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2008-12-22

非コミュは選択の結果である

例えば耳の聞こえない人がいる。このブログを読んでる人にも、そういう人がいるかも知れない。

耳が聞こえないということは、その人にとって大きな個性の一つになるだろうが、もちろんそれだけが彼らの性質を決定づけるわけではない。「耳が聞こえない」というだけで、耳が聞こえない人を一括りにはできない。耳が聞こえない人の中にも色んな人がいる。彼らはけっして一様ではない。


耳が聞こえない人の中にも、おそらくモテとか非モテがいるはずだ。あるいはコミュとか非コミュもいるかも知れない。耳が聞こえない人の中にも、いわゆるコミュニケーション能力(と言われるもの)の高い人はいるだろうし、その逆に、コミュニケーション能力(と言われるもの)の低い人もいるだろう。

彼らにとって、「耳が聞こえない」という個性は、実はコミュニケーション能力(と言われるもの)とはあまり関係なかったりする。それよりも、相手の気持ちを忖度できるとか、自分の主張ばかりを押しつけないとか、お互いのメリットになるような関係を築こうとする姿勢だとか、そういうのが、コミュと非コミュとを分かつより大きな要素となる。


優秀なナースがいる病院は、なかなかシステムが改善されないのだそうだ。それは、病院のシステムに少々の不備があろうとも、優秀なナースは自らの能力でそれを解決してしまうので、結果的にシステムの不備が目立たなかったり、あるいは気づかれなかったり、気づかれたとしても大した問題ではないととらえられてしまうからだ。


その逆に、内田樹の勤めていた大学には、研究室を散らかしておいたままにする人たちがいたらしい。彼らは、それが汚いと分かっていながらも、自分たちでは掃除をしようとしなかった。しかしそれが、結果的にシステムの不備を顕在化させるという、皮肉な結果にもなっていたらしい。


ところで、アスペルガー症候群というのがあるという。ぼくはアスペルガー症候群に関してはほとんど知らない。前に書いた「コミュニケーション能力という幻想」という記事にトラックバックを頂いたのだが、そこに分かりやすく説明してあった。ぼくの知識は、ほとんどそれを読んだくらいだ。


しかし、そんなぼくでも分かることがある。それは、アスペルガー症候群というだけで、彼らを一括りにはできないということだ。彼らの中にも、いわゆるモテと非モテがいるだろう。彼らの中にも、コミュと非コミュがいるだろう。彼らも、けっして一様ではないということだ。


耳が聞こえない人の中にも、コミュニケーション能力(と言われるもの)の高い人はいる。例えば、道に迷った時。通行人に、道を尋ねたい。そういう時に、尋ね方の上手い人と、下手な人がいるはずだ。

そこで、耳が聞こえないというのは、実はあまり重要ではない。重要なのは、通行人を呼び止める度胸とか、自分が耳を聞こえないことを伝える勇気だとか、筆談をするために紙と書くものを用意しておく心構えだとか、相手に気持ち良く道を教えてもらうための笑顔だとか、教えてもらった後の挨拶といったことだ。

もちろん、その逆に、耳が聞こえない人の中には、道に迷っても、なかなか道を尋ねられない人もいるだろう。彼らが道を尋ねられない理由に、耳が聞こえないというのは、確かにあるかも知れない。しかしそれだけでは、耳が聞こえないにも関わらず道を尋ねられる人とのあいだに生まれた隔たりは、説明することができない。


アスペルガー症候群の人にも、コミュニケーション能力(と言われるもの)の高い人はいるはずだ。非言語コミュニケーションが苦手なら、それを前もってきちんと伝えられる人。そうして、面倒でもなるべく言語化して伝えてくれるよう周囲に頼み、トラブルを未然に防げる人。そういう人が、たぶんいるはずだ。

あるいは、それでもコミュニケーションに齟齬が生じた場合には、自分のアスペルガー症候群に原因があったのだと気づける人がいるはずだ。相手が非言語コミュニケーションで何を伝えたいのかは分からないが、コミュニケーションが上手くいってないと分かった時点で、なぜ上手くいってないのかを自分なりに分析したり、また相手にそれを伝えたりすることができる人がいるはずだ。

そういう人たちは、自らのコミュニケーション能力(と言われるもの)について、どう思ってるのだろうか? やっぱり「自分は、コミュニケーション能力(と言われるもの)が低い」と思っているのだろうか? それとも、その逆に「自分は、コミュニケーション能力(と言われるもの)には自信がある」と思ってたりはしないのだろうか?


コミュニケーション能力(と言われるもの)が高い人というのは、耳の聞こえない人の中にもいるし、アスペルガー症候群の人の中にもいる。その逆に、コミュニケーション能力(と言われるもの)が低い人というのは、そういった障害や病気が特にない人の中にもいる。

彼らを分かつものは何なのか?


ところで、内田樹の大学の人たちは、なぜ研究室の掃除をしなかったのか?

一つ理由がある。それは、彼らが「掃除をしない方が得策だ」と判断したということだ。

彼らは、大学のシステムの不備を訴える必要があった。そのためには、システムの不備を顕在化させる必要があった。そこで、汚いと分かっていながらも、あえて掃除をしなかったのである。また、そこで自発的に掃除をした内田樹を疎ましい目で見たのだ。


非コミュというのも、これと似たところがあるのではないだろうか?

彼らは、何かを訴える必要があった。そのためには、何らかの問題を顕在化させる必要があった。そこで、不都合とは分かっていながらも、あえて非コミュであることを選択したのである。


もちろん、こればかりではないだろう。しかしいずれにしろ、彼らが非コミュにでいることの理由に、「非コミュでいた方が得策だ」という彼らの判断は、少なからずあるのである。

彼らは、コミュニケーション能力(と言われるもの)が低いことに不都合を感じながらも、総合的に見た時に、むしろ非コミュでいる方が都合が良いと判断したから、コミュニケーション能力(と言われるもの)を低いままにしているのだ。それは彼らの意志であり、選択なのである。


ぼくは、それが良いとか悪いとか言っているのではない。ただ、そうだと言ってるだけだ。彼らは、それが問題だと認識していながらも、その他の何らかの理由によって、総合的に判断した結果、非コミュであることを選んでいるのだ。


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