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2009-05-17

ライトノベルに携わる人々は今一度「風と共に去りぬ」を読むといい

ふとした縁があって、「ゼロの使い魔」という小説を読んだ。


ゼロの使い魔」はライトノベルだ。ぼくはライトノベルのことについてそれほど詳しくないのだが、この「ゼロの使い魔」はすごく正統的なライトノベルだと思った。非常にオーセンティックな、ライトノベルの鑑のような作品だと思った。

その通り、この作品はとても人気があるようで、物語はシリーズ化され、2004年の第1巻刊行以来、すでに16巻(+外伝3巻)が出されている。また、アニメやコミック、ゲームになるなど、他メディアへも大きな広がりを見せている。

ぼくが読んだのは、そのムーブメントの端緒となった、2004年に刊行された第1巻だ。これを読んで、ぼくは色々な感想を抱いた。また、この作品を通して、「ライトノベル」というジャンルそのものにも、ある感慨を抱いた。

そこでここでは、そんな「ゼロの使い魔」を読んで思ったことや、それを通して抱いたライトノベルというジャンルについての感慨を書いていきたい。


ゼロの使い魔」とは

まず「ゼロの使い魔」のあらすじを紹介する。

物語は、平賀才人という男子高校生が、異世界に紛れ込んだところから始まる。才人は、ある時ふと、気がつくと周りを異世界にある魔法学校の生徒たちに取り囲まれていた。

そこは、科学の代わりに魔法が世の中を司る「魔法世界」だった。その世界に才人は、ルイズという魔法使いの少女の「使い魔」として召喚されてしまったのだ。

「使い魔」とは、魔法使いの忠実なしもべのことだ。魔法使いの手足となって、その活動をサポートする。通常は、動物や幻獣がなるものなのだけれど、ルイズの場合、なぜか人間である才人を召喚してしまった。

そうして、才人はその世界でルイズの使い魔として生きることになる。本当はすぐにでも元の世界へ帰りたかったのだが、その方法が分からない以上、この世界で生きていくしかなかった。それに、才人を召喚したルイズは可憐な美少女だったので、その近くにいるのも悪い気はしなかった。

ただ、問題がないわけではなかった。それはルイズの性格。ルイズは、由緒正しき家柄のお嬢様なのだが、魔法学校では落ちこぼれ的な存在であった。いまだに魔法が上手く使えないのだ。そのため授業中は失敗ばかり。魔法が全く(ゼロ)使えないということで、周囲からは「ゼロのルイズ」と呼ばれ、バカにされていた。

そんな状況が、ルイズを意固地にさせていた。彼女は、自分の使い魔が動物や幻獣ではなかったことに恥ずかしい思いを抱き、才人を逆恨みしてつらく当たる。

また、才人を「平民」だと思ったことも、ルイズがつらく当たる理由の一つだった。この世界では、魔法使いは「貴族」、魔法を使えない人間は「平民」と、身分の差がはっきりしている。だから、魔法を使えない才人は平民だとして、下に見られたのだ。誰も、才人のことを「異世界から来た人間」だとは見てくれなかった。

しかし、才人は次第にその特殊な能力を明らかにしていく。それは、例えば「武器を自在に操る能力」。ある時、ふとしたきっかけから剣を握った才人は、とたんに無類の強さを発揮し、決闘を挑んだ魔法使いの貴族を打ち負かす。

あるいは、才人には「武器に関する知識」というものもあった。この異世界には、なぜか才人が元いた世界の武器があって、それは才人にしか使いこなせないのだ。

それらの能力は、才人がもともと持っていたものではなく、この世界に来たことによって、なぜか身に付いたものだった。しかし才人は、その能力を発揮することによって、周囲の見る目を変えていく。そうして、さまざまな問題を解決することによって、この世界の謎を解き明かしていったり、自分が元の世界に変える方法を見つけていこうとするのだ。


ゼロの使い魔」の感想

以上が、1巻のだいたいのあらすじである。そしてぼくは、これを読んで率直に面白いと思った。特に、その「世界観」が面白いと思った。

ゼロの使い魔」には、ルイズが通う魔法学校や、彼女の暮らす寮や、あるいは買い物に出かけた先の街や、剣を売っている店、トラブルを解決しにいった先の森などが描かれている。そうした世界を、ぼくは好ましく思った。それと同時に、興味を引かれた。だからぼくは、この世界のことをもっと知りたいと思った。この世界をもっと歩いてみたいと思った。そのために、この続きをもっと読んでみたいと思った。2巻以降も読んで、この世界のことをもっと詳しく知りたいと思った。


