2009-07-12
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」は誰かを笑わそうとしているわけではない、もしくは真希波・マリ・イラストリアスが碇シンジに「君、面白いね」という本当の理由
という、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」につてのエントリーを読んで、とても面白かったのですが、いくつか違和感があったので言及します。
確かに、映像美という点からすれば文句なくよく出来ている。特にメカニカルな動き、とりわけ使徒のデザインなどは圧倒的に素晴らしいと思う。
純粋に美術的な観点からいうと、ヱヴァンゲリヲンで何より素晴らしいのは「メカニカルな動き、とりわけ使徒のデザイン」ではないと思う。
映像美という点からすれば、一番素晴らしいのはおそらく零号機が走りながら高圧線を飛び越す場面と、参号機が空から初号機に躍りかかる場面だ。
この絵、この色、この構図、そして動きとカメラワーク。どれをとっても他の追随を許さない、チーム庵野の真骨頂だと思う。
そしてこれらは「メカニカルな動き」でも「使徒」でもない。「人間的」な動きの「ヱヴァ」なのだ。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=DHZGN4657Ig
例えば、俺がこの映画で最大の違和感を感じたのが極めて重要な戦闘シーンにおける『今日の日はさようなら』。
だって、あのシーンで、あのタイミングで、あの声で、あの歌って絶対おかしいでしょう。
「え?これ、どういうこと?」って何であんな重要なシーンで思わされるのか?
これが全く共有できなかった。理由は、やっぱりスタンリー・キューブリックをどう捉えているかによると思う。
最近気づいたのだが、キューブリックを好きな人は、「キューブリックは映画を理解するための基本テキストだ」と思いこむ傾向があって、だからキューブリックの映画で使われた技法については、今や何の目新しさや違和感を感じることもなくなっている。それが映画の基礎コードだとして、当たり前のものだと思い込んでいる(そしてそれを誰もが共有しているものと思い込んでいる)。
しかし、それ以外の人にとってはそうではないのだ。それ以外の人にとって、いまだにキューブリックの技法は革新的で違和感に満ちた異物として捉えられる。驚きと抵抗感を持って迎えられる。多くの人は、それを当たり前のものだと思い込んでないし、それを基礎コードとして共有もしていない。
「今日の日はさようなら」を聞いたぼくの感想は、ただ一つ「あ、その技法で来たか」だけだった。そしてそれ以降、「え?これ、どういうこと?」とは一瞬たりとも思わなかった。ただそういうものだと受け止めた。
それは、「博士の異常な愛情」のラストの「また会いましょう」や、「時計じかけのオレンジ」の「雨に唄えば」、「フルメタル・ジャケット」の「ミッキーマウス・マーチ」などを何度も何度もくり返し見てきたことによって、あまりにお馴染みに、あまりに当たり前になってしまっていたからである。
そして、庵野監督がキューブリックを見たことがないというのはちょっと考えにくいから、あの場面はギャグでも何でもなく、映画のスタンダードな一技法を用いたくらいの意図しかないのだと予想する。
あれはただ、凄惨な場面に不釣り合いな音楽を流すことの異化効果を狙っただけなのだ――そしてそれはとても効果的だった――と。
「博士の異常な愛情」の「また会いましょう」
http://www.youtube.com/watch?v=s4VlruVG81w
「時計じかけのオレンジ」の「雨に唄えば」
http://www.youtube.com/watch?v=SWvWyYz9ttk
「フルメタル・ジャケット」の「ミッキーマウス・マーチ」
http://www.youtube.com/watch?v=IG0oE6RGsyM
今どき本人もやらない小島よしおである(これを指摘しているのもググると一人だけ)。
確かに「そんなの関係ない」という台詞は旧作にもあるが、いくらなんでも小島よしおを2009年も半ばにやる必要性って何なのか?
