2008-08-18
映画の見方における「正解」について
とある「崖の上のポニョ」に関する記事の中に、こういう記述がありました。
「批評」を、算数ドリルの答え合わせのような、どこかに確たる「正解」があって、自分はそれを知っているかのように作品を「採点」することだと思っている人が多すぎやしないでしょうか。みんなが知っているような「正解」とは違う、自分には思いもよらなかったような新しい答え方を、作品の中に発見する営みのことを批評と呼んだ方が、僕はいいと思います。
これについて、ぼくの思っていることを述べます。
まず、映画の見方について、ぼくの考える映画の見方の「正解」というのは、「どう解釈するか?」ということの中にはありません。「崖の上のポニョ」をどう解釈しようと、それは自由だと思います。その映画の解釈に、一つの絶対的な「正解」があるわけではない。ポニョを可愛いと思おうと気持ち悪いと思おうと、そのことに優劣はないと思います。
但しそれは、映画を正しく見ていた場合に限ります。正しく見るとは、その「姿勢」について言っています。
ぼくの考える映画の見方の「正解」というのは、「見る人の姿勢」の中にこそあります。その人が、どういう姿勢で映画に臨むか、どういう姿勢で見るべきかということについては、厳格な「正解」があると考えています。
それは、「虚心坦懐」に見るということです。虚心坦懐に見ないのは、映画の見方における「不正解」であると考えます。ですから、虚心坦懐に見ない人の映画評は、当然「不正解」だと考えています。虚心坦懐に見ていない人の解釈は、誤りであると考えています。その意味においては、映画の解釈には優劣が生まれ、正解不正解が出てくることもあると考えているのです。
ところで、これに関連したことなのですが、映画の見方の「不正解」として、往々にしてやってしまうことというのが、一つあるように思います。
それは、作り手の意図や思いを汲み取り、それを自分の解釈より上位に置いてしまう――ということです。つまり、「監督はきっとこういう意図で作ったのだから、こう解釈するべきだ」とか、「作った人でない限り、その作品の(あるいは登場人物)の本当の解釈は分からない」といった考えです。
これは、映画に限ったことではありません。例えば、国語の授業などでも、「作者は、この小説で何を言おうとしたのでしょうか?」と問うたりします。こんなふうに、人々は往々にして、その創作物の作者というものを、自分たちより上に置こうとするきらいがあります。
しかしこれは、二つの意味でやるべきではありません。二つの理由で、映画の(ああるいは創作物の)見方としては「不正解」です。
その理由の一つは、以下に引用する記事によく書かれています。
別に映画作った人が何考えて撮ろうが、観る人にとって ほとんど何の関係もない。観客は自分で映画を判断する必要がある。例えば、もし仮に「E.T」の監督が
「この映画で"宇宙人に会ったら、問答無用で殺さなくてはいけない"事を訴えた」
と発言しようが、観客は発言に惑わされずに映画だけを観て「映画のメッセージ」を判断しなければならない。
監督の内心当てゲームをする為に映画を観ている訳では なく、自分で映画を再構成する為に観ているのだ。と いうより、それしか出来ない。
これはまさしくその通りだと思います。
また、もし「観る人」が「虚心坦懐」に映画に接しようとした場合、作り手の意図や思惑というのは、かえって余計なものとなるおそれがあります。それは、予断やフィルターを「観る人」に与えてしまうからです。
だから、もし本当に「虚心坦懐」に見ようとするなら、そうした考えはシャットアウトするのが正しいのです。そうした予断やフィルターを閉め出した上で、映画と自分が一対一で向き合うのが、一番「虚心坦懐」な見方です。
もう一つ、作り手の意図や思いを汲み取るのが「不正解」だという理由は、「作り手というのは、何も考えてない場合が多い」というのがあります。また、よしんば考えていたとしても、作品というのは、そうした作り手の意図や思惑を越えてほとんど自律的に成立していくものですから、それを斟酌するのは無意味だということもあります。
例えば、こんなエピソードがあります。
野坂昭如はこの作品を執筆していた当時、他にも小説やコラムなどの仕事を何本も抱え込んでいたと後に語っている。ひたひたと忍び寄る締め切りと何人もの担当者とのやり取りで受けるプレッシャーに晒され、まさに地獄のような日々の中でなんとか原稿を仕上げていた大変な時期だったという。また、孫娘の学校での宿題の「火垂るの墓の作者は、どういう気持ちでこの物語を書いたでしょうか」という問いに対し、「締め切りに追われ、ヒィヒィ言いながら書いた」と答えたと、テレビ番組で発言した。
このことからも分かる通り、作者の意図や思惑など、考慮したって意味がないのです。むしろ考慮するべきではない。ましてや、それを上位に置いて、解釈の正解にしようとするのは大きな誤りです。
ですので、例として引くので申し訳ないのですが、こういう見方は「不正解」だと言わざるを得ません。
誰もハヤオ本人じゃないんだから、本当のところなんてわからないんだからいいじゃん、感想なんて、別に。「ではない」とか断言してるけど本人に聞いたの?
