Hatena::ブログ(Diary)

ハックルベリーに会いに行く このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-01-26

ゲームとは何か?

先日仕事で、「そもそもゲームとは何か?」という話しになった。

ゲームの本質とは何か?

ゲームと言っても、単にコンピューターゲームのことだけを指すのではない。もっと広義の、およそ「遊び」と名の付くものならほとんど全てについてだ。


この「ゲーム」というものを見極めていくことは、これからのエンターテインメントを見極めていく上でとても重要だと思った。あるいは、そこから社会そのもの、人間そのものを見通すこともできるかも知れない。

なので、自分用の整理の意味も含めて、ゲームについて、今考えていることをここにまとめてみた。


ゲームの起源

ゲームについて知る上で、その起源を知ることは大きな意味を持つ。小説家は、処女作にその全てが現れると言うけれども、ゲームというジャンルについても、その処女作(起源)に、全てが現れると考えるからだ。


ゲームの起源を完全に規定することは難しいが、その一つの源流として「バックギャモン」がある。バックギャモンは本当に歴史の長いゲームで、古代エジプトに由来があると言われる。だとすると、3000年近くに渡って人々を魅了してきたということになる。


バックギャモンの本質は何かというと、双六という性質もあるが、やっぱり「陣取り」だろう。どれだけ陣を取れるかを競うのが、バックギャモンというゲームだ。

陣取りは、そのまま戦争のシミュレーションでもあるのだが、もっと本質的に、人間のDNAに組み込まれた、ある種の本能に根ざした欲求でもあるような気がする。

人間には、もともと「縄張り意識」があって、陣取りは、それをいたく刺激するのだ。人間は、喉が渇いたら水を飲みたくなるように、陣地を見たらこれを取り合いたくなるのである。縄張りを主張して、それについて争いたくなるのだ。

だから、ゲームそのものの本質の一つに、「陣取り」があると言うことはできるだろう。


ゲームの要素

では、ゲームの本質は「陣取り」であるということを踏まえた上で、「バックギャモン」に象徴的に現れる、ゲームの要素について考えてみたい。


バックギャモン」という「陣取り」ゲームには、主に三つの要素がある。

  1. シミュレーション
  2. 知育
  3. 運試し

これらについて、順に考えていきたい。


シミュレーション

バックギャモン」は、そのまま戦争のシミュレーションということもできる。これはいわば「シミュレーションゲーム」なのだ。

例えば、ローマ時代の武将は、バックギャモンを楽しんでいたという。これは、今でいうならジーコが「ウイニングイレブン」を楽しむようなものだろう。彼らは、リアルの戦争を知りながら、そのシミュレーションであるバックギャモンも、同時に楽しむことができたのだ。

その意味で、リアルの何かをシミュレートすることには、リアルそのものに勝るとも劣らない、あるいはリアルとは別種の魅力があるということができるだろう。何かをシミュレートするというのは、ゲームの大きな要素の一つなのだ。


知育

ローマの武将とバックギャモンについてもう一つ。

彼らがそれを遊んだのには、戦略や知略を養うという目的もあっただろう。バックギャモンを遊ぶことによって、戦うとは何かとか、作戦とは何かとか、戦略とは何かとか、そういうことを知ったり、学んだりしたのである。

日本でも、囲碁将棋が、そういう戦略スキルを養うのに使われていたという。そういう知育的な目的が、ゲームには最初期からあったのだ。


運試し

バックギャモン」は、ダイスによってその勝敗が大きく左右される。勝つためには、一方では知性や戦略を必要としながら、もう一方では運の良さも求められるのである。

それが面白い。これは、実際の戦争に似せようとした結果でもあるのだろう。実際の戦争も(特に古代のそれは)天気一つに大きく左右された。そういう、天を前に人は儚い存在であるというのを、ここではシミュレートしようとしているのかも知れない。

またそれとは別に、人間は、勝敗の趨勢を天に任せることが本質的に好きということもあるだろう。その象徴的な存在が、ギャンブルだ。ギャンブルは、ほとんどテクニックが介在しないが、それでいながら、いやそれゆえに、人々を熱狂させる強い魔力がある。

それは、自分の身を天に任せることの快感なのだ。あるいは、運を支配しようとすることの陶酔なのかも知れない。運は、いわば神の領域だ。だから、そこに踏み込むことは、まるで自分が神になったような気持ちを味わえるということもあるのだろう。

