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2008-08-31

「コレが「絵の上手い漫画家ランキング」の完全版です。」という記事についてのいくつかの考察

まずこのエントリーがあった。


ところで、「魅力とは何か?」いうものを突き詰めていくと、「ベクトルの違うものを並べても、それを比較することができる」ということが分かるようになる。sukebeningen氏の上記のエントリーも、そうした文脈の上に則っている。これは、ある程度「表現すること」というものを突き詰めた人にとっては、実は自明の理なのだ。

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但しそれは、見つけた本人にとってはちょっとした発見でもある。

と言うのも、たいてい大人になる過程で、「ベクトルの違うものは比較ができない」という錯覚に陥るからだ。たいてい、みんな一度はその錯覚を信じ込むようになる。そういう錯覚を信じ込まなかったのは、山下清のようなある種永遠の子供を生きたような人だけだ。

それが、大人になって「魅力とは何か?」ということを突き詰めていくと、ある日それが錯覚であったということに気付かされる。真実を見通す目で見ると、例え全くベクトルの違うものであっても、優劣を判断できることに、ある日はたと気付くのである。それは例えば踊りのバレエとスポーツのバレーでさえ比較できるという、まるで「時間は可変する」といったような、感覚的には信じがたいことなのだけれども、動かしがたい事実として眼前に立ち現れるのだ。そしてそれは、見つけた本人にとっては大いなる「発見」となるのである。


この発見は、大いなる快感を伴う。またコペルニクス的転換の興奮をも伴う。だから、これを発見した者は誰かに伝えたくなる。ガリレオ・ガリレイのように、みんなの前で発表したくなる。

けれども、それはまさに地動説のように、たいてい誰にも受け入れられはしないのだ。むしろ拒否反応を示される。そればかりではなく、皆から糾弾される。バカにされて、揶揄される。例えばこんなふうに。

kanose ベクトルの違うもの並べて、比較してもなあ。何が何でもランキングしないと気が済まないという気質?


こういうリアクションが、実はほとんどなのである。だから、これを発見したガリレオたちも、次第にこのことを口にしなくなる。代わりに、少し言い方を考えて、例えば「今自分が取り組んでいるものについて、如何にすればそこに魅力を宿せるか」といった、もう少し具体的な「定理」に落とし込むようになる。「ベクトルの違うものを並べても比較することができる」という公理を共有するのは難しいので、もう少し理解の易しい定理を編み出し、それを伝えるようになるのだ。

定理の有名なのには、「虚実皮膜」とか「秘すれば花」がある。あるいは、「弱き者、汝の名は女」というのもある。「才能とは結局記憶力のことだ」というのもある。

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話を戻すと、sukebeningen氏が執拗に優劣を論じるのも、こうした文脈に則っている。彼も、いつからか「ベクトルの違うものを並べても、比較することができる」ということを発見し、それを広く伝えたいと思うようになったのだろう。

この手の発見者は、ある種の傲慢さも兼ね備えているのが常だ。この公理を広めたいと思うのと同時に、公理を見つけるに至ってない人に対して、ある種の欺瞞を感じるようになるからだ。彼らを、真実から目を背ける卑怯者のように感じるのである。そうして、その欺瞞を暴いてやりたいというある種の正義感に突き動かされ、このように攻撃的な発言をするようになる部分がある。

それは、例えばゴッホとゴーギャンが美についてさんざん論じ、ついに仲違いしたこととも似ている。あるいはダ・ヴィンチミケランジェロが、その作品で美を競い合い、生涯相容れなかったこととも似ている。

ベクトルの違うものは競い合えるのである。これは厳然とした事実だ。そして競い合うことをよしとしない人間は、永遠に真実には辿り着けない。それをもどかしく思うから、sukebeningen氏は、多少お節介であるとは自覚しながらも、それを理解しない人たちに向けてこうした記事を書いているのだろう。


しかし一方では、kanose氏に代表される、そういうことを理解できない人たちの心情も分からないではない。「ベクトルの違うものを並べても比較できる」という事実を知らない人たちにとっては、それを比較することに、ある種の恐怖を感じるのだ。その恐怖は、そういう考えがもっと悪辣な「選民思想」であったり排他的な全体主義といったものに結びつくのではないかという疑念に基づいている。そういうヒットラー的ないやらしさを、そこにどうしても感得してしまうのだ。

そして実際に、そういう悪辣に行き着く側面もこの事実にはあるのだ。過去の、欺瞞なく事実を追求していたギリシアとかルネッサンスといった時代は、それはそれで選民思想的で全体主義的であり、とても殺伐としていた。その意味で、彼らの感じる恐怖もまた、正しかったりするのだ。


