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2009-09-24

「サマーウォーズ」の感想

サマーウォーズ」を見てきたが結論から言うとあまり面白いとは感じられなかった。いくつかの点で「ぬるさ」を感じてしまって、その悪印象が最後までぬぐえなかった。もちろんどんな映画にだって良い点と悪い点があり、この「サマーウォーズ」もそうだ。良い点は考えるまでもなくいくつか挙げることができる。しかしぼくにとっては、悪い点がそれを凌駕してしまった。

まず最も悪い点は批判精神が欠如しているところだろう。これがないものははっきり言っておしなべてダメである。特に「サマーウォーズ」は、いわゆる「またセカイ系か」というアニメやゲームを巡る一つの議論に対する批判精神があまりにもなさ過ぎる。あまりにも無自覚すぎる。

「セカイ系」とは(この言葉が指し示すものについては追記で説明しています)、wikipediaはてなキーワードにも詳しく説明されているが、ごく簡単に説明すると「ボクがなんとかしないとセカイが滅んじゃうう」というストーリーのことだ。アニメやゲームにはこの手のプロットがあまりにも多いので、いつからか「またセカイ系か」と批判されるようになった。今ではセカイ系であることそのものが一種のギャグのようにも扱われるようになっていて、例えて言うなら「ケミカルウォッシュのジーパン」のようなところさえある。しかし驚くことに「サマーウォーズ」は、そうした批判を受けるだろうことは十分予想しえたはずなのに、全く無自覚にこの「セカイ系」をプロットとして採用しているのだ。しかもそこにはエクスキューズがない。「セカイ系の新機軸を開発する」とか「批判を承知であえてど真ん中で勝負した」といった意図さえなく、本当に無批判に「ボクがなんとかしないとセカイが滅んじゃうう」というストーリーになっているのである。

この一事をもって、この映画の作者にストーリーへの批判精神が欠落していることが分かる。そして批判精神のない作家はどんな場合でもおしなべてダメであるから、この作者はストーリーがダメということが判別できるのである。そしてその判別に基づいてストーリー全体を見ていくと、いくつも列挙することのできる欠点が何らかの意図を内包した「狙い」などではなく、本当にただの欠点に過ぎないということが分かってくるのだ。

例えば、翔太というコメディリリーフがいるのだけれど、主人公の一人がラスボスと戦っている肝心な時に、とあるトンチンカンをやらかすせいで地球全体を窮地に陥れる。この翔太のトンチンカンのせいで、セカイはもう後少しで滅んでしまうところにまで追いつめられるのだ。しかし、そのトンチンカンの報いとして翔太が受ける罰は、主人公の一人に一発殴られるだけである。それで、見ている方としては「おいおい地球を滅ぼしておいて一発殴られるだけかよ」と、そのアンバランスさに気持ち悪さを味わわないではいられない。

この手の「傷」は、積み重ねることによってボディブローのように効いてくる。例えば主人公の小磯健二は、友人とのジャンケンに偶然勝ったから夏希の田舎についていくことになったのだけれど、その後のストーリーを見ていくと、もしそこでジャンケンに負けていたら、やっぱりセカイは滅んでいたということが分かる(あるいは、この物語そのものが始まっていなかったか)。だから、そのジャンケンはこのストーリーにとっては本当にだいじな運命の分かれ道だったのだけれど、作者がそれに無自覚なためか、肝心のそのシーンは画面上には映されず、セリフの中でさらっと触れられるのみなのだ。それがまた居心地悪いのである。観客の中には、映画を見終わった後で「あのジャンケンに健二が負けていたらどうなっていたんだろう」と思わされる人がいるだろうことは十分予想できるのに、それへの配慮がゼロなのだ。だから、ストーリーへの感情移入はどうしても薄いものとならざるをえない。

こういう「偶然」を扱う時は、本当は細心の注意を払わなければならない。気の利いた作家なら、用意周到に「あのジャンケンには裏があった。実は夏希へ密かに思いを寄せていた健二が、数学を駆使して相手が何を出すのかを予測していたのだ。だから、健二が田舎に来るのは必然だった」といったエクスキューズを用意しておくものだ。そうすることで、ストーリーに奥行きが出るし、キャラクター造形も豊かになる。あるいは、もし本当に偶然にするなら、「オイディプス」の昔から使い古された手法にあるように、あらかじめ占い師に予言させるなどして「この偶然はある種の運命なのですよ」と、それを自覚的に演出しているということをオーディエンスに提示する必要があるのだ。そういうふうに、作者は「偶然」という劇薬には十分な配慮を持って扱わないと、ストーリーというものはとたんに魅力を失って、ただのご都合主義に堕してしまうのである。