しかし同時に、物足りないと思ったところもなくはない。それはいくつかあるのだが、一番は主人公である平賀才人のキャラクター造形だ。

才人は、特にこれといった特徴のないキャラクターである。これは比喩でも嫌みでもなく、本当にそうなのだ。この作品では、わざと特徴のない人物に主人公を作り上げているのだ。

なぜそうしているかといえば、それは読者に「自分のこと」として読んでもらうためだ。主人公のキャラクターをあえて特徴のない人物にすることによって、読者に自分自身を投影してもらおうとしているのである。

それは、恋愛シミュレーションゲームの手法とよく似ている。恋愛シミュレーションゲームも、主人公の顔をあえて描かなかったり、性格付けされてなかったりする。それは、プレイヤーに自分自身のこととして楽しんでもらうためだ。そしてそのためには、顔や性格付けは余計なのである。顔や性格付けをしてしまうと、そこでプレイヤーに「これは自分と違う」と思われる可能性が高くなり、そうなると、もう「自分のこと」としては楽しんでもらえなくなるからだ。

ではなぜ「自分のこと」として楽しんでもらおうとしているかといえば、それはその方が物語に入り込ませやすいからである。感情移入させやすいのだ。読者にその物語の主人公になったような気持ちになってもらえれば、すいすい読んでもらえるからである。

つまり、「入りやすさ」や「読みやすさ」をとことんまで追求した結果、主人公の性格付けを極限まで排除するようになったのだ。


しかしこれが、ぼくには物足りなかった。食い足りなかったし、もったいないと思った。

それはまるでミルクと砂糖のたっぷり入ったコーヒーのようなものだと思った。確かに飲みやすくはなっているが、コーヒー本来の苦みやフレーバーは失われてしまった。そうして、非常に飽きが来やすい。ちょっと飲んだだけで、もういいよと思ってしまう。それ以上続けて味わうことをためらってしまう。「もうコーヒーはしばらくいいかな」と思ってしまう。そんなところが、この作品――引いてはライトノベルにはあると思った。主人公の性格が描かれていないために、それ以降の物語への興味が失われてしまうのだ。


こうした傾向は、主人公の性格付けのみならず、物語の展開の中にも散見できた。とにかく、入り込みやすく、読みやすくなっているのだ。砂糖とミルクが、たっぷりとまぶしてあるのである。

例えば、物語の冒頭で、主人公はいきなりヒロインであるルイズとキスをする。何の努力もなしに、全くの突然に。そこには、「魔法使いが使い魔と契約する儀式」という一応の名目があるのだけれど、主人公からしてみれば、何の苦労もなしにいきなり快楽にありつける。それは非常にありがたい、また都合の良い話だ。そして確かに入り込みやすく、読みやすい。しかしそれだけに、物足りなさもまた残る。

あるいは、物語の中で主人公は、剣を持つといきなり強くなるのだが、これも理由がない。とにかく異世界に来たとたん、才人は強くなっているのだ。

これは、努力することが嫌いな怠惰な読者にとっては、理想的な展開だろう。ここで例えば「才人は剣道部だった」などという設定が入り込もうものなら、運動をしたこともないような読者は、それだけでもう「才人は自分とは違う」と思い、そこで感情移入することをやめてしまって、それ以上読み進むことの興味も失う。だからライトノベルは、なるべくそういう取りこぼしをしないために、多くの読者が何の疎外感もなしに、なんの障壁もなしに読み進められるよう最大限の注意を払っているのだ。


ゼロの使い魔」を通して感じた、ライトノベルというジャンルそのものの問題点

しかしそのことが、実はライトノベルという存在そのものの構造的な欠陥を招いているように思う。というのは、そういう読みやすさの追求というのは、結局はまやかしの面白さしか生み出さないからだ。それは麻薬のようなものだ。一時は快楽を味わえるが、その代わりに重大な副作用がある。あるいはジャンクフードのようなものだと言ってもいい。化学調味料をたっぷりとまぶしてあって、誰が食べても美味しく感じるけれども、しかしそればっかり食べていると、とたんに味覚は鈍感になるし、身体もぶくぶくと太ってしまう。

ライトノベルは、読みやすさというものを追求しすぎた結果、物語の、あるいは小説にとっての一番面白いところをさえもネグレクトしてしまって、結果的に本当の楽しみを読者に与えることができないでいるのだ。


小説に限らずなんでもそうなのだが、本当の面白さや楽しみというのは、苦みや痛みと不可分なものである。コーヒーの本当のおいしさは苦みの中にこそある。小説の面白さは、感情移入しにくい、むしろ嫌悪感さえ抱かされるような、強烈で個性的なキャラクターの中にこそあるのである。

