悪い質問をするのではないでしょうか。こういう人には、ぜひとも気をつけたいものですね。


  • 結論
    • ネットで凄く良い人は、本当は良い人ではないことが多い
    • ネットで良いことを書く人には気をつけよう

面白さと狂気

最近、狂気についてよく考える。面白いものに、やはり狂気は不可欠だからだ。正確に言うなら、正気と狂気、その混ざり合った中に、面白さというのはある。その絶妙のバランスやミスマッチが引き起こす矛盾、あるいは不確かな境界線に、魅力というものの真実が隠れている。

だから、面白いものを作りたいなら、あるいは面白い存在になりたいなら、正気の中に、ちょっと狂気をまぶすことだ。蕎麦屋のカレーに入ってる蕎麦つゆのように、隠し味としてほんのちょっと、ギリギリ分からないように(あるいは確信犯的に分かるくらいに)狂気を含ませておくことだ。


問題は、「それをどう含ませるか」ということだ。

何かを面白くしたければ、正気の中に狂気を含ませなければならない。常識を突き抜けた、狂った感覚を混ぜなければならない。モーツァルトのように、狂った感覚でピアノに向き合わなければならない。ゴッホのように、狂った感覚でキャンバスに向かわなければならない。ニーチェのように、狂った感覚で思索をくり広げなければならない。

しかし、それがくせものなのだ。狂気というのは、うかうかしていると勝手に成長していく。飼い慣らすことは、至難の業だ。いつまでも、大人しくさせてはおけない。ちょっと目を離した隙に、勝手に暴走し始める。

そして一度暴走し始めたら、もう取り返しが付かない。その狂気に、正気が飲み込まれてしまう。主従が逆転して、本当の狂人になってしまう。モーツァルトのように、健康を害してしまう。ゴッホのように、精神を害してしまう。ニーチェのように、何もかもを害してしまう。


狂気は劇薬だ。蕎麦つゆなんていう「甘い」ものではない。麻薬でもある。パンドラの箱と言っても良い。メフィストフェレスのようでもある。非常に危険だ。危なっかしい。まるで猛獣だ。

しかし、だからこそ面白いのかも知れない。狂気を含んでいる人、あるいはもうはっきり「宿して」しまっている人は、猛獣遣いのようなものだ。普通の人ではとてもじゃないけど飼い慣らすことのできない獰猛で危険な動物と、至近距離で対峙している。その危険と隣り合わせなところに、人は魅力を感じるのだろう。


ある芸人がいた。

その芸人は、もともとはいたって普通、まともな人物だった。けれど、芸人として生きていく中で、次第にその「普通」「まとも」を捨てていった。そして次第に、狂気を育んでいった。

その芸人が育んでいったのは、まるで子供のような狂気だった。子供のような、無節操さを含んだ狂気だった。子供のような、無鉄砲さをはらんだ狂気だった。子供のような、無邪気な残酷さを伴った狂気だった。それは大人になったピカソがそれまで持っていた絵の技術を捨て、「子供の絵」を標榜したのと似ている。その芸人は、それまで持っていた「普通」や「まとも」を捨て、子供であることを標榜したのだ。


ある時、その芸人がコントの収録に臨んだ。そこで芸人は、スタジオに用意された水槽の中に共演者の一人を突き落とすという役割を担うことになった。

リハーサルでは、ディレクターがいつも以上に念入りに段取りを説明した。いくら水槽とはいえ、それなりの高さから突き落とすので、万一のことがあってはいけないからだ。

段取りでは、共演者のキザな長台詞が終わったところで、芸人が「長げえよ!」と言いながら水槽に突き落とすことになっていた。突き落とす行為が、一種のツッコミになっている、という塩梅である。


