2008-08-09
先輩はぼくを殴った
(これは実話を元に構成されています)
失敗ばかりの人生だったが、いくらかの運にも恵まれていたように思う。一番の幸運は先輩と巡り会えたことかも知れない。仮にY先輩としておく。ぼくはY先輩が好きだった。Y先輩は、ぼくをずっと好きでいさせてくれた。
Y先輩と初めて会ったのは会社に入ってすぐだった。最初はとてもいかつい印象だった。ちょっと怖い感じもした。実際怖いところもあったが、普段はとても明るかった。そしてやさしかった。何より面白かった。Y先輩は太陽のような人だった。いるだけで周りを明るく照らした。そして周りを笑いの渦に巻き込んだ。ぼくはY先輩がすぐに好きになった。いつしかY先輩の後をくっついて歩くようになった。
Y先輩の後をくっついて歩くようになってから、分かったことがいくつかあった。それはY先輩がただやさしくて明るいだけじゃないことだった。一面には怖くて残酷なところがあった。不謹慎でいいかげんなところがあった。Y先輩はガキ大将のような人だった。ガキ大将がそのまま大人になったような人だった。よく言われる「少年の心を持っている」というやつだった。良くも悪くも、Y先輩は少年のような人だった。
Y先輩の後をくっついて歩くようになってから、ぼくはいろいろ意地悪もされた。こき使われたし、よくからかわれたりもした。ぼくはちょっとテンポがみんなとずれていて、思いこみも激しかったから、よくからかいの対象になった。それでもぼくは、それが嬉しかったりもした。と言うのも、ぼくはそれまで、テンポが皆と違うために、なかなか集団というものに溶け込めないところがあったのだが、Y先輩がそういうふうにからかってくれたおかげで、一つ居場所を作ってくれたのだった。ぼくは、Y先輩と一緒なら集団にも溶け込めた。逆にY先輩がいないと、いつものちょっとぎこちない感じが出てしまった。Y先輩はぼくにとってはアダプターのようなものだった。Y先輩という変換器を通じ、ぼくは初めて集団とコネクトすることができたのだった。そして、そういう人はぼくだけではなかった。みんな、多かれ少なかれぎこちないところがあったけれど、Y先輩という変換器を通すと、上手い具合に集団に溶け込むことができたのだった。Y先輩は、ほとんど万能のアダプターだった。だから、ぼくらの集団にはなくてはならない存在だった。
四六時中一緒にいるような関係が何年か続いた。その中ではいろいろなできごとがあった。ぼくは二度、Y先輩から殴られたことがあった。二度とも、みんなの前で殴られた。それも何度も殴られた。いわゆるボコボコにされたというやつだ。ぼくは二度、みんなの前でY先輩からボコボコにされたことがあった。
一度は、ぼくが大切な仕事をすっかり忘れてしまった時だ。会議の場で、ぼくはY先輩から頼まれた仕事をすっかり忘れていたことに気付かされた。その時、Y先輩から初めて殴られた。Y先輩は手が早く、ぼく以外の人間も何度か殴られたというのを聞いたことはあったけれども、ぼく自身は殴られるのが初めてだったし、また殴られるなんて考えたこともなかったから、大きなショックだった。それは子供のようなショックだった。殴られた顔の痛さよりも、心の方のショックが大きかった。なんと言うか、世界の終わりのような気がした。絶望のどん底に叩き落とされたような気がした。ぼくにとって最も大切な社会との接点であったY先輩との関係が、そこで断ち切られてしまったような気がした。ぼくは、二十人ほどがいる会議室で、衆人環視の中で殴られた。そのことの状況も少しきつかった。十分ほど説教と殴りとが交互に来て、その間に誰も口を差し挟まなかった。Y先輩はそういうことが多かったので、慣れていたのもあって皆黙って見ていた。Y先輩は怒ると本当に怖かった。そして怒ると誰も口出しできないようなところがあった。
それ以降、ぼくとY先輩の関係は少し変わった。どう変わったのかを説明するのは難しいけれど、ぼくはY先輩と以前より親しくなったような気がした。以前よりY先輩に対して遠慮しなくなった。以前よりY先輩の懐に飛び込むようになった。一方Y先輩はぼくを少し遠ざけるようになった。少し距離を置いて見るようになった。その分、遠慮がなくなったようなところもあって、ちょっと複雑な感じだった。例えて言うなら、それまでは先輩後輩だったのが兄弟のような感じになった。近くなったけれども、その分遠くもなった。これまでみたいに四六時中一緒にいるわけではなくなったけれども、一緒にいる時はあうんの呼吸で、遠慮会釈なしに丁々発止やり合えるようになった。
それからさらに色んなことがあった。ぼくはぼくで大人になるに連れてぼくの人間関係のようなものも生まれ、Y先輩はY先輩でまた別の人間関係が大きくなったりしたけれども、ぼくとY先輩の関係はそういうところは抜きにして、遊びとかお喋りとか息抜きとか、そういう場でのつき合いが濃くなり、次第にそれがほとんどになっていった。
そうした中で、Y先輩にもう一度だけ殴られた。それはみんなでボウリングに行った時のことだった。その時は、またぼくの悪い癖が出てしまって、ワガママを言って周りに迷惑をかけてしまった。その時にまたY先輩が怒った。今度も再び、有無を言わさずぼくを殴った。その時は一発だけだったけど、その時もやっぱり堪えた。その時のぼくは、ちょっと人生をこじらせてそれに喘いでいるところがあったので、Y先輩に殴られたこともそれに拍車をかけるようでますます心を痛めつけられた。けれども、一方では今の自分には殴られるくらいがお似合いだという自暴自棄な気持ちもあって、なんとなくホッとしたりもしたのだった。
