2008-07-22
般若心経を唱える猫
追記(2008年7月27日12時10分)
このエントリーは、ある動画を見ている時に思いつきました。
ですので、その動画を見て頂いてからお読み頂くと、なおさらイマジネーションが広がるかも知れません。
動画は、こちらの記事に貼っておきました。
1
うだるような暑さの中、人波でごった返す大都会のスクランブル交差点を、少し離れたところから静かに見つめる男がいた。男は気が狂っていた。男はカトウの後継者を自認していた。男はカトウの後継者を自認し、その成し遂げたかったこと、そして成し遂げ得なかったことを自分が代わりに実現するのだと考えていた。男の名前はカトウと言った。たまたま名前が同じだったことも、男に自分はカトウの後継者であるという思いを益々強くさせた。
そしてカトウは、背負っていたリュックを降ろすと、その中に手を突っ込んだ。リュックの中には、目の前の交差点を行く人々を可能な限り大量に殺すための道具の数々が収められていた。カトウの計算では少なくとも100人は殺せるはずだった。200人はいきたかった。場合よっては500人までいくこともできるかも知れなかった。幸いなことに、警官の姿などは見えなかった。サミットの喧噪が終わったばかりなので、皆休暇を取っているのかも知れなかった。
カトウは、リュックの中に手を入れてその武器の一つを握りしめた。ケータイで確認すると、時刻は午後の12時27分を指していた。あと3分だった。カトウは、捕まった先代のカトウに敬意を表して12時30分にその凶行を開始するつもりでいた。あと3分だと、カトウは滝のように流れる汗を拭おうともせず、ただ一心に交差点を見つめながら、静かにその時を待っていた。
と、その時だった。カトウはふと、都会の雑踏の中にそれとは似つかわしくない声を聞いた気がした。それで、その声の聞こえてくる方を振り返った。すると、そこには一匹の三毛猫がいた。三毛猫が、地下鉄の入り口の屋根の上にちょこんと座って、じっとこちらを見ているのだ。そして、見ているだけではなかった。三毛猫は、何やら鳴き声を発していた。けっして大きくはないのだが、しかし低く、鋭い調子で、継続して鳴き続けていた。
カトウは、思わずその声に耳を澄ました。そして、その声にじっと耳を澄ましているうちに、それが何やら規則的な文言となっていることに気がついた。それは、言葉のようにも聞こえたが、言葉になる以前のスキャットのようにも聞こえた。「キャットがスキャットか」と、ふとくだらないダジャレが頭をかすめたりもしたが、カトウはなおも、その声に集中した。やがてその声は、カトウの耳にはこんなふうに聞こえてきた。
カンジザイボサツ。ギョウジンハンニャハラミッタジ。ショウケンゴウンカイクウ。ドイッサイクヤク。シャリシ。シキフイクウ。クウフイシキ。シキソクゼクウ。クウソクゼシキ。ジュソウギョウシキ。ヤクブニョゼ。シャリシ……
2
新聞社の女は、今まさに地上26階建ての自社ビルのその屋上の端の手すりを乗り越えたところにいた。靴は、手すりの内側にきれいに揃えて脱いであった。靴の横にはお気に入りだったルイヴィトンのバッグを置き、その中に会社向けと家族向けの二通の遺書をしたためておいた。
新聞社の女は、屋上の縁に立ち、うだるような暑さの中、都会には珍しく抜けるような青さの広がった空を見つめながら、自分の人生を少しのあいだ振り返ってみた。思えば恥の多い人生だったように思う。小さな時からの負けず嫌いが高じて、ケンカばかりしてきた。親友と呼べるような友だちは一人もなく、いつも一人ぼっちだった。それでも、つらいと思ったことはなかった。自分は他の子とは違うのだ、ああいうふうに群れているのは彼らが弱いからだ、弱いから群れてお互いの傷をなめ合っているのだ、私は違う、私は一人でも雄々しく立ち、例え傷を負うことになろうともひるむことなく前に進む、私は負け犬ではないのだ、そんなふうに考えて、いつでも前向きに生きてきた。
勉強では誰にも負けることがなかった。おかげで一流の高校に進み、一流の大学に進み、やがて一流の企業に職を得た。女が志したのはジャーナリストだった。ジャーナリストこそ、自分の生きる道だと信じた。何ものにもひるまず、世の真実を見極め、ただそれに向かって邁進する。それこそが、自分に与えられた役割だと思った。それこそが、自分がこの世に生まれた意味でさえあると思っていた。