やがて本番が始まった。いくつかの演技の後、その共演者の長台詞の場面に差し掛かった。

共演者は、このシーンのために台詞を一生懸命覚えてきた。そしてこのシーンの笑いを効果的にするために、その長台詞をなるべくもったいぶった、キザな口調で言おうとした。

そうして、共演者がしゃべり始めようとした、その時だった。

「長げえよ!」

そう言って、芸人はいきなり共演者を水槽に突き落としたのだ。

まだ長台詞を言う前だったので、何の心構えもできていなかった共演者は、無防備な(それゆえ危険な)格好で、水槽へと真っ逆さまに墜落していった。その姿に、スタジオは一瞬ヒヤリとさせられた。しかし共演者が、なんとか怪我もなく水槽から這い上がってくると、今度はその日一番の大爆笑が起こった。


その爆笑を引き起こしたのは、水槽に落ちた共演者の驚いた表情やリアクションが面白かったということもある。しかし何より大きかったのは、突き落とした芸人の方の、笑いのためなら共演者の危険さえかえりみない、その狂気だった。

その芸人は、面白さのためなら、多少の危険は厭わなかった。「危険を厭わない」と言っても、自分が危険をかぶるならまだ分かる。しかしその芸人は、面白さのためなら「他人の危険」をも厭わなかったのだ!

これは常人の感覚では考えられなかった。紛れもなく狂気であった。怪我がなかったから良かったものの、場合によっては最悪の事態も考えられた。しかし、そういう常識的な考えを突き抜けたところに、その芸人の狂気はあった。そしてその狂気が、スタジオに、そしてコントに、大爆笑をもたらしたのである。


狂気というのは、本当に恐ろしいものだ。そして恐ろしいがゆえに、また何よりも面白いのだ。


人は、「人間の狂気」というものに何よりも惹かれる。そこに魅力を感じる。

それは「火遊び」の面白さに似ているかも知れない。火遊びは、下手をすれば大火事を招くかも知れない。その恐怖への予感がある。だからこそ、なんとも言えないスリルと同時に、面白さをも感じるのだ。

人は、大人になるとさすがに分別がついて、もう火遊びはできなくなる。しかし、そんな自分に成り代わって火遊びをしてくれる誰かがいれば、そこにとてつもない魅力を感じる。憧れや羨望と同時に、自分の欲求を変わりに遂行してくれる「代弁者」の姿をそこに見る。

安全な地点から、危険な行為を見物できるということ――そこに、「見せ物」としての原初的な価値を感じる。だから、自分に成り代わって火遊びをしてくれる誰かになら、お金を払っても良いと考えるのだ。

これが、ショービズの原点なのかも知れない。言い換えれば、ショービズとは、火遊びをしたい誰かに成り代わって、自分がその遊びに興じることなのかも知れない。


そして、その火遊びを可能にするものこそ、狂気なのである。エンターテイナーは、自らの中に狂気を宿すことで、初めて火遊びをすることができるのだ。

だから、もしエンターテイナーになろうとするなら、あるいはもし人を面白がらせることを生業としたいなら、火遊びをすることだ。そしてその火遊びをするために、自らの中に狂気を宿すことだ。そうすれば、きっと魅力的なエンターテイナーになれる。そして、人からお金をもらい、その火遊びを生業とできる。

但しそれは、狂気に飲み込まれてしまう可能性とも隣り合わせなのだ。狂気に飲み込まれてしまうと言うことは、火遊びが過ぎるあまり、自分が焼死してしまうかも知れないということだ。またそればかりではなく、自分以外の誰かをも、焼死させてしまうかも知れないということなのだ。

余技舌

  • "When you come to a fork in the road, take it.":「分かれ道に来たらとにかく進め。」
  • "It ain't over 'til it's over.":「(ゲームは)終わるまで終わらない。」
  • "Nobody goes there no more, it's too crowded.":「あんなに混雑する店には誰も行かん。」

ベラは含蓄のある発言をすることで有名で、それらの言葉(と彼独特の思想)は"Yogiisms (ヨギイズム)"と呼ばれている。一見諺のようなウイットに富んだ言葉が多いが、よく考えれば意味をなさないものや単に同じ事を繰り返し述べているだけのものが多い。ユーモアがあるそれらの発言は野球に興味のない人々にも親しまれている。