おそらく「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の台本を読んだ時に、スタッフの誰もが「これって小島よしおだよなあ」とは思ったと思う。それでもあの台詞は、テレビ版とほとんど相違ない。だから、「小島よしおをやった」というのとは、かなりニュアンスが違うと思う。
もちろん、あの場面で小島よしおを意識したとは思う。しかしそれは、美川憲一がコロッケにものまねをされるようになってから歌い方をちょっと意識するようになったくらいのもので、けっして笑いを取ろうとしているわけではない。あくまでも本家はヱヴァ(エヴァ)であって、スタッフにはそのことの矜持がかなり強くあったはずだ。だから、そのまんな小島よしおだとは思いつつも、そう取られることを厭わずに(というか特に意識することなく)、あえてテレビ版のままの台詞を使ったのだ。
とはいえ、今さら一体どうやって膨大に作られた二次創作を超えられるというのか?何をどうやったって無理なのである。唯一つの方法を除いては。
その唯一の方法こそが「笑わせないギャグアニメ」である。
そこではどんなにつまらないギャグをやっても誰も「スベってる」とは思わない。誰もギャグだと思っていないからだ。
これはオリジナルだけにできることである。なぜなら、どんなに様々な二次創作があろうともパロディができないのは原理的にオリジナルだけであり、逆に言えば、二次創作とは全てが基本的にパロディだからである(セルフパロディというのもあるが、あれはオリジナルの二次創作への「ゲスト出演」である)。
したがって、「二次創作に膝を屈した」というのは間違いである。『ヱヴァ:破』は唯一の方法によって奇跡的に二次創作への『逆行』という今や誰もが逃れようのない罠から逃げ切ったのである。
特に文学の世界ではその傾向が強いのだが、そもそもこの世界に「オリジナル」などない。世界最高の小説である「ドン・キホーテ」にしてからが、先行する騎士道小説のパロディ作品なのだ。つまりパロディこそ本質で、二次創作こそが実は真のオリジナルなのである(「イーリアス」や「オデュッセイア」もその例に漏れない)。
第一「新世紀エヴァンゲリオン」自体が先行するロボットアニメの大いなるパロディであり、「マジンガーZ」や「機動戦士ガンダム」の二次創作だ。だから、二次創作を超えるとか超えないとか、そもそもそういうことを問題にすらしていないと思う。
もちろん、オタクの女の子向けに、カヲルくんの場面を増やしたり、加持をシンジに接近させるようなことはしただろうけど、それは単にサービスとしてだ。
今の日本は「お笑いの時代」である。俺はあまり興味がないのだがそういうことになっているようだ。
テレビで次から次にお笑いの新人が出てきて、ちょっとしたベテラン芸人は知識人のような扱いを受けたりする。
一方、批評誌では「お笑い特集」が組まれ、批評家は「僕の言ってることはネタがベタか分からない」などと悩み、その予備軍のようなものがテレビのお笑い芸人の真似事をして得意になっているのだから相当にお笑いの時代なのである。
そんな時代に最もやってはいけないこと、最大のタブーは「すべること」であると同時に「笑わないこと」である。
まさにそれこそがゼロ年代におけるコミュニケーションが抱える最大の問題である。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』はその最大のタブーに挑戦した。
「すべったから笑えない」のではない。「すべったことに気づかないくらい笑えない」ギャグアニメ。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」は、誰かを笑わそうとはしていないと思う。
これも「そもそも」の話になってしまうけど、この世界にはもともと「悲劇」と「喜劇」の二つしかなかった。二分の一が誰かを笑わそうとしていた。そして「悲劇」と「喜劇」は不可分の存在で、悲劇はそれを引き立てるために作中に喜劇的要素を取り込んだし、喜劇はそれを引き立てるために作中に悲劇的要素を取り込んだ。つまり、全く誰かを笑わそうとしていない作品は、この世には皆無だったのだ。それくらい、作中にギャグが出てくるというのは物語にとってはスタンダードなことなのだ。だから、今が「お笑いの時代」だからといって、それを「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」と結びつけるのにはどうしたって無理がある。
古来より、すぐれた物語の主人公というのはいつだって「笑い」の影を引きずっていた。
友人が殺されたからといって怒り狂って相手を三倍返しにして惨殺したアキレウス。
貞操を頑なに守っていた妻に会いたいと強く願いながら自分はキルケーとよろしくやっていたオデュッセウス。
道を譲らなかっただけでカッとなって(そうとは知らず)自分の父親を殺すオイディプス。
騎士道小説の読み過ぎで自分を遍歴の騎士だと勘違いしたドン・キホーテ。
自分は優柔不断なくせに恋人には「尼寺へ行け!」とかめっさ厳しいハムレット。
自分勝手な理由で金貸しの老婆を殺したばかりか、一緒にいた罪もない妹まで殺してしまうラスコーリニコフ。
どれもギャグとしか思えないくらい、めちゃくちゃな性格(人格・行動)をしている。それはもう、昭和の流行語を借りるならば「むちゃくちゃでござりまするがな」と表現するしかないくらい、わやなのである。
でも、彼らは大真面目なのだ。そして、必ずしも笑わそうとはしてないのである。彼らは、真面目にやっているあまり、それが行き過ぎて、結果としてギャグのように見えているだけなのだ。
だから、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の中で、笑えないギャグのような場面がもしあったとしたら、それはヱヴァが「物語として正当な進化を果たした」ということだと思う。それはヱヴァが世界的な名作に一歩近づいた証であり、よりスタンダードになったということの証左なのだ。
確かに、そういう場面もいくつかあった。
子供のように本部を足でガンガン踏みつぶそうとしたり、その割にはあっけなくやられて、坂道を転げ落ちたり。それからラストの使徒をやっつける時のちょっと嬉しそうな顔や、綾波に対する思いの丈を叫ぶところなんかは、まさに「異常な愛情」だ。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」は、けっして二次創作を意識したわけでもなく、0年代という「お笑いの時代」にアジャストしたわけでもない。物語としての正当な進化を果たそうとして、結果的に笑えないギャグのようになっただけだ。
そして真希波・マリ・イラストリアスがシンジに向かって「君、面白いね」と言ったのは、彼が旧作からの進化によって、歴史的名作の主人公たちのように「むちゃくちゃでござりまするがな」としか言いようのないキャラクターを獲得した(あるいはしかけていた)からなのだ。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を名作たらしめているもの
それは音楽かも知れない。キューブリックがそうであるように。
「フルメタル・ジャケット」の音楽は本当に素晴らしいです。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」をフラットに見るための基本テキスト
キューブリック映画
小説「ドン・キホーテ」
初めての方には岩波少年文庫版を強くお薦めします。