例えば、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラは、冒頭では、あらゆる読者から眉をひそめられそうな性格をしている。彼女はなにしろ友人の恋人に横恋慕し、あまつさえその友人を陰ではバカにし、悪口を言い、蔑んでいるのだ。

だから、たいていの読者は最初スカーレットを嫌う。しかし、そうした嫌悪感を乗り越え、嫌々ながらもスカーレットとともに物語の中を歩み、彼女の体験する艱難辛苦を共有することによって、次第にスカーレットが別れがたい、魅力的な存在となっていくのである。そうして5巻からなる大部の物語を読み終えた頃には、スカーレットは一生忘れ得ない親友となる。竹馬の友となる。あるいは心の支えとなる。よりどころにさえなる。スカーレットを知ったおかげで、生きていくことの勇気が出たという女性が、これまでどれほど多くいたことだろうか。


小説の本当の面白さ、楽しみというのは、そういうところにある。それはけっして入りやすさや読みやすさの先にはない。むしろそれと相反するところにあると言っても過言ではない。

ライトノベルの抱える構造的な問題は、ここにある。入りやすさ、読みやすさを追求するばかりに、小説本来の面白さ、楽しさまでが薄まって、消えてしまっているのだ。


これでは、早晩飽きられる。早晩見切りをつけられる。早晩「なんだ、小説ってこんなものか」と見限られ、以降、その読者からはライトノベルはおろか、小説そのものを読んでもらえなくなる。

ライトノベルで飽き足らなくなった読者が、もっと面白い小説を探し求めて、「風と共に去りぬ」にたどり着く……というロードマップが敷かれているのなら、まだ良い。しかし今は、小説以外にもたくさんのエンターテインメントコンテンツというのがある。若い読者が初めて出会う小説であるところの「ライトノベル」が、小説本来の面白さや楽しさをネグレクトしたものだったならば、「なんだ小説ってこんなものか」と見限られてしまって、それ以降二度と小説を読んでもらえなくなるという可能性も、今の時代は多いのではないだろうか。

これは、文化という側面で考えた時にはもちろん、ビジネスという側面から考えた時でも、けっして得策ではない。今のライトノベルは、読者に対してマーケティングしているようで、実はしっかりできていない。目先の売上ばかりに目がいき、彼らの本当の満足を引き出せていない。

そして全くイノベーションができていない。今のライトノベルは、過去に編み出された読者を引き込む、読ませる手練れにばかり拘泥して、本当に楽しませようという本来の目的を見失っている。

これでは、ライトノベルというジャンルは早晩滅んでしまうだろう。これでは早晩廃れてしまう。


ではどうすればいいのか?

ぼくが思うのは、ライトノベルに携わる多くの人々にとって今本当に必要なのは、長期的視野に立った、そして本当の意味で読者の立場に立ったマーケティングと、それに伴うイノベーションである。ライトノベルに携わる人々には、初めて小説というものに出会う読者たちに、小説というものの本当の面白さ、楽しさを伝えるための重大な責務がある。それが、長きに渡って小説を愛してくれる優良な顧客を生むかどうかの分かれ目になる。そこで優良な読者、あるいはマーケットを育んでいくことが、長期的な視野に立てば、ライトノベルのみならず、小説というジャンルそのものを生きながらえさせる唯一無二の方法でもある。その意味で、ライトノベルに携わる人々の責任というのは、本当はとても重いたいし大きいのだ。


全てのライトノベル関係者は、今一度「風と共に去りぬ」を読んでみてはどうだろうか。そして小説の本当の面白さ、楽しさというのを再確認した上で、「では主人公はどのようにしたらいいのか?」「設定はどのようにしたらいいのか?」というのを、あらためて考えてみることをお勧めする。

入りやすさや読みやすさを追求することは、それはそれでだいじだし、必要なことだとも思う。しかしながら、それによって小説本来の楽しみや面白さを損なってしまうことは絶対に避けなければならない。それでは本末転倒である。そこだけは必ず残さなければならない。


だから、ライトノベルに携わる人たちに今求められているのは、入りやすさや読みやすさは残したまま、小説本来の面白さや楽しさを味わってもらえるような小説を作ることだと思う。そういうイノベーションを起こすことだと思う。

そして、それには「風と共に去りぬ」を読むといいのではないだろうか。この小説は、それがけっして不可能ではないことを証明しているし、そういうイノベーションを果たすためのヒントが、いくつもちりばめられているように思うからだ。

      


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http://www.youtube.com/watch?v=fKOLJ61fC8E

ゼロの使い魔」トレイラー


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http://www.youtube.com/watch?v=8mM8iNarcRc

風と共に去りぬ」トレイラー


追記

刊行されている巻数が誤っていたので訂正いたしました。申し訳ありません。

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