それが、いつどこでどう間違ったのか、女にはさっぱり分からなかった。気がついた時には、デタラメな記事を書き飛ばし、ヤラセをくり返し、嘘を嘘で塗り固め、世の中を混乱に陥れた。それが世間の明るみに出た時、女には想像もつかなかった巨大な制裁が待っていた。それは、女がクビになって済むような些細な問題ではすでになくなっていた。世間の、それまでは羊の群れとバカにしていた民衆から、一斉に牙をむかれた。牙をむかれて、私たち狼の牙城であったはずの新聞社が食らい尽くされようとしていた。新聞社は、今や深刻な経営の危機にあった。それもこれも、女が積み重ねてきた嘘にその発端があった。それはもはや、辞表を書いたくらいでは許されないほどの大きな罪であった。
女は、やがて一人の男性のことを思った。その男性は、女がその短い生涯でただ一人、恋をした相手だった。相手は高校の同級生だった。勉強はできなかったが、いつも微笑みを浮かべている穏やかな人物だった。どんなにテストの点が悪くても、その微笑みを絶やすことはなかった。ある時、女は、たまたまテストで成績が学年で2番に下がり、悔しさのあまり誰もいない教室で一人泣いていたことがあった。その時、ふと背中をさすられて心臓かと止まるかと思うほど驚いた。振り向くと、そこにはその男子生徒が立っていた。男子生徒は、心配そうに女の顔をのぞき込みながら、彼女の背中をさすっていたのだ。そして、女が振り返ると、一言、こう言った。「きみはがんばり屋さんなんだね。えらいよ。大丈夫、次はまた一番になれるから」。ちなみに、そのテストの学年最下位はその男子生徒だった。
その男性生徒が今どこでどうしているのか、女は知らない。男子生徒は、結局高校の授業についていけず、高校3年生の時に転校していったからだ。その男子生徒のことが、今この時、なぜか思い出された。それから女は、右腕のカルチェの腕時計で時刻を確かめた。午後2時57分だった。女は、3時ちょうどになったら飛び降りることを決めていた。3時は、女がまだ子供だった頃、唯一の楽しみだったおやつの時間だったからだ。几帳面だった彼女の母は、いつも決まって3時きっかりに、おやつを出してくれていたのだった。
女の考えが、その懐かしい少女時代に向かいかけた時だった。誰もいないはずの屋上で、何かの鳴き声のようなものが聞こえた。女は、驚いてその声のする方を振り向いた。すると、そこには一匹の三毛猫がいた。三毛猫は、その屋上のフェンスの内側にいて、じっとこちらを見ていた。そして、見ているだけではなく、何やら目を細くして、ニャアニャアと鳴いていた。
女は、猫がそんなふうに鳴くのを今まで見たことがなかったから、思わずそれに目を奪われた。そして、その猫の鳴き声に耳を澄ました。それは、不思議な鳴き声だった。確かに猫の鳴き声なのだが、何やら人間の言葉のようにも聞こえるのだ。そして、それが何やらリズムを持った、そして意味を持った歌のようにも聞こえるのだった。そう、それはまるで歌だった。歌というかラップというか、とにかく一定のリズムに乗せて言葉を紡ぐ、それはまるでお経のように聞こえた。
ゼショホウクウソウ。フショウフメツ。フクフジョウ。フゾウフゲン。ゼコクウチュウ。ムシキ。ムジュソウギョウシキ。ムゲンニビゼツシンニ。ムシキショウコウミソクホウ。ムゲンカイ。ナイシムイシキカイ。ムムミョウ……
3
男は童貞だった。童貞な上にオタクだった。オタクでハゲでデブでおまけにワキガで、年齢は39歳だった。今年で40だった。
男はアイドルオタクだった。アイドルのファンになったのは16歳の時からだったが、驚くべきことに今でもそれが続いていた。ちなみに最初にファンになったのは岡田有希子で、今ファンなのはPerfumeだった。もう3年も前の36歳の時からPerfumeのファンをしていた。だから、ブレイク前から追いかけていることになった。初期からというわけではなかったが、ブームになってからついたにわかファンとはわけが違った。もちろん、Perfumeに人気が出てファンが増えることは一面には嬉しかったが、一面には鬱陶しくもあった。というより、鬱陶しいことの方が多かった。何より鬱陶しいのは、心ないファンが増え、彼にとって一番の楽しみであったライブが、それほど楽しい場ではなくなったことだった。