長年つき合う中で、ぼくとY先輩のあいだには色々なことがあり、関係は少しずつ変化していった。その中で、一度だけY先輩に裏切られたことがあり、その時は大きなショックを受けた。それまでは、Y先輩は男らしく、どんな状況であれやさしさを忘れず、保身に走ったり誰かを裏切ったりするようなことはない人間だと思っていた。それが、たった一度だけだけれども、致し方なかったとはいえ、嘘をつかれて裏切られたのだった。
この時を境に、ぼくとY先輩の関係はまた少し変化した。ぼくは、Y先輩にこれまで以上に遠慮しなくなったし、また甘えるようになった。それまでは、Y先輩は絶対的な何かであったけれども、短所もある、もっと人間くさく、親しみやすい人のように思えるようになった。Y先輩が裏切ったことが、ぼくのY先輩に対する遠慮を取り除いてくれたのも知れなかった。一方、Y先輩がどう思っていたのかは知れないけれど、Y先輩もそんなぼくを受け入れるようになった。ぼくらの関係はますます兄弟のようになって、ぼくは時々だけれど、Y先輩に憎まれ口すら叩くようになり、つっこまれつつではあったけれども、羽目を外したりバカをやったりするようにもなった。
もつれるようにして十年が過ぎた。その頃、ぼくの人生に対してのつまずきは益々大きくなっていて、絶望の淵を彷徨うような生活を送っていた。悪いことに悪いことが重なり、いよいよ負のスパイラルを真っ逆さまに転げ落ちて、進退は窮まっていた。ギリギリまで追いつめられ、もはや二進も三進もいかなくなって、希望は完全に断ち切られてしまっていた。
その状態で、さらにとどめを刺すような決定的なできごとがあって、ぼくは行方をくらましたことがあった。重大なことを決意して、四日間ほど、誰とも連絡を取らず、あてどもなく彷徨っていたことがあった。
その間、ぼくはケータイの電源をずっと切っていた。一度、いつもかけている目覚ましのタイマーで自動的に電源が入ってしまい、その間に会社から何度か連絡の留守電が入っていたのだけれど、それを消してからはタイマーも切って、とにかく決着をつけようとその方法と場所を探してなおも数日間右往左往していたのだった。
しかしぼくはついに決着をつけることができなかった。心が色々なふうに動き、逡巡や躊躇いや絶望や疑問など、いろいろなものが交錯して、ついに、決着をつけることを諦めるざるを得なくなった。
それから、ぼくはケータイの電源をつけた。留守番電話センターに問い合わせると、二十件ほどの留守番電話が入っていた。ぼくは、その件数の多さに少しだけ戸惑いながらも、各所がそれなりに連絡を残していったのかなと思って、なんの気なしにそれを再生してみた。
再生して驚いた。それらは全て、Y先輩からの留守番電話だったのだ。
残されたメッセージの内容は、なんということはなかった。最初は「Yです、電話下さい」という、きわめて事務的な、いつもの調子のメッセージだった。しかしそれが、回を重ねるに連れ、だんだんと乱暴になっていった。段々と言葉遣いが荒くなり、段々と怒気を含むようになっていった。
最後は、ほとんど激怒した声音でメッセージが残されていた。
「てめえ、なんで電話に出ないんだよ!」
「しかとしてんじゃねえよ、ぶっとばすぞこのやろう!」
ぼくは、ぼくがそういう決着をつけようとしていたことも忘れてぞっとさせられた。その場にいたら、ぼくは間違いなくぶん殴られていただろう。それは、Y先輩からの三度目のぶん殴りになっていたはずだ。そして、もうそんな思いを味わうのはイヤだった。ぼくはもう、Y先輩からは殴られたくなかった。
それから、それでもいくらか躊躇いはあったのだけれど、ぼくはY先輩に電話をかけた。それはぼくにとって、生まれてからこれまでの中で最も重要な電話だったかも知れない。その電話が、今思い返せば、ぼくの運命の重要な何かを決定づけたのだった。
電話をかけると、Y先輩が出た。開口一番怒鳴られるかと思ったけど、案に相違して、Y先輩はきわめて普通の口調だった。
「おう、どうした?」
「すいません、連絡遅くなりまして」
「いや、いいけどよ……あ、ちょっと待って、あ、それ下げちゃって下さい」
「?」
「ごめんごめん、それでどうした?」
「いや、あの……」
「こっちうるさくて聞こえないんだよ。もっと大きな声で喋ってくれ」
それでぼくは、電話の向こうに耳を澄ましてみた。すると、何やら大きな音楽の音が聞こえてきた。それとともに、女の子の歌声なども聞こえてきた。また、手拍子や歓声までも聞こえてきた。
その時、Y先輩はカラオケボックスにいたのである。カラオケボックスで、女の子たちとカラオケを楽しんでいたのだった。
それは全くY先輩らしいことだった。その瞬間、ぼくはY先輩にはかなわないと思った。Y先輩には、もうこれで一生頭が上がらないと思った。
その後、ぼくはY先輩の取りなしでなんとか仕事に復帰することができた。そうして、それを境になんとかどん底の状態から這い上がることにも成功し、以降、それまでとは違った、新しい生活を送れるようにもなった。
しかしそのことも含めて、ぼくとY先輩の関係はその後も大きく変化していくことになった。それについては、また次回に。
(つづく)
