2009-01-27
どう考えても「お袋」が一番悪い
小学1年生の女の子に、葬儀場で遺骨を見せたらトラウマになったそうだ。
これはどう考えても「お袋」が悪いだろ。
案の定、従姪はお骨を壺に収める事なく体調を崩し退室した。顔は真っ青で今にも吐きそうな気配。従姉(従姪の母親)と伯母夫婦(従姪の祖父母・お袋の姉夫婦)はオロオロするばかり。「だから言わんこっちゃない」とお袋は伯母を睨みつつ、従姪の背中をさすりながら俺に「すぐに駐車場に行って、クルマに置いてるあんたの任天堂DS持ってきて」と指示。
「こういう時は違う事をさせて気を紛らわせるのが良い」というのがお袋の経験らしい。最初は拒んでいた従姪だったが、火葬場を引き上げる時はゲームに熱中していたようだった。「後で返させるから、しばらく貸しといてやっといてよ」というお袋の要請を俺も受諾した。
それから2ヶ月ほどが経過した。伯母から電話があった。「あれから孫(従姪)がトラウマになったみたいで…」こぼしていたのを、お袋がたっぷりと説教したらしい。漫画やアニメのデフォルメされた骸骨や幽霊の類にも極度におびえるようになったそうだ。テレビで唐突に葬式のシーンが流れるだけで嘔吐する時もあるそうだ。貸したDSはまだ戻ってきていない。
「吐きそうな」ほどいやなことがあった子供に、「違う事をさせて気を紛らわせる」なんて最悪。そこでDSをさせ、遺骨のことを紛らわせたせいで、その時のイヤな体験が彼女の中に未消化で残っちゃったんだ。それがトラウマの原因だ。頭では忘れてるのに、心の中にイヤな記憶の残滓が未消化で残ったままだから、病気になるんだ。頭と心の統合がはかれなくなってるんだ。言うなれば下手くそな催眠術にかかったような状態なんだ。「お袋」のせいでね。
こういう時は、逆にとことんまでそれを見させて、考えさせて、腑に落とさせないとダメだ。消化させないとダメなんだ。人間というのは、例え子供でも、とことんまで考えさせれば、どういう形にせよ「遺骨というのはこういうものなのだ」という何らかの納得を自分の中でつけるものである。それについて腑に落とすようになる。それが消化するということだ。消化すると、後は流れていく。消化物として、心の外に流れていくんだ。だから、イヤなものが心に残らない。おかげで、頭と心の統合がはかれる。
それを、「違う事をさせて気を紛らわせる」から、未消化のまま心の中に残るんだ。未消化のまま心の中にイヤだったことの記憶の残滓が残るのが、つまりトラウマの正体だ。
今からでも遅くないから、その娘にはもう一回遺骨のことを思い出させることだ。できればビジュアルも見せた方が良い。吐こうがどうしようが、とにかく考えさせないとダメ。とことんまで考えさせて、彼女に「遺骨というのはこういうものだ」と、何らかの形で納得させないとダメ。あるいは「そこでなぜ自分が気持ち悪くなったのか」ということも、彼女なりに腑に落とさせないとダメである。
電車で席を譲る時どうするか?
電車で席を譲るのは難しい。ぼくはお年寄りにはよっぽどでない限り譲らない。失礼に思われるとイヤだからだ。
怪我人や妊婦なら譲る。これは考えるまでもなく譲れるので楽だ。
ただ、その譲り方が問題だ。ぼくは昔、照れくささもあったのだが、譲る時は必ず「次の駅で降りるので」と言っていた。その方が、相手も気楽だろうと思ったのだ。そして、本当は降りる駅じゃないのに、わざわざ次の駅で降りたりしていた。そうして気付かれないように離れた車両までダッシュして、乗り直したりしていたのだ。
その方が、親切だと思っていた。それがやさしさだと思っていた。
しかし最近、ふと考えるようになった。相手はむしろ、感謝したい気持ちがあるんじゃないか? たまたま次の駅で降りる人に譲ってもらうよりも、すぐには降りない人にわざわざ譲ってもらった方が、ありがたみが増すんじゃないか? その方が、心温まるんじゃないだろうか。相手に感謝をさせた方が、親切なんじゃないだろうか? その感謝を受け止めるのが、本当のやさしさではないだろうか?
そこでぼくは、その考えを実践してみた。
先日、渋谷から銀座線に乗ったところ、表参道で妊婦が乗ってきた。その時、車内はそれなりに混んでいた。そして彼女は、ぼくの目の前に立った。
そこでぼくは、彼女に席を譲った。「ここどうぞ」と言いながら、立ち上がったのだ。
すると彼女は、ちょっと驚いたように目を見開くと、すぐに「ありがとうございます」と頭を下げた。それから、ぼくとすれ違う時に「すみません」と言って再び頭を下げ、席に座ってから三度「ありがとうございます」と頭を下げた。
彼女が席に座ると、ぼくは彼女のもともと立っていた場所に立った。つまり彼女の真正面に立ったのだ。そこでぼくは、仁王立ちなった。仁王立ちになって、真っ直ぐ窓の外の暗がりを見ていた。
そうしながら、時々座席の妊婦の様子を見るともなしに見ていた。すると彼女は、こちらの様子をちらちら伺っているようだった。一度目が合ったのだが、その時にまた、軽く会釈された。
そうして彼女は銀座駅で降りていった。席を立ち上がる時、彼女はまた、ぼくの目を真っ直ぐに見て「ありがとうございました」と言い、それから降り際にもう一度会釈した。彼女は結局計6回、ぼくに頭を下げたことになる。
そんな彼女の態度からは、心から感謝している様子が伺われた。このコンクリートジャンルの東京砂漠で、思わぬ人のやさしさに触れた……そんな感慨を抱いているようだった。
彼女は、人に感謝することの温もりと喜びを、十二分に味わったに違いない。6回の会釈が、それを表していた。
しかし、ぼくの心にはふとした疑問が沸き上がってきた。
「本当に、これで良かったのだろうか?」
ぼくは、確かに良いことをした。そして彼女に、他人に感謝する機会を与えもした。
しかしそれが、本当に彼女のためになったのだろうか? 彼女への親切になったのだろうか? やさしさになったのだろうか?
それがぼくには、分からなかった。そしてそのことの答は、まだ出ていない。何が本当のやさしさなのか、ぼくの中では、まだ考え中なのである。
