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2011-10-17

おかげさまで『小説の読み方の教科書』がAmazonで売り切れたこととK氏について思うこと

ぼくの近著『小説の読み方の教科書』が、おかげさまでAmazonで売り切れました。

最初に何冊仕入れていたのかは知りませんが、少なくとも数十冊はあったはず。自分で言うのはなんだけれど、ぼくがここで地道に記事を書き続けていることも、少なからず売上げに貢献したと思います。

それはもちろんAmazonの売上げだけにではなく、他の場所においてもです。このブログの記事をきっかけに、ぼくの本を他の通販サイトで買ってくれた方もいれば、街の書店で買ってくれた方もいらっしゃいました。

ブログというのは、そういう意味で本当にありがたい。昔は、何かを発信するとなったらいわゆる大手マスコミに頼る以外方法がなかったけれど、今はこうして自分で手軽にブログを書けるということは、インターネットの力と恩恵には本当に大きなものがあります。ぼくはそれを、心からありがたいと思う次第です。

小説の読み方の教科書

小説の読み方の教科書


ところで、せっかくだからここでぼくがK氏(とある会社の経営者)について思っていることを少し書こうと思います。

ぼくが彼のことを経営者失格だと心から思っていることは本当です。というのは、彼は、自身が経営している会社の全てのステークホルダーが本来受け取るべきだった価値を棄損しているのと同時に、ブログというすぐれたツール、すぐれた文化の価値をも棄損しているからです。それも、単に自分のちっぽけなプライドを守るためだけに。


ぼくは一昨年、本を書きました。その本はおかげさまでベストセラーになり、社会に対しても少なくないインパクトを与えました。そこにおいて取り分け重要だったのは、その本が「ブログをきっかけに出版された」ということです。つまりブログがなければ、その本は誕生していなかったかもしれないのです。

だからぼくは、ブログにとても感謝しました。特に、そのブログを提供している企業に感謝し、本の後書きにもその名前を記したくらいです。

しかしながら、そのブログを提供している会社の経営者であるK氏からは、いまだに何の音沙汰もありません。挨拶や感謝の言葉がないのはもちろんのこと、彼はむしろ、ぼくのことやぼくの本のことを積極的に無視し続けているのです。

そのブログサービスには、ブログの利用者が本を出したりした時に公式ページで紹介する風習があるのですが、ぼくやぼくの本のことは、その存在を知っているにもかかわらず、あえて無視しています。あるいは、そのブログを利用している著名人を紹介する公式ページでも、ぼくのことをあえて取りあげないようにしているのです。


そのことが、大きな問題なのです。なぜ問題かというと、それはぼく自身をバカにしたから、というわけではありません。人間、他者に対しても好き嫌いというものはあるでしょうから、嫌いな人間に対して冷たく振る舞うというのは、ある意味当然のことでもあります。

しかしながら、彼は個人であると同時に、企業の経営者です。そして企業の経営者という立場でいうと、彼はそうやってぼくをことさらに無視することによって、自身が経営する会社のステークホルダーであったり、あるいは日本のブログ文化そのものに、大きな価値を得るチャンスを逸させているのです。それによって、企業やブログの価値が大きく高まるチャンスがあったのに、それをみすみす見過ごしたのです。

それが問題なのです。ぼくの本を生み出すきっかけを作ったということは、少なくない価値としてアピールすることができます。ブログが、ぼくという一個人の人生のみならず、本にかかわる全ての人々(それは数百万人単位です)ーーつまり社会というものをも動かした。これは誇るべきことであり、またなるべく多くの人に伝えるべき、有用な情報でもあります。

だから、それを隠匿するという行為は、自らの経営する会社の価値を著しく損なっているに等しいのです。また、ブログという文化を日本において広め伝えていくうえにおいて、これを邪魔だてしている行為に等しいと言うこともできます。

言うまでもないことですが、会社やブログという文化はK氏の私物ではありません。しかし彼は、ぼくが嫌いだという彼のちっぽけな好悪の感情から、会社を私物化したり、ブログという文化を廃れさせているのです。そして、それで安閑とするばかりか、むしろ誇らしげに振舞ってさえいるのです。それが、ぼくが彼を経営者失格だとする最大の理由です。


