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2008-10-06

「それとはなしに表現」されたマンガの一コマたち

いまスタニスラフスキーの評伝である「スタニスラフスキー入門(ジーン・ベネディティ著・松本永実子訳)」を読んでいるのだけれど、これが面白い。芸術についての興味深い言葉がいくつも出てくる。その中に、こういう言葉があった。

もし演劇がゴーゴリのいう「観客を教育するという義務を果たす説教壇」なら,俳優は直接的に説教をしてはならない。観客に考える内容を伝えるのは俳優の機能ではない。戯曲のメッセージは,それとはなしに表現されなければならない。(p.28-29)


また、演劇の自然な表現を指す「ナチュラリズム」を、こんなふうに批判している。

ナチュラリズムは観客の主要な楽しみと大切な満足感を騙し取る。つまり,俳優と演出家とデザイナーがその技術で暗示したものを、俳優とともに観客が想像力で完璧なものにする楽しみを奪いとるのだ。(p.27)

これは演劇について述べられた言葉なのだが、それだけに当てはまるものではない。あらゆる芸術表現において、全てを説明してしまうのは観客の楽しみを奪いとることになる。観客が想像力で内容を「完璧なものにする」楽しみを騙し取る。だから、作り手は内容を――その「メッセージ」を――「それとはなしに表現」しなければならないのである。


これを読んでまず真っ先に思う浮かんだのはマンガのことだ。マンガには絵とコマ割りと台詞(ト書き)という、主に三つの伝える手段があるけれども、特にその絵において、「それとはなしに表現」されたものというのは、時に絶大な効果を発揮する。そうして、読者にそこに込められたメッセージを「完璧なものにする楽しみ」を与える。


これまでマンガを読んできた中で、ぼくはいくつかの「それとはなしに表現」された絵に対して、震えるような感動を覚えたことがあった。そうして、自分の想像力でそこで暗示されたものを「完璧なものにする」ことに、これ以上ない楽しみを味わった。

そこでここでは、そうした「それとはなしに表現」されたマンガの絵(あるいはコマ)のいくつかをまとめてみたい。これをまとめることによって、マンガのみならず演劇も含めた芸術全般において、「それとはなしに表現」するとはどういうことなのかを考える足がかりにしたいからだ。


SLAM DUNK

SLAM DUNK」の物語終盤は、作者の井上達彦がヒートして、異常に高いテンションを維持したまま、表現のある種の極北にまで到達している希に見る傑作だ。その中で特徴的なのは、台詞やト書きを極端なまでに抑制して、ほとんど絵だけで表現し、伝えようとしているところである。

それが顕著に表れるのが、三井寿がファールをもらいながらもスリーポイントシュートを決める、いわゆる「4点プレイ」を成し遂げる直前の、宮城リョータの表情だ。


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このシーンで、ポイントガード宮城リョータは、流川とともに速攻で相手陣内になだれ込んでくる。しかし山王工高ディフェンスの素早い戻りで行く手を阻まれ、どうしようかと思案していた時に、その目の片隅に信じられない光景が飛び込んでくるのだ。

それは、すでに体力の限界を超え、動けなくなっていたはずの三井寿だった。その彼が、スリーポイントシュートを打てる地点まで駆け上がっていたのだ。

そうして作者の井上達彦は、この時の宮城リョータの驚きと喜びを、一つのコマの中で絵だけで表現している。それがすごい絵となっているのだ。ものすごい「それとはなしに表現」されたものとなっている。ここからは、いくらでも想像力をふくらませることができる。暗示されたものを完璧にする楽しみをいくらでも味わえる。どれだけ見ても飽きるということがない。これは本当に素晴らしい「それとはなしに表現」された絵だ。


「がんばれ元気」

堀口元気と対戦した世界チャンピオンの海道卓は、試合途中まで戦況を有利に進めながら、突然謎のダウンを喫し敗れてしまう。実は海道は、この試合の前までに脳に深刻なダメージを被っていて、パンチドランカーの症状を患っていたのだ。ここでは突然それが出て、意識を失ってしまったのだった。

試合後、意識を取り戻した海道は、元気のトレーナーであった露木と砂浜で落ち合う。しかしそこで、自分がどうしてここに来たのかを思い出せなくなる。表面的には、言葉はハッキリしているし表情も普通で、とてもパンチドランカーのようには見えない。むしろ、それまでずっと酒を飲んでいた露木の方がふらついているくらいだ。