ファンが増えたことで、Perfumeのライブは確実に以前ほど楽しい場ではなくなった。マナーを知らない若造が増えたおかげで、ライブ会場は広いところが増えた。それまでは、こじんまりとした200人も入ればいっぱいのライブハウスでやっていたのを、数千人が入るようなホールでやることが多くなった。おかげで、以前のように、手を伸ばせば届きそうなところで、そのほとばしる汗がややもすればかかりそうな近さでライブを――のっちを見られることは皆無になった。のっちは今や、双眼鏡で覗かなかればその表情さえ判別することのできない、ピンナップの切り抜きよりもずっとずっと遠い、小さな存在に成り果ててしまった。
Perfumeは変わった。のっちも変わった。のっちはもはや自分だけののっちではなくなった。育ててやった恩も忘れて、節操もない新規客に媚びを売るようになった。一体誰のおかげで売れるようになったと思ってるんだ。おれらは、利用されるだけ利用されて使い捨てか? そう思うと、男は無性に腹が立って仕方なかった。
ところが、そんなPerfumeが久しぶりにライブコンサートをするという話が舞い込んできた。場所は、売れる前はよく使っていたキャパは200人も入ればいっぱいの小さなライブハウスだった。その話を聞いた時、男は、これは万難を排してでも駆けつけなければと思った。Perfumeは忘れてはなかったのだ。いかにブレイクし、いかに新規客を獲得しようとも、おれらと一緒に培ってきた、あの小さなライブハウスでの一体感、あの(したことないけど)セックスにも似た恍惚感、絶頂感を、のっちは忘れてなかったんだ。のっちは、おれらとのセックスを忘れてなかったのだ。あの快感を忘れられないのだ! だから、もう一度あの思い出の場所であの思い出のセックス(ライブのこと)をやろうと思ったのだ! のっちはまだやっぱりおれらのことを忘れてはいなかったのだ!
男は結局正規のルートではそのチケットを買えなかったので、転売屋から買うことになった。提示額は3万円だったけど、その転売屋とは懇意にしていたので、2万5千円にまけてもらった。それでも、正規の値段の5倍で、それが男には本当に腹立たしかった。人気さえ出なければ5千円で買えたところを、なんでその5倍も払わなければならないのだ! 男は、理不尽さに歯噛みする思いだったが、しかしのっちとのセックス(ライブです)のためなら仕方なかった。
そうして男は、勇躍そのライブ会場へと向かった。しかしそこで待っていたのは。これまで味わったことがないほどの大きな絶望だった。なんとそこには500人もの観客が押し寄せていたのだ。200人も入れば一杯になるライブハウスで、どういう嫌がらせなのか500人もの観客が押し寄せ、それが今や、満員電車さえ及ばないほどの寿司詰めさで、ぎゅうぎゅうに詰め込まれているのだった。
200人で一杯の会場にオタクが寿司詰めで500人。それは、いかにオタク歴の長い男にとっても地獄以外の何ものでもなかった。おまけに男にあてがわれた場所は、抽選の結果、入り口に一番近い場所、つまりステージからは最も遠い場所であった。これでは、のっちの顔が小さくなるどころか、たくさんのオタクたちの背中に遮られ、その顔さえ満足に拝むことができなかった。そればかりではなく、その歌声さえ、オタクどもの歓声や悲鳴にかき消されて、満足に聞こえないほどだった。
男は絶望した。39年生きてきて、オタクであるだけにさまざまな絶望は味わってきたつもりだったけれども、ここまで深い絶望はちょっと記憶になかった。男は、のっちとの久しぶりの一体感を味わうためにこの会場へ来た。そのために、2万5千円の大枚をはたいた。ところが、そこで待っていたのがこの仕打ちだった。のっちの顔が見えないばかりか、その声さえ満足に聞こえない。代わりに見えるのは、500人ものひしめき合うオタクたちで、聞こえてくるのはその気持ち悪い怒号や嬌声や悲鳴。そして男を何より絶望させたのはその異臭であった。それはもはや人間の我慢の限界を超えていた。男自身、重度のわきがに悩んではいたものの、ここまでの異臭はかつて経験したことがなかった。それを嗅いだ瞬間、男の中の何かが弾けた。
