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2008-07-10

笑いとは差別のことである

「笑い」とは結局「差別」のことである。だから「ハゲ」で笑えるというのは、別にその場の「沸点」が低いわけではない。人を「ハゲ」だと揶揄することは、笑いの「本質」なのである。「デブ」「ホモ」「ブス」「バカ」などが、これに類する。こういう、社会的に許されるか許されないか――タブーを侵すか侵さないかのギリギリの「差別」に、「笑い」というものの真実の姿がある。

だから、「ニコニコ大会議」が「笑い」を誘発しやすいのなら、それは「差別」を誘発しやすいということに他ならない。「ニコニコ大会議」が面白かったのなら、それは「差別」を誘発できていたということだ。「差別」か「笑い」かの二択ではない。「差別」こそが「笑い」なのだ。


その笑いは、「いじり」なのか「いじめ」なのかという議論があった。答は、そのどちらもだと思う。その「ハゲ」というのが面白かったのだとしたら、「いじり」でもあったろうし、また「いじめ」でもあったのだろう。本当の面白さとは、「いじり」と「いじめ」のあいだの、どちらとも取れる境界線上にある。「いじり」の方に傾倒し過ぎても、あるいは「いじめ」の方に傾倒し過ぎても、それは笑えないものになる。「いじり」が過ぎると刺激が薄まって白けるし、「いじめ」が過ぎると凄惨になってやっぱり笑えない。


ベア速 ブラックジョーク書いてけ。意味わからんゆとりは昼寝してろ」というページには、秀逸なブラックジョークが多数紹介されている。そしてそれは、「差別」のオンパレードだ。ブオトコ、淫乱、変態、バカ、キチガイ、白痴、未開人、スケベ、病人、動物、ホモなど、ありとあらゆる被差別対象を、「いじり」と「いじめ」の境界線上に(あるいはタブーと非タブーとの境目に)上手に提示して笑ってる。


松本人志というのは、このメソッドの恐ろしい使い手だ。彼は、テレビという何よりも規制の厳しいメディアにありながら、革命家の果敢さと知略でもって、「差別=笑い」を実現してみせた。それを見た者は、自分でも差別とは気付かないうちに、自らの裡にある「差別する心」を呼び覚まされ、笑った。

ダウンタウンごっつええ感じ」という番組で、松本人志がくり広げたコントこそが、彼の「差別の方法」であり、演じたキャラクターこそが、「差別する対象」であった。

例えば「キャシィ塚本」というのは、予定調和的な料理番組を笑うという体裁を取りながら、その実「オバサン」であったり「キチガイ」を差別して笑っていた。「トカゲのおっさん」は、トカゲという異形の動物を隠れ蓑にして、人生を損なった人というものを差別し笑っていた。「Mr.Bater」は、その名の通りベタなダジャレを笑う振りをして、外人を差別し笑っていた。

これらのように、松本人志の提示したコントの数々は、一見無難なものを茶化すという体裁を取りながらも、その裏では、「いじり」と「いじめ」の境界線上に被差別者を提示し、それを差別し笑っていたのである。それが、テレビという不特定多数に向けたメディアにありながら、本質的な笑いを目指した彼の戦略であった。


「ニコニコ大会議」に限らず、そこで起こった笑いが差別かどうかを論じるのは、実はナンセンスだ。なぜなら、「笑い」というものの本質こそが「差別」であって、それは不可分なのだから。

だから、人々に許されたのは、笑うか、それとも差別をしないか――の二択しかない。それは、この二つ以外の選択を許されない、文字通りのトレードオフなのである。


参考