ところが、短い会話の後に、二人がいずこかへ向かって歩き出した時、いきなり深刻な事態が露わになる。砂浜には、露木と海道の足跡が残されていたのだが、酔って蛇行している露木以上に、海道の方が右に左に大きくふらついているのだ。


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作者の小山ゆうは、この一コマの絵だけで、海道の患った症状の深刻さをこれ以上なく表現している。これを初めて見た時、ぼくは心の底からゾッとさせられた。そうして、海道卓という人間の運命に、思いを馳せずにはいられなかった。


火の鳥鳳凰編」

手塚治虫の作品中のみならず、これまで書かれたあらゆるマンガの中でも最も偉大な作品の一つがこの「火の鳥鳳凰編」だ。このマンガの素晴らしさはいくつもあるのだけれども、中でも取り分け素晴らしいのはその絵である。

火の鳥鳳凰編」は、「芸術」が一つのテーマとなっている。特に茜丸と我王という二人の芸術家の優劣の競い合いが、作品そのものの骨格となっている。その中で際立っているのが、二人の作った彫刻の素晴らしさを伝える、手塚治虫の「絵」の説得力である。

我王も茜丸も、優秀な芸術家であることから、彼らの作るものは美的に優れている。だから、それを表現する絵も、美的に優れていなければマンガそのものの説得力がなくなる。

しかしこの難題を、手塚治虫はいともあっさりとクリアーしてみせる。それも、マンガ的にも極めてストレートな表現で、なんら特別な手段を講じることなく、二人の作った素晴らしい芸術をマンガの絵として表現してみせたのだ。


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この絵は一つの奇跡である。この絵があるだけでも、「火の鳥鳳凰編」は、人類が未来永劫受け継いでいくべき真の傑作となった。


童夢

大友克洋の「童夢」はパズルのような作品である。あまりに精緻に描かれているので、そのコマの一つ一つを綿密に検証し、キャラクター一人一人の動きや感情を子細に検討してみたくなる誘惑に駆られる。この作品自体が一つの「それとはなしに表現」されたものとなっていて、どこまでも想像をふくらませることができるし、どこまでも「完璧なものにする楽しみ」を味わうことができるのだ。

このマンガには、印象的なコマが本当にいくつもあるのだけれども、中でも趣深いのはこのコマだ。


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これは、いたずら(殺戮)をくり返すチョウさんに対して、それまでは諫めるような態度で比較的穏やかに接していた主人公の悦子が、ついに本気を出すというか、彼女の中で何かが転倒を起こす瞬間の絵である。

この目、この口。ぼくは「童夢」を読む中で、何度もこのコマを見返した。そしてこの瞬間の少女の内面というものを、幾度となく想像した。その想像は尽きることがなかった。その想像は飽くことがなかった。大友克洋は、このコマによって、あるいはこのマンガによって、永遠に完成することのない優れたパラドックスをはらんだ永久パズルのようなものを、我々に提供してくれたのである。


あしたのジョー

最後に取り上げるのはこの作品だ。言わずと知れたスポーツマンガの金字塔――と言うよりは、マンガそのものの金字塔である。特にその最終話の最後に描かれた一コマは、空前絶後の大きな反響を巻き起こしたことで今日もなお語り継がれている。


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ジョーは果たして死んだのか? あるいは生きているのか?

当時、このマンガに接した全ての読者は、その想像をたくましくせずにはいられなかったし、またそれを巡って侃々諤々の議論をくり広げた。

このコマについては、作者のちばてつやが印象的な言葉を残している。

当時、ちばてつやもある種の異常なテンションの中でこのマンガを描いていた。井上達彦の「SLAM DUNK」と同じように、精神がある種白熱した状態で、真っ白にヒートしながら描いていたのだ。だから、描き終わってからしばらく経って、その熱から覚めてしまうと、もうこの時のようにジョーを描けなくなったというのである。この後、何度かジョーの顔を描く機会もあったのだが、どうしても、この最終話を書いていた頃の表情であるとか雰囲気が出せないというのだ。

それほど、この最終話のこのコマは特殊なのである。作者のちばてつやでさえ、どうやって描いたのか分からないくらいの、大いなる謎をはらんだ、それゆえに想像力をたくましくさせられ、それを完璧にすることをいつまでも楽しんでいられる、不世出の一コマなのである。


付記

以上は、今思いつく限りの「『それとはなしに表現』」されたマンガの一コマたち」ですが、また何か思い出したら、この列に加えていきたいと思います。


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