男は、たまらず会場からロビーへ逃れ、辺りを見回してみた。するとそこには、古い布製のソファがあった。ソファは、背もたれのところがはげていてウレタンの下地が剥き出しになっていた。男は、そのソファをやにわに持ち上げると、会場のドアの前にバリケードを築くようにして置いた。それから他にも、手近にあったいくつかの物を次々と持ってきて、そのライブ会場の唯一の出入り口のところに積み上げていった。周囲には、なぜか人影がなく、男のそうした行動は誰にも見咎められなかった。
それから男は、やにわに煙草を取り出すと、それを一服し始めた。男は、それを今生の最期の一服にしようと決めていた。これを吸い終わったら、布製のソファに愛用のジッポで火を点け、500人のオタクたちと、そしてステージの3人を、この会場もろとも燃やし尽くすつもりであった。そして自分も、それと一緒に燃え尽きるつもりであった。
と、その煙草を半分くらいまで吸い終わった時だった。男は、ふいに猫の鳴き声のようなものを聞いた。いくらドアが閉まっているとはいえ、ライブ会場からは相変わらずオタクたちの嬌声と悲鳴が漏れ聞こえていたから、そうした声が聞こえるとはとうてい思えなかった。だから男は、最初はそれを幻聴だと思った。しかしそれにしてはいやにはっきり聞こえるので、男は周囲を見回してみた。すると、さっきまで布製のソファが置いてあった、そこだけカーペットの色がまだ赤々としている床のところに、一匹の三毛猫がちょこんと座っていた。そしてその三毛猫が、何やらニャアニャアと鳴き声を上げているのだ。
男は、思わず吸っていた煙草を手近にあった灰皿に捨てると、その猫を注視した。その猫は、なぜか男が幼い頃に飼っていた、もうとうに死んでしまったはずのミケという名の猫にそっくりだった。男は、自分が気が狂ったのかと思った。自分が気が狂って、ミケの幻を見ているのかと思った。しかしその猫は、そんな男の思いを知ってか知らずか、ただ眩しそうに目を細めて、何かを訴えるように、しきりとニャアニャア鳴き続けるのであった。
そこで男は、その鳴き声に耳を澄ましてみた。彼の飼っていたミケも、時々ではあったが、そんなふうに何かを訴えかけるように鳴く時があった。それは、時には餌をねだったり、外へ行きたいという要求だったが、特に理由もなく、そんなふうにニャアニャア鳴くこともあるのだった。そんな時、男はなぜミケがニャアニャア鳴くのか不思議に思いながら、いつもそのミケの鳴く姿を飽くことなく眺めているのだった。そうしてこの時も、男はその三毛猫の鳴く姿にいつまでも見入っていた。そして、その猫の鳴く声に、いつまでも耳を澄ましていた。
ヤクムムミョウジン。ナイシムロウシ。ヤクムロウシジン。ムクシュウメツドウ。ムチヤクムトク。イムショトクコ。ボダイサッタ。エハンニャハラミッタコ。シンムケイゲムケイゲコ。ムウクフ。オンリイッサイテンドウムソウ。クキョウネハン。サンゼショブツ……
4
少女は今まさに包丁を持って両親の寝室の前に立ち尽くしていた。両親の部屋の隣にはおばあちゃんが眠っているはずだし、その向こうの自室の二段ベッドの下には弟も眠っている。どこまでできるかは分からないけれど、順番なら決まっていた。それはお父さん、お母さん、おばあちゃん、そして弟の順だ。それが一番確実だからだ。お父さんとお母さんさえやることができれば、後はすんなりいくだろう。一番の難関は、言うまでもなくお父さんで、その次はきっとお母さんだ。お父さんが怖いのは、やっぱり抵抗されることだ。大人の男の人だから、力はもちろん自分より全然上。抵抗されたら、きっとひとたまりもないだろう。だから、ひと思いに、ふいを衝かなければならない。それには、眠っている、今この時を狙う以外ない。
お母さんは、きっと抵抗されたとしても勝てる。すでに身長は私の方が高いし、第一お母さんはどんくさい。怖いのは、私の心だ。いざとなったら躊躇してしまうかも知れない、私の弱さだ。お母さんに、もしやめてと言われたら、私はこの包丁を突き立てることができないかも知れない。お母さんに、もし殺さないでと言われたら、私はこの包丁を持ち続けることができるだろうか? 分からない。と言うより、自信がない。私はお母さんを殺せる自信がない。だから、お母さんもやっぱり起きる前にやってしまわなければ。お母さんが気付く前に、その胸に、この包丁を突き立ててしまわなければ。