それから夏希が花札AI人工知能)と戦い連勝するところがあるのだけれど、ゲームに勝つことに特化して世界中のあらゆる超一流プログラマーを寄せ付けないAIが、一介の女子高生花札で連敗するだろうか? そこのところの理由も、「夏希は実は花札の天才だった」というエクスキューズがあるならばまだしも、単に「おばあちゃんと小さい頃から勝負していた」という説明だけでは、あまりにも弱い。しかもこの映画には、その夏希が当のAIを開発した人物に花札で負かされるという場面さえあるのだ。これによって、ストーリーそのものの説得力がさらに薄まるという致命的なミスさえ、この映画はおかしているのである。

それから終盤、瀕死の敵が最後の反撃を試みるところがあるのだけれど、その反撃の理由と言うか、それまでは世界滅亡を望んでいたのに、なぜ主人公だけを殺そうとしたのか――そこのところの納得のいく説明もないから(あるいはぼくが聞き逃しただけ?)、その荒唐無稽さにはやっぱり辟易とせずにはいられなかった。

この映画、絵と動きは本当に素晴らしい。前にsukebeningen氏がSUKEBENINGENSUKEBENINGEN アニメ表現の優先順位。というエントリーで「アニメ界におけるヒエラルキー」について書いていて、「アニメーターに比べて脚本家や音楽家や声優は下である」というのを説明していたのだけれど、この「サマーウォーズ」の作者は、そうしたヒエラルキーをまさに体現している人なのだと思った。この人はきっと、絵さえ動けばいいのだ。ストーリーはあまり重要ではないし、音楽や声優はそれ以上にどうでもいい。そうしてそれで、実際にヒットしている。だから、映画やビジネスとしてはそれで十分なのだろう。

しかし断言してもいいけれど、これは記録には残っても記憶には残らない作品である。数年も経つと、誰もこの映画のことを忘れて話題にしなくなるだろう。その点では、同じヒットしたのでも「ヱヴァンゲリヲン」や「ポニョ」とは違う。そういう意味で、この映画はエンターテインメントとしては落第点だし、ましてや芸術として人々の心になにがしかのくさびを打つということはないのである。


追記(2009年9月25日10時50分)

文中、「侘介」と書いていたのは「翔太」の間違いでした。訂正します。さらに「侘介」は「侘助」でしたね。


それから「セカイ系」の認識が間違いだという指摘もありました。

wikipwdiaにはこうあります。

「セカイ系は「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』(これらについては後述する)など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義される場合があり、代表作として新海誠アニメほしのこえ」、高橋しんのマンガ「最終兵器彼女」、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』の3作があげられる。

「世界の危機」とは地球規模あるいは宇宙規模の最終戦争や、UFOによる地球侵略戦争などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく(情景としては「無敵超人ザンボット3」と正反対)、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。これは「社会領域の方法論的消去」とも呼ばれるセカイ系諸作品のひとつの特徴であり、社会領域に目をつぶって経済や歴史の問題をいっさい描かないセカイ系の諸作品はしばしば批判を浴びている。つまりセカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に『世界の果て』とつながってしまうような想像力」で成立している作品であるとされている」

これを見ると、ぼくがここで使った「セカイ系」とは微妙に意味が違いますね。ぼくがここで示したかったのは、「主人公の双肩に全人類の存亡が託される」ということで、これにはゲームの「ドラクエ」や映画「アルマゲドン」なども含まれます。この手のストーリーが、いつからか世に大量に氾濫することとなったので、ぼくは辟易しているところがあるのです。

但しこれは、上に引いた定義と近似していると言えなくもありません。具体的には、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』(これらについては後述する)など、抽象的な大問題に直結する」というところが、ぼくが指摘したかったことの核の一部でもあるからです。

この言葉については、定義がそっくりそのままコレクトではないため使用を避けるのが適当なのかもしれませんが、一方では、ぼくが指摘したかったことのだいじな何かがこの「セカイ系」という言葉の中にあり、そのためこの言葉を使いたいという思いもあるので、ここではあえてこのままとさせて頂きます。

「セカイ系」という言葉が表現するもの、あるいはぼくが指摘したかったことについては、機会があれば、また項をあらためて考えてみたいと思っています。