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2008-07-29

笑わせるのか、笑われるのか?

昔からよく、「笑わせるのか、笑われるのか?――それがだいじだ」みたいな言葉を聞いてきた。お笑いの世界では、まことしやかに言われていた。「笑われてはいけない、笑わせないと」。


しかしおれは、どうもこの言葉が嫌いだった。なんか気にくわなかった。「そんなご大層なものなのか?」という思いが常にあった。理由は分からなかったけど、どうにも釈然としない、腑に落ちない何かがあった。


さっき、唐突にそのことの理由が閃いた。「笑わせるのか、笑われるのか?」っていうのは、結局「差別するのか、差別されるのか?」ってことなんだ。人のことを差別して笑いを取っているのが「笑わせる」方、自分が差別対象になって笑いを取っているのが「笑われる」方。


なんだ、結局大差ねえじゃねえか。どっちも同じ穴の狢だ。おれはどっちもいやだな。おれはどっちもいやだ。どっちにもコミットメントしたくない。おれはやつらとは一線を画したい。おれはもっと別の場所にいたい。と言うか、立場を不鮮明にしていたい。少なくとも、笑いの当事者ではいたくない。彼らにとって門外漢でいたい。


おれは、笑わせるやつにも、笑われるやつにもなりたくない。やつらを遠巻きにして、遠くからポーカーフェイスでwatchしていたい。おれはもう、そういうのとは関わり合わないようにしたいんだ。

削ることだ

もし何かを面白くしたいのなら、足すのではない、削ることだ。

プログラムを面白くしたいのなら、コードを削ることだ。コードは、短ければ短いほど美しい。簡略化し、単純化し、効率化することだ。いかに短く書けるか――が、即ちそのプログラマーのセンスと能力だ。

絵を面白くしたいのなら、線を削ることだ。その代わり、削ったその線の中に、魂を込めることだ。一つの線に、三つも四つもの意味を持たせることだ。

ディレクターなら、要素を一つに絞ることだ。その一つの中に、全力を注入することだ。多要素は、結局面白がられない。例えば、かけられる工数が十だったら、一のものを十作るのではなく、五のものを二作るのでもなく、十のものを一作れ。人は結局、そういう突出したものをこそ面白がる。

運動選手なら、動作を削れ。一つの動作で、二つのことのをこなせ。野球選手なら、取る動作と投げる動作を一つにしろ。柔道家なら、相手の技をかわす動作と相手を投げる動作を一つにしろ。テニス選手なら、走る動作と打つ動作を一つにしろ。動作を削って、一つにするのだ。

俳優なら、全てを削れ。まず動くな。そして喋るな。いかに動かず、いかに喋らないで表現するか。そのことを突き詰めた先に、演じるということの神髄がある。

将棋指しなら、手数を削れ。一手で、攻めにも守りにも効いている、そういう一石二鳥を狙え。将棋ではこれを「攻防の一手」という。そして将棋の勝負というのは、詰まるところ、どれだけ「攻防の一手」を多く指せたかで決まる。

アイデアマンなら、アイデアを削れ。多くのアイデアを出すより、一つのアイデアで勝負しろ。一つのアイデアで、複数の問題を解決しろ。それが一つの問題しか解決できていないものを、アイデアとは呼ばない。と宮本さんは言っていた。そういう一石二鳥を狙い続けるのが、アイデアを考えるということだ。

教育者なら、子供を削れ。子供に、したいことを極力させるな。あれもダメこれもダメと、厳しく規制しろ。自由とは、伸び伸びとした環境からはけっして生まれない。なんでもしていい状態は、結局何をしていいのか分からなくなり、かえって不自由なのだ。真の自由は、不自由さの中にある。人は、不自由さの中にあってこそ、その中で何をすれば良いのか、創意工夫する。見つける。そして自ら、作り出す。


削れ、削れ、削れ。とにかくなんでも削るんだ。削って、芯をえぐり出せ。その芯の中にこそ、面白さというものの真の姿がある。

人知れず努力をするというのは

人知れず努力をするというのは、とてもだいじなことである。

しかしそれ以上にだいじなことが、この世には一つだけある。

それは、人知れず努力していることを、それとなく人に知らせることだ。

戦争をなくす方法

「お母さん、この世から戦争がなくなることはないの?」

「いいえ、いつかきっとなくなる時が来るわ」

「え? それはどんな時?」

「それは人類が滅亡する時よ」