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2008-09-02

0020やさしさやぬくもりを商品化

今日道を歩きながらビジネスを考えてみた。今、人々は何を求めているのか?

しかし全く思いつかなかった。思いつくのはやさしさとかぬくもりとかいうことだけだった。少なくとも便利さや快適さではないと思った。


便利さや快適さは一つの飽和状態に来ていると思う。昭和の時代なら、不便さや不快さはそこここに転がっていた。そんなものは探さなくても山ほどあった。だからサービスといえば(あるいはビジネスといえば)それらを解決するだけで良かった。

ところが今は違う。今は不便さや不快さがとても見つけにくい状態になっている。例えばテレビを考えてみる。ぼくの家のテレビはハイビジョンではない。でも、ハイビジョンでなくても不便は感じない。不快にも感じない。今の液晶テレビで十分満足してしまってる。ハイビジョンにそれほど魅力を感じない。

これが、昭和の中頃の白黒テレビしかない状態だったらどうだろう? お金を払えばカラーテレビを買えるという、そういう状態だったらどうだろう? 白黒テレビだった時の、カラーテレビに対する飢餓感というのにはものすごいものがあったのではないだろうか? それに比べると、今のハイビジョンテレビというものに対する飢餓感は、本当に小さなもののように感じられる。


不便さや不快さがビジネスの種にならないとすれば、これまで誰も知らなかったような新しい快適さ、便利さ、面白さ、楽しさを生み出すというのもある。それもイノベーションの一種だ。

しかし、これは難しい。このことには途方もない創造的なエネルギーが伴う。加えて運や閃きも必要とする。それを実現するのはある種の奇跡に近い。そうそうできることではない。

こういう無から有を生み出した人はいるのだろうか? 任天堂マイクロソフトアップルGoogleはそういうことに成功した数少ない企業なのかも知れない。それ以外の事例を、ぼくはパッと思いつかない。よく考えればあるのかも知れないけれど、でもやっぱりなかなかそう簡単にできることではない。


残されたものは何か? 今、人々に足りないものは何か? 今、人々が求めているものは何か? 今、人々に何を提供すればビジネスとして成立するのか?

それはやっぱりやさしさやぬくもりだと思う。それに愛。あるいは生きていても良いという承認。

そういうのが圧倒的に足りない。そういうのを提供できれば、需要は大きいだろう。それは、昭和初期にテレビや冷蔵庫や洗濯機を提供すれば需要があったのと似ている。


だから、それらを提供できるようなビジネスを考えれば良いと思う。

それでも、一つだけ問題がある。それは、やさしさやぬくもりを提供することと、それに対して報酬を受け取ることは、なかなか両立しないということだ。この両者は相性が悪い。なぜならやさしさやぬくもりは、通常「無償で提供されてこそ価値のあるもの」だと思われているからだ。それが有償になった瞬間、そのやさしさやぬくもりは価値をなくすばかりか「そんなのはやさしさでもぬくもりでもない」という人たちも現れるだろう。両者は水と油なのだ。

それでも、この問題さえ解決できれば、そこには大きなビジネスチャンスが広がっている。

今ふと思いついたのだが、日本人にとって水というのは、昔はただみたいなものだった。それが今では、大都市近郊ではお金を出して買うのが当たり前になった。そこには、ここ数十年で大きな価値の転換があった。

これと同じような価値の転換を、やさしさやぬくもりにも持ち込むことはできないだろうか? それができれば、このビジネスにはきっと大きな成功がもたらされるだろう。


道を歩きながら、そんなことを考えた。

美というもの価値基準

美というものの価値基準は有史以来少しも変遷していない。それは夕やけに対する人々の認識が古来より少しも変遷してないということだ。「秋は、夕暮」というやつである。

もちろんスモッグなどの影響で、夕やけそのものが美しく見えなくなったということも場所によってはあるだろう。けれどもそれは、夕やけそのものの美しさが損なわれたということではない。スモッグによって、美しいものを美しいままに見られなくなったというだけだ。


夕やけの美しさを知る人は、永遠不変の美というとああ夕やけのことかとすぐにピンと来る。彼らにとって美というのはものすごくクリアーな概念だから、それを疑いようもないのだ。

一方美というものの価値基準と言われてもピンと来ない人たちは、ちゃんと夕やけを見たことがない人たちである。彼らは夕やけをというものを知らないか、あるいは知っていてもスモッグのかかった夕やけしか見たことがないかである。だから、永遠不変の美と言われると、スモッグがかかったピントのずれた夕やけしか思い浮かべることができないため、それが確固たる価値基準ではないように思えてしまうのだ。


そういう人たちに美というものの価値基準を分かってもらうためには、やはり夕やけを見てもらうしかない。それもスモッグのかかっていない、真に美しい夕やけをである。

但し、いかにスモッグのかかっていない夕やけを見てもらったとしても、彼らの心の目にスモッグがかかっていたならば、それはやっぱり分かってはもらえないだろう。いかに美しい夕やけであったとしても、心の目にスモッグのかかった人の心にまでは、それはやっぱり届かないからだ。


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