ところで、こういうことを書くと、必ず「ではなぜそのブログにとどまって書いているのか」という方がいらっしゃいますが、それはひとえに、ぼく自身が人身御供となるためです。ぼくが人身御供として進んで被害者になり、K氏の悪辣な所業を身をもって体験することによって、その実相をみなさまにお伝えし、ぼくのような被害者が一人でも減るよう願ってのことなのです。そのためぼくは、今日もここにとどまって、ぼくが受けた屈辱の数々について、ここでみなさまにこうしてご報告させて頂いている次第です。


最後に、ぼくが今、K氏に伝えることがあるとすれば、それは「今からでも遅くないから、まずはぼくに心から謝罪してください」ということです。そのうえで、これまでの非礼や無礼の数々を真摯に反省し、ぼくの本を公式ページで大々的に宣伝することによって、ぼくの本の売上げや、それを待ち望んでいる読者やユーザーの顧客満足に、貢献して頂ければと思います。

「自分に自信がない」と言う人は自分がそう見られたいだけの嘘つきだ

増田のこの記事が興味深い。


この人は端的に言って嘘つきである。

誰に嘘をついているかと言うと、自分にである。他人に対してもそうだけど、誰より先に自分に嘘をついている。「敵を欺くにはまず味方から」というわけだ。だからこの人は、嘘はついているけれども、自分自身ではその自覚がない。

では、この人の発言のどこが嘘かと言うと、まず「私は、とてもじゃないけど自分に自信がない」と言っているのが嘘である。なぜなら、この人は「自分に自信がない」と「言える自分」に対して、「堅固な自信」を持っているからだ。だから、そういうことを臆面もなく言えるのである。いや、「増田(匿名で書くブログ)だから臆面もなくないのでは?」という意見もあるかと思うが、それは自分や他者を欺くために、仕方なくそうしているまでである。これを実名で自分のブログに堂々と書いちゃうと、さすがに「実は自信家」であるということがバレちゃうので、次善の策としてこうしているのだ。


それからまた、この人はこんなふうにも書いている。

「「うわー、あの程度の人間のくせに、リア充気取っちゃうんだ?」と後指さされるのが怖くて仕方ない」

こう言っている時のこの人の心は、「うわー。こういうこと言える私ってスゴい!」という恍惚とした気持ちで満たされている。自分が素晴らしいと思えて仕方ない。自信が、さらに揺るぎないものとして固まっているのだ。

ところで、自信を持つことそのものは、取り立てて悪いことではない。というより、それを持たない方が問題である。

なぜかと言うと、自信は人間にとっての生きる原動力なっているからだ。本当に自信がなくなってしまったら、自分のすることさえ信じられなくなって、もう何をすることもできなくなる。そうして、もう生きていくことさえできなくなり、後は死へと向かうのみなのである。

だから、この人の問題は別にある。それは何かと言うと「自分が自信家である」ということが自覚できていないところだ。自覚できていないと言うより、「自分は自信家ではない」という嘘を自分自身について、それで自分を(表面的には)欺いているのである。そうして、表層意識では自信がない状態を保っているのだが、しかし無意識では自信家のままであり、むしろそれはより堅固なものともなっている。だから、心の「表」と「奥」がバラバラになってしまって、その両者に心が引き裂かれたような状態となってしまっているのだ。

そのため、今はとてもつらい状態のはずである。思ってることと感じることがバラバラなので、何をやってもちぐはぐで、生きていることの実感を味わえないのだ。


このままでいくと、さらなる問題がこの人を待ち受けている。それはどういうことかと言うと、本当に自信がない状態――つまりもう生きてはいけない状態になってしまうことだ。

この人は、記事の最後に「こんな自分でも、なんとか生きていかないといけないんだけどさ」と書いているが、これが実に示唆的である。この人は、自分でも気づかないうちに、この問題が自分の生き死にに関係しているということを自覚しているのだ。この言葉は、この人の深層心理が表層意識に投げかけたSOSである。


ところで、ではなぜ生きていけなくなるかというと、理由はこうである。

この人は、「自分は自信家ではない」という自らの価値観に見合った人間に自分を見せかけるため、他ならぬ自分の深層意識を騙そうとしている。深層意識を蔑ろにし、毀損しているのだ。そして、この人の深層意識にある「自信家」の部分は、前述したように、人間の「生きる力」に密接に結びついている。人間は、承認がないと生きていけない。取り分け、「自分の承認」がないと生きていけない。そして「自信」とは、自分で自分を承認することのことである。「生きていてもいい」と、自分で認めることである。それこそが、「自信」の正体なのだ。

ところが、この人はその「自信」を蔑ろにしているため、やