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2009-06-13

id:kawangoさんは悩みがあるならぼくに相談しに来るといいんじゃないか?

人間というのは、往々にして他者の中に自分を投影して見たがるものだ。特に、悩んでいる人というのはそうだ。人が、誰か他人の中に悩みを感得するというのは、往々にして自分に悩みがある時だ。

「この人は、こんなことでこんなふうに悩んでるんじゃないか?」

そんなふうに想像する時は、往々にして、自分がそのことで悩んでいる時なのである。


id:kawangoさんは悩みがあるのではないだろうか?

そしてまた、いみじくもご自分で仰ったように、「逃避したい現実がある」のではないだろうか?

だから、ぼくの中に現実から逃避している人物像を見た。kawangoさん自身をぼくに投影して、ぼくを媒介にして、kawangoさんご自身の内面をご覧になったのである。


そういうことは、往々にしてある。特にぼくに対しては、そういうことをする人が、往々にしている。

人は、ぼくの中によく自分自身を見出す。多くの人が、ぼくを通してそこに自分を感得する。なぜだろう? ぼくはそれをちょっと考えたことがあった。

ぼくは、昔から毀誉褒貶の激しい人間だった。ある人はぼくをやさしいと言い、ある人はぼくを冷たいと言った。ある人はぼくを頭がいいと言い、ある人はぼくをバカだと言った。あるいはぼくを謙虚だといい、ある人はぼくを傲慢だと言った。ある人はぼくを蛮勇の持ち主だと言い、ある人はぼくを臆病だと言った。ある人はぼくを正々堂々としていると言い、ある人はぼくを卑怯だと言った。ある人はぼくは人間ができていると言い、ある人はおまえの心は腐っていると言った。

しかしながら、そのどれもに共通していたのが、ぼくとは一定の距離を保とうとしたことだ。彼らは、ぼくの懐にはけっして飛び込んでこなかった。しかしかと言って、離れようとしたわけでもなかった。彼らは一定の距離を保ったまま、遠巻きにぼくを見ていた。そうして観察を続けながら、時々考えたり、あるいはものを言ったりした。


それは、ぼくの中にその人自身を見ているからではないか、とある時思った。ぼく自身に、何かその人の内面を映す鏡のような性質があって、だから人は、ぼくと接していると、そこで自分自身を見つけ出すのではないかと。だからぼくは、これほどまでに毀誉褒貶が激しいのではないかと。見る人によって、全く異なった見方をされるのではないかと。それは、その人がぼくを見ているというよりは、ぼくを通してその人自身を見ているからではないかと。その人の心が良い時は、ぼくの心の中に良きものを見出すし、その人の心が悪しき時には、ぼくの中に悪しきものを見出すからではないかと。だからこそ、時と場合によって、こうも評価が異なるのではないかと、そう考えたのである。


そしてそれは、ぼくという人間が、自分というものがほとんどなく、無私の人間だからではないかと思ったのだ。自分というのがほとんどない、白いスクリーンのような存在だからこそ、そこに自分を投影しやすいのだと、そんなふうに考えた。

先日も、ヤマグチノボルさんととても楽しく、また有意義な時間を過ごさせてもらったのだが、その中で彼は、ぼくが私心のない人間だと分かったから話しを聞くことができた、ということを言われていた。そうして会ってみて、なおさらそう感じたと。ぼくは無私の人間だと、彼は言った。

それを聞いて、なるほどそういうことだったのかと、ぼくは思った。ぼくには、なぜか昔から損得抜きで自分の思っていることを発言するところがあって、親や教師から、なんで自分が不利になると分かっていることでもあえて口にするのかと、怒られるというよりは、呆れられたり、あるいは不可解な目で見られるということが幾度となくあった。

そうしてそれは、大人になってからも直らないばかりか、ますます加速するようになった。自分でも全く合点がいかなかったのだが、それでも、こと話し合いの場に及ぶと、いつでも言わずにはいられなくなるのだった。それはもう、損とか得とかではなく、言葉が口をついて出てしまうのだ。しかしそれで、ずいぶんと大変な目にも遭ってきた。ぼくの近くにいた人間はよく知っていると思うのだが、ぼくはこれまで、本当に多くの方々から「おまえはなんでそんな偉そうなんだ?」と、耳にたこができるほど言われてきた。そのことで、「坊ちゃん」に出てくる主人公の「無鉄砲」さではないが、「子供の頃から損ばかりしてきた」のである。


そうして今、このブログにおいても、ぼくはいわゆる「損」をしているのかも知れない。ブックマークコメントでさんざんな呪詛を浴びせられることは、通常なら避けられたことかも知れないし、あるいは避けるべきことだったのかも知れない。

しかしなぜ、ぼくがそれを避けられなかった、あるいは避けなかったのかということを考えた時に、先のヤマグチさんの言葉にあった、「ぼく自身が無私であるから」ということが、その理由として、大いに腑に落ちたのであった。

何かを言う時、あるいは考える時、ぼくの頭の中には、ぼく自身の欲求はほとんど消え失せている。損得はもちろんのこと、存在自体がなくなっている。ぼくが何かを言う時、ぼくは、ぼく自身のことをほとんど勘案していない。だから、自分の損になると分かっていると言うというよりは、もともと損とか得とかを考えられないまま、発言しているのだ。


だからこそ、ぼくは鏡あるいは白いスクリーンのような存在になり得たのである。そしてだからこそ、多くの人がそこに自分自身を見出してきたのだ。

だから、kawangoさんはぼくの話しを聞きに来るといいのではないかと思う。kawangoさんの中に今、ご自身では直接見たり確かめたりすることのできない何かがあって、その何かをぼくという鏡あるいは白いスクリーンを使って見たり確かめたりしたいのなら、ぼくに会いに来られたらいいと思う。


ぼくの近くにいる人なら誰でも知っていると思うのだが、ぼく自身は本当に大した人間ではない。頭が飛び抜けていいわけではないし、人間ができているわけでもない。容姿が優れているわけでもないし、際立った才能もない。

しかしただ一つだけ変わった特性があるとすれば、それは損得を抜きにものを言うということだ。私心がないのである。自分が人からどう思われているかということに関して、全くと言っていいほど頓着がない。地位や名誉やお金やその他諸々を手に入れたいという欲望も少ないし、承認欲求は驚くほど薄い。自己顕示欲に至っては、それこそ欠片もない。

ただ、ぼくは言うのである。言葉を発する。それは初夏の葉萌ゆる木々が風を感じたらざわめきを発せずにはいられないのと同じで、何かを感じたら損得を抜きにしてものを言わずにはいられないのである。そこで感じたことを表さずにはいられないのだ。


もしkawangoさんが、何かそうした木々のざわめきにも似た風の声を聞きたいと思ったのなら、ぼくに会いに来るといいだろう。そしてぼくの中に、kawangoさんご自身の中にある何かを見出したり、確かめられるといいだろう。あるいは、ぼくの社長に会いに来てもいい。ぼくの社長をご存じかどうかは知らないが、それはもう素晴らしい人物で、ぼくは衷心よりご尊敬申し上げている。

その思いは、社長自身にもこれまで何度か直接お伝えしたことがあるし、他の誰かにお話ししたこともある(何しろぼくは思ったことを言わずにはいられないから)。

ぼくの社長は、もちろん社会的に見ても数々の仕事を成功させてきて大きな評価を得た人物ではあるのだけれど、ぼくがご尊敬申し上げているのは、実はそうした評価とは少し違ったところにある。それらは、目には見えなかったり数字には表れなかったりする部分だ。


端的に言うと、それは「人を受け入れる力」だ。「負ける力」と言うこともできる。あるいはドラッカーの言葉を借りるなら「人を生かす力」だ。

ぼくはこれまで、それなりに多くの人を見てきたけれども、ぼくの社長ほど、多くの人を生かしてきた人はいない。もちろん、世の中は広いから中にはもっとたくさんの人を生かした人もいるだろう。歴史上で言えば、例えばドラッカーの出会ったGMアルフレッド・スローンなどは、それはもう本当にたくさんの人物を生かしてきたのだと思う。それでもぼくは、現代においてこうした希に見るほど多くの人を生かしてきた人物と巡り会えたばかりか、一緒に働かせて頂くことにまでなったのは、本当に幸運なことだったと思う。


だから、kawangoさんも悩みがあるならぼくの社長に会いに来るといい。あるいはぼくに相談しに来るといい。それはきっと、kawangoさんがはてなブログを書いたのが何かの縁だし、ぼくのブログを読んでいたのも何かの縁だ。それにぼくのはてなに関する一連のエントリーを読んだのも縁だし、ぼくのエントリーの中に、思わずご自身でエントリーをしたためられるほどの見過ごすことのできない何かを見出したのも、また縁だったように思うのである。


というわけで、こちらまでご連絡下さい。

aureliano2008@gmail.com


ドラッカーの経営三部作(とぼくが今名付けました)

GMの巨大経営者、アルフレッド・スローンとの邂逅をつづった作品です。


  

いわゆる「経営学」はこの本によって誕生したと言われています。


    

永遠の名著です。単に経営学というだけではなく、人間の知性が到達した一つの頂がここにはあります。


そのエッセンシャル版です。初めてドラッカーを読む方にはこちらがお勧めです。


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