おばあちゃんは、問題なくやれると思う。だいたい、おばあちゃんはもう長く生き過ぎた。もう70年近くも生きて、おばあちゃんもこの先良いこともないだろう。だから、おばあちゃんは問題なくやれる。むしろそれは良いことなのだと割り切ってやれる。息子夫婦を殺されて、孫がその犯人だなんて、きっと暢気なおばあちゃんには耐えられないだろう。きっと、苦しんで苦しんで苦しんで、最後は耐えきれなくなって自殺するはずだ。だから、そんなふうに自殺するくらいなら、私がその前に殺してあげる。これはおばあちゃんのためなんだ。私は、おばあちゃんを殺す自信がある。
弟は、どうしたらいいだろう? 弟は、当たり前だけどまだ若い。それに、心も柔らかいから、私がこういう事件を起こしても、耐えられるかも知れない。というより、私のこの行動を、理解さえしてくれるかも知れない。同情を示してくれるかも知れない。なんで私がこういうことをしたのか、この世で唯一理解してくれるのが弟かも知れない。でも、世の中には知らなくてもいいことというのもある。不運というのもある。弟は、私の弟に生まれてきたことが不運なのかも知れない。これは、誰のせいでもない。ただ、運の巡り合わせなのだ。だから、弟は、運を天に任せよう。弟が、みんなを殺した後に、それでも気付かずに眠っていたのなら、弟はそのままにしておこう。でも、その逆に、気付いて、起きて、私に向かって何かを言ったり、何かをしてきたのなら、その時は、運がなかったのだと思って、弟もやることにしよう。
よし、これで考えはまとまった。少女はリビングにかかっていた時計を見た。時刻は午前1時57分を指していた。少女は、午前2時になったらそれを始めようと思っていた。それは、前に丑三つ時というのは午前2時だというのを聞いたことがあったからだ。そして丑三つ時というのは、これをやるには一番ふさわしい時間のように思えた。前に、ホラーマンガでそんなような話を読んだことがあったのだ。丑三つ時は、呪いの時。だから、この私の呪われた運命の、呪われた行いをするにはぴったりの時間に思えた。
と、その時だった。少女は、窓の外に何やら気配を感じた。それで、少女はびっくりした。ここはマンションの8階だ。外に誰かいるはずもなかったが、物音がしたのは確かだった。それで少女は、そのままキッチンに隣接するリビングの向こうのベランダを、そっとカーテンを開けて覗いてみた。そして、心臓が飛び出るほど驚かされた。なんと、そこには一匹の猫がいたのだ。猫は、煌々と光り輝く満月の月明かりを全身に受けて、その三毛の毛並みをキラキラと輝かせていた。
少女は、その美しさにゾッとするような思いを味わったが、同時に、何やらその猫の様子がおかしいことにも気付いていた。おかしいと言うか、何やら低いうなり声を上げているのだ。それは、サッシの向こうからなのでよくは聞き取れなかったけれど、はっきりと見える口の動きからも、猫が何か鳴き声をあげているのは確かだった。そこで少女は、その包丁を右手に持ったまま、左手でサッシをそっと開いた。そして、その猫の鳴く声に、耳を澄ましてみた。するとそれは、何やらモゴモゴとした、言葉といえば言葉のようでもあるし、鳴き声といえば鳴き声のような、何やら不思議な声であった。少女は、その声に耳を澄ました。その声は、満月の夜の向こうに、どこまでも深く染み渡っていくような、低く、重く、そして長いものであった。
エハンニャハラミッタコ。トクアノクタラサンミャクサンボダイ。コチハンニャハラミッタ。ゼダイジンジュ。ゼダイミョウシュ。ゼムジョウシュ。ゼムトウドウシュ。ノウジョイッサイク。シンジツフコ。コセツハンニャハラミッタシュ。ソクセツスワツ……
終
猫は鳴いていた。猫は鳴き続けていた。眩しそうに目を細め、大きな口を耳元までぱっくりと開け、その牙をはっきりと露わにして、時に高く、時に低く、その鳴き声を、いつまでもいつまでも唱え続けていた。
ギャテイ。ギャテイ。ハラギャテイ。ハラソウギャテイ。ボウジソワカ。ハンニャシンギョウ……