ところで、話は変わるが最初に挙げたsukebeningen氏の記事のブックマークページのコメント一覧は、実に興味深いことになっている。


これはまるで、評論家気取りホイホイだ。もちろん全てのコメントがそうだというわけではないのだが、このエントリーは、「何も知らないのに何かを語った気になって良い気持ちを味わおうとする人たち」にとっての、ちょうど良い受け皿となっている。そういう人たちを、誘蛾灯のようにどんどんと吸い寄せている。


そうした人たちへの批判というのは、下の記事に詳しい。


はてなブックマークの今のコメント機能は、確かに一言何か言って「何か言った気になって満足したい」という人たちにとって、とても気持ちの良いものとなっている。ぼくは、それはそれでも別に良いのじゃないかと考えているのだが、はてなブックマークをもっと有用なものにしたいという考えの人たちもまた一方にはいて、そういう声を反映させた結果、はてなは結局これを非表示にする機能をつけたのだろう(但し「消毒しましょ!」のAntiSeptic氏にはこれを有用なものにしたいという考えはこれっぽっちもなくて、ただそういう人たちをバカにしたいだけだというのを、彼の名誉のためここに付け加えておく)。

ぼくにとっては、この機能は今のところあまり関係ないもののようにも思えるのだが、これがこれからどう推移していくのかは、興味を持って見守りたいと思っている。

世阿弥に学ぶ魅力的なブログの書き方

能役者の世阿弥は、能というものについて、その表現について、色々なことを語っている。

但しその言葉は、単に「能」にだけ当てはまるものではない。能という一ジャンルを超えて、「魅力(世阿弥はそれを『花』と表現した)とは何か?」ということ全般について、広く普遍的にその真理を説いている。

そんな世阿弥の箴言の数々を参考にしながら、ここでは「魅力的なブログを書くにはどうすれば良いか?」ということについて、考えてみる。


目を前に見て、心を後に置け

これは、「目はしっかりと前を向きながらも、意識は頭の後の方に置いておけ」という意味だ。

目の前のことをちゃんと見ながら、その見ている自分自身をさらに後から見る「心の目を持て」ということでもある。つまり、自分自身に対して「色々な見方」ができるようにしておけということだ。

これをブログに置き換えるなら、記事を書く時は、自分の書きたいことを書けば良い。但し、それをどういうふうに受け取られるかについては、いつも意識しておけということだ。賛成意見から反対意見まで、意識をそれを書いた自分の少し後ろに置き、客観的に見られるようにしておく必要がある。


離見の見

これは、「自分を離れたところから見る」と言うことだ。舞台で言うなら、客席から見るような意識で自分を見ろということ。

これをブログに置き換えると、自分の記事を、他人のPCの前で見るように見ろということになる。あるいは、誰かのケータイの小さな画面から見るように見ろということ。そういう「離見の見」を身につければ、ブログはもっと魅力的になる。


眼まなこを見ぬ所を覚えて、左右前後を分明に安見せよ

これは、「目は自分の目を見られないということを知った上で、周囲の状況をしっかりと見極めろ」というようなことを言っている。

人間には、絶対に分かり得ないものというのがある(目が自分の目を絶対に見られないように)。そのことをまず意識して、記事を書く。その上で、「分からない」でよしとするのではなく、物事をしっかり見ようとする姿勢、すなわち真実を見極めようとする姿勢もだいじなのだ。

「知ったかぶりもダメ」なのだけれども、「知らないでいることもダメ」という、これはなかなか矛盾した、難しいことを言っている。けれども、それゆえにまた、この世の真実でもあるのだろう。

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秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず

「花」とは「魅力」と言い換えることができる。芸事は、秘密にすれば魅力的になるけれども、秘密を明かしてしまっては魅力的ではなくなってしまう。

これは、ブログで言うなら、作者の心情や、その記事に秘められたさまざまな内実といったものは、なるべく明かさない方が良いということだ。隠せば隠すほど、そのブログは魅力的になる。

端的に言うと、それを書いた作者のことをべらべら語られても、読んでる方は興醒めしてしまうということだ。例えば、ネガコメを書かれたとしても、それに対するリアクションを書いてしまったのでは面白くない。自分がそれについてどう思っているかということは、極力隠して淡々と書き続けることが、そのブログの魅力を増すことになる。

だから、「オリンピックの閉会式が閉会する前に私が閉会した」とか、「子供を必要以上に叱ったり、妻に辛く当たる自分自身の度量の狭さに耐えられなくなってしまった」とか、「確かに最近、ちょっと殺伐としていると思う」とか、そういうことを書かれると、そのブログの魅力は大いに失せてしまうのである。