それからもう一つ、こういうのも「不正解」です。
要するに、宮崎駿は、この作品で、はっきりと、「キャラクター」の「もっともらしさ」より、「キャラ」の「強度」を全面的に前に押し出しています。
(中略)
いきなり絵コンテ描き始めるからシナリオがなってないだとか、説明が足りないだとか、親を下の名前で呼ぶのはどうかとか、あの母親の運転は乱暴だとか、あんたが教師で宮崎駿が生徒かよって思ってしまいます。そんな教師の示す「正解」通りのアニメーションなんか、宮崎駿は見たくないわけですよ。
これは、実は一番最初に引用した記事の中にあった言葉です。
「宮崎駿」が何を「全面的に押し出し」たかとか、「宮崎駿」がどういう「アニメーション」を「見たくない」かといったことは、前述のように考慮すべきではありません。それは余計な予断を与えてしまい、「観る人」の目を曇らせるからです。そして、虚心坦懐に見ることをできなくさせます。
実際、上に引いた記事は、そうした予断にとらわれたものとなっています。
例えばこの人は、「観る人」が「親を下の名前で呼ぶ」ことや「母親の運転は乱暴」なことに嫌悪感を示した人に対し、「あんたが教師で宮崎駿が生徒かよ」という言い方で、これを批判しています。また「そんな教師の示す『正解』通りのアニメーションなんか、宮崎駿は見たくないわけですよ」と言って、これを否定までしています。
しかしこれは、人々の自由な解釈を制限し、あたかもそれに一つの正解があるような物言いとなってしまっています。それは、この人が最初に述べていた「『批評』を、算数ドリルの答え合わせのような、どこかに確たる『正解』があって、自分はそれを知っているかのように作品を『採点』すること」に他なりません。この人は、自分でそれをダメだと言っておきながら、舌の根も乾かぬうちに、自分自身でしてしまっているのです。
これこそは、まさにそうした予断を持ったことの弊害と言えるでしょう。その意味からも、映画を見る時には、作り手の意図や思惑を考慮しない方が良いのです。それは、映画の見方としてはやはり、「不正解」だと言わざるを得ないでしょう。
才能ってなんだろう?
才能ってなんだろうと考えることがある。
ぼくは天才が好きで天才の評伝を好んで読んでいた時期があった。そのうちの一つにモーツァルトがあったのだけれど、そこにはいまだに心に残っている興味深い一節があった。モーツァルトは同時代の誰よりも音楽の技法に精通していたというのだ。今の言葉で言うなら「情報強者」だった。それも史上最強の情報強者だった。彼は物心ついた時から膨大な量の音楽情報を浴びるようにして育ち、しかも記憶力が良かったから、そのデータベースは誰よりも豊かに、また膨大なものとなった。彼が作曲をする時には、その膨大なデータベースから最適解を選び続けるような感じだったらしい。だからモーツァルトの音楽は全部コンテクストがあるのだ。新しくはあるけれども、飛躍的に新しいというわけではない。ちゃんと、それまでの伝統の上に築かれている。
モーツァルトの音楽は、けっして天から降りてくる類のものではなかった。それらはもともと彼の記憶の中にあったもので、つまりは一度は聞いたことのある音ばかりだった。もちろん、その組み合わせ方にはこれまでにない新しさがあったし、それによってこれまで聞いたことのない音楽は生み出された。しかし本質的には至極真っ当なもので、言うなれば基本がしっかりしていた。当時――と言うよりあらゆる年代を通じて音楽の基本が一番しっかりしていたのがモーツァルトで、そう考えると、彼があれだけのすばらしい曲を残したのはとても道理に適ったことだったのだ。
ぼくは、世の中というのはそういうものだと思っている。「そういうもの」というのは、一見神秘的だけれども、注意深く見ると、とても道理に適っている――ということだ。
例えばぼくは、将棋の棋士を天才と言う人がいるけれども、あれが嫌いだ。彼らは天才ではない。彼らの話を注意深く聞いていると、将棋に集中するためにありとあらゆることをしているというのが分かる。それが分かれば、彼らが将棋に強いのもむべなるかなと納得させられる。それはとても道理に適ったことなのだ。少しも神秘的なことではない。
その上で、ぼくは才能について考ている。
才能について考える時、ぼくはいつも手塚治虫のある言葉が思い出される。それは「才能とは結局記憶力のことである」というものだ。
才能とは記憶力のこと――この言葉を聞いた日から、ぼくはずっと記憶力について考えてきた。
記憶力とはなんだろう?
記憶力は、才能とどう結びつくのだろうか?
なぜ手塚治虫は才能とは記憶力のことだと言ったのか?
手塚治虫の考えていた才能、そして記憶とは、一体どのようなものだったのか?
ぼくは、そのことについてずっと考えてきた。そして、そう考えながら生きてきた中で、記憶について気付かされるいくつかの場面に出くわした。そういう場面を通じて、ぼくの、才能であったり記憶力についての考えというのは、いくらかまとまったものとなってきた。
その、才能と記憶力との関係について、これからいくつか記事を書いていきたいと思っている。