バックギャモンには、そういうギャンブル的な魅力も盛り込まれている。


ゲームの役割

次に、ゲームが人間にもたらす効果、社会における役割について考えてみたい。

「人間はなぜゲームを必要とするのか?」

「その一番の魅力は何か?」

ということについてである。


ゲームの大きな特徴としてまず思いつくのが、結果がすぐに、それもダイナミックに現れる――ということである。

昔、プロ野球を見ていた知人がポツリと言って、強く印象に残っていることがある。

「サヨナラヒットを打ったプロ野球選手のように、思わずガッツポーズをすることって、ぼくたちの日常にあるのかな?」

確かに、学校や会社でガッツポーズをすることというのはほとんどない。まれにテストで良い成績を取ったり、営業で大きな案件が決まったりするとそういう気持ちにもなるが、しかしそれとて、野球選手のように大っぴらにできるものではない。

例外的にあるとしたら、それはゲームをやっている時ではないか。ゲームをやっている時は、瞬間的な嬉しさがこみ上げてきて、思わずガッツポーズをすることもある。例えばみんなでボウリングに行ったりすると、ストライクを取ったりしようものなら、誰はばかることなく、当たり前のようにガッツポーズができる。

しかし、よくよく考えてみると、プロ野球選手にしてからが、ゲームをしているのだ。彼らは職業としてゲームをしているのである。だから、日常的にガッツポーズできるのだ。つまりガッツポーズは、ゲームをすることでしかできない行動だということができるのではないだろうか。


だとしたら、ゲームには、人にガッツポーズをさせるという役割――つまり瞬間的に嬉しさを込み上げさせるという役割があるのではないか。

人間は、普通に暮らしていれば、なかなかガッツポーズをする機会を持てない。それは、日常の中では、さまざまなことがらがゲームほどにはダイナミックに結果として現れないからで、嬉しさや悔しさといった感情が、瞬間的に込み上げてこないからだ。

しかしゲームには、それがある。そうしてそれは、大いなる快感、ストレス解消、意識の開放につながる。

だから、ゲームの社会的な役割としては、まず第一に、そうしたガッツポーズを取れるような快楽をもたらしたり、意識を開放させたりすることがある――と言えるのではないだろうか。


ゲームのという産業

ゲームそのものは、それこそ3000年前からあったのだが、現在のように大きな産業となったのは、コンピューターの誕生・発展と大きく関係している。端的に言って、ゲームとコンピューターは相性が良かった。だから、ここまで大きな産業に発展した。

コンピューター以前にも、ゲームはたくさんあった。コマやメンコがあったし、囲碁将棋があった。鬼ごっこがあった。双六や福笑いがあった。モノポリー人生ゲームなどのボードゲームもあった。トランプはもちろん、カジノや賭場もあった。

もともと、大きな需要はあったのだ。ゲームに対する強い希求は、人々のあいだに昔からあった。


コンピューターゲームは、そういう土壌に生まれた。そしてコンピューターゲームは、最初は必ずしもゲームとして目新しかったわけではなかった。初めは、現存するゲームの代替品として受け入れられた。

例えば「PONG」というコンピューターゲームの元祖のようなゲームがある。しかしこれは、そのまま卓球シミュレーションだということもできる。つまりPONGのような遊びは、PONG以前からあったのだ。

ただPONGは、それを遊ぶことの垣根を驚くほど低くしたという意味で新しかった。PONGを遊ぶことは、卓球を遊ぶことに比べると格段に簡単だった。卓球に必要な広いスペースも要らなかったし、卓球台もいらなかった。ラケットやボールも必要なかった。

そういうふうに、コンピューターゲームは最初、人々のゲームに対する強い希求に手軽に応えることができるものとして、受け入れられていったのである。


新しいゲーム

しかしやがて、コンピューターゲームは、それまでになかった新しいゲームも生みだした。その代表的なものが、アドベンチャーゲーム(以下「AVG」)とロールプレイングゲーム(以下「RPG」)ではないだろうか。

AVGRPGは、新しいゲームと言えると思う。これらは、コンピューターゲーム誕生以前からあったものの、それが本格的に受け入れられるようになったのは、コンピューターゲームが誕生してからだ。それまでは、好事家の珍しい趣味の一つに過ぎなかった。

AVGRPGは、本質的には、ゲームと言うよりもストーリーテリングの一種と言う方がしっくりくるかも知れない。ストーリーテリングは、それそのものは古くからあったが、表現形態は、時代によって大きく変遷してきた。最初は民間伝承から始まり、詩となり、演劇となり、小説が生まれ、映画が誕生し、マンガなどがあって、やがてAVGRPGが生まれた。


AVGRPGは、ストーリーテリングにゲームの手法(コンピューターゲームの手法)を用いたもの――という定義付けが一番しっくりくるかも知れない。なぜなら、そこには上記のような「陣取り」や「シミュレート」や「知育」や「運試し」といった、古くからのゲームにはある重要な要素が、ほとんど含まれてないからだ(但し最近では、高度に進化してハイブリッドになったAVGRPGに、これらの要素を含ませたものもあるが)。


ゲーム理論

「『ゲーム理論』とは何か?」ということについて、こういう話しを聞いたことがある。

ゲーム理論とは、ある歌手がシングルをリリースするとして、それをどれくらいの周期で出せば一番利益が上がるか――を計算ではじき出すということだ。シングルは、毎日出してたっておそらくダメだし、10年周期で出してたって商売にはならない。だいたい、3ヶ月なのか半年なのか、そこら辺りに丁度良い落としどころがあるはずだ。その落としどころかを学術的に見極めていくのが、ゲーム理論である」

これはきっと、ゲーム理論の一側面なのだろうが、しかし興味深いのは、この考えを援用すれば、世の中のあらゆる現象を、ある種の「ゲーム」として捉え直すことができる――ということである。

上記の例は、そのまま「経済や商売をゲームという視点から捉え直したもの」ということができる。このやり方を援用すれば、例えば政治や人間関係や生活や仕事、その他あらゆることをゲームとして捉え直し、学術的に見極めていくことができる。

その意味で、ゲーム理論とは「世の中をゲームという視点から捉え直す」と言うこともできるのではないだろうか。そして、もしそうだとしたら、ゲームという概念は、この世界全体を包括できるほど包容力のある大きなものと言うこともできる。

それは言い換えるなら、「この世界そのものが一種のゲームである」ということではないだろうか。

まあ、この言い方はオーバーにしても、どんなものにもゲーム的な側面はあるし、ゲーム的な捉え方をすることは可能だというのは確かなことだろう。その意味で、ゲームというのは、思いの外我々の生活に深く根ざした概念なのかも知れない。


任天堂の取り組みとゲームの未来

ここ数年の任天堂の取り組みは、上記のような「ゲームという視点から世の中を捉え直す」ものだという気がしている。

漢字を覚えることや英語を勉強すること、犬を育てることや健康に気を遣うことなどを、あえてゲームという視点から捉え直し、その文脈においてコンテンツを提案し、大きな成功を収めているのだ。


そこには、バックギャモンの時代から営々と築かれてきた、「ゲーム」としての本質的な要素は薄いように思う。またそこには、かつてのPONGのような、実際にあったゲームの代替品という意味合いもほとんどない。そういうゲームは、今ではもう驚くほど少なくなった。

その代わりに、AVGRPG、あるいは「ゲーム理論」のように、ゲーム以外のものをゲームという視点から捉え直すことに、今のムーブメントはシフトしている。

このやり方が今後も続くようならば、これからは、「ゲームという視点から何を捉え直すか」という、その選択が重要になるだろう。

これまでは、学問であったりペットであったり健康であったりしたのだが、それ以外のものとなると、例えば恋愛であったり、政治であったり、会社経営ということになるのだろうか。

例えば「恋愛」をゲームという視点で捉え直すのだとしたら、いかにして現実の恋愛をうまく成就させるかの最適解を、ゲーム理論ではじき出すような、そんなゲームができるかも知れない。こういうメールを打つと有効だとか、このタイミングで食事に誘うと効果的だとか、そういうことをアドバイスしてくれる、「WiiFit」ならぬ「WiiLove」みたいなものが、今後は生まれてくるのかも知れない。


まとめ

上のように考えてみたら、ゲームは、単にエンターテインメントのみならず、人間社会そのものをとらえることもできる重要な概念だという考えに思い至った。

だとすれば、そのロジックを利用した何か――というのは、今後も生まれ続けるだろう。

その意味で、「ゲームとは何か?」ということを突き詰めていくことは、その「ゲームのロジックを利用した何か」を作る上では、とても重要なことではないかと思う。

今後は、例えばゲームを使った商業活動であるとか、ゲームを使った教育であるとか、ゲームを使った会社経営だとか、ゲームを使った冠婚葬祭とか、そうしたものも生まれるかも知れない。


この「ゲームとは何か?」については、今後もう少し考えていきたいと思う。