稽古は強かれ、情識はなかれ

「情識」とは慢心や奢りといった意味だ。世阿弥は、「稽古は一生懸命やり、けっして慢心したり驕ったりするようなことのないように」と説いている。

ブログにも、これは当てはまる。一記事一記事、けっして慢心したり驕ったりせず、常に全力で書くということがだいじなのだ。


時分の花を、真の花と知る心が、真実の花に、なほ遠ざかる心なり

これは、「一時の流行を時分の実力だと思い込んでしまえば、本当の実力からはますます遠ざかってしまう」というようなことを言っている。

ブログでも、これと同じことが言える。書いた記事がたまたま評判が良くて、多くのブクマアクセスを集めたとしても、それを自分の実力のなせるわざだと思い込んでしまえば、本当の実力からはどんどん遠ざかってしまう。だから、そういうことのないように、常に虚心坦懐にブログを書き続けることがだいじなのだ。

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われより下手をば似すまじきと思ふ情識あらば、その心に繋縛せられて、わが悪きところをも、いかさま知るまじきなり

これは、「自分より下手な人からは見習うところなどないという慢心があると、それに縛られてしまって、自分の悪いところまで見えなくなる」ということを言っている。

どんな人からでも、見習うところはあるのだ。例え自分の嫌いなブログからでも、学ぶべき点はある。人間というのは多面的な生き物だから、その一面だけを見て判断してはいけないのだ。どんな人からでも学ぶべき点というのはあり、そのことを忘れなければ、自分の短所というものにも気づけるようになるだろう。

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初心忘るべからず

「初心」とは、それを始めた頃の気持ちではなく、未熟だった頃の自分の状態である。

ブログで言うなら、「文章を思うように書けなかった時代」のことや、あるいは「まだアクセスがちっともなかった時代」のことだ。そうした時代のことをいつまでも忘れないようにすることで、いつでも新鮮な気持ちで記事を書くことができる。また、そうすれば書く記事も新鮮で、自然と魅力的なものとなってくるはずだ。

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せぬ所が面白き

これは、「能というのは、動きのあるところではなく、実は動きと動きのあいだの止まっているところが面白い」といったような意味だ。あるいは、「なんでも表現しようとするのではなく、かえって表現しようとしないところに、魅力というものは宿る」ということも言っている。

これをブログに置き換えると、記事というとは、書くだけではなく書かないことも、また一つの表現になるということだ。例えば、それまで毎日書き続けてきたのに、丸三日間くらいぱったり書かなくなったりすると、そのことがまた一つの表現になったりする。あるいは、当然触れて然るべきネタだろうと思われているネタに、あえて触れないというのも、これもまた一つの面白い表現となるのだ。

さらには文章にしても、いたずらに長く書くのではなく、時には肝心なところをあえて書かないことが、その記事を魅力的に見せることの一つの方策となる。


このせぬ隙はなにとて面白きぞと見る所、是は、油断なく心をつなぐ性根也。心を捨てずして、用心を持つ内心也

「しないところ」の何が面白いかと言えば、油断なく緊張感を保っている状態なのである。気を抜くのではなく、絶えずアンテナ張っている、その心のありようだ。

これをブログで言うなら、例えば映画の記事を書いたとして、その監督のことをとことんまで考え抜いた末に、あえてそれには触れなかったりするところが面白さとなる。もしその監督についてとことん考え詰めていれば、たとえ書かなくても、行間からそれがにおい立つ、抑えようもなく溢れ出てくる。そういう、におったり溢れ出たりするものが、本当に面白いもの、魅力的なものとなるのである。

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住する所なきを、まず花と知るべし

「住する所」というのは、一箇所にとどまるということだ。だからこの一文は、「とどまらないということが、まず魅力なのだということを知るべき」ということを言っている。

ブログもそうである。常に同じものを書いていたのでは、面白くない。それがどんな方向であるにせよ、変化し続けていなければ、まず魅力的はブログとは言えないのだ。

だから、だいじなのは変化を恐れないことだ。世阿弥はまた、こんなことも言っている。


よき劫の住して、悪き劫になる所を用心すべし

「劫」とは「実績」の意味だ。つまりこれは、「過去の実績にしがみついてそのことばかりくり返していると、それそのものが悪い実績になってしまうから気をつけろ」ということを言っている。

ブログは、絶えず動き続けなければならない。過去の実績というのは振り切って、常に新しいことに挑戦していく勇気と気概が必要だ。内容や、スタイルや文体などについても、過去に縛らることなく、どんどん変化させていくことが肝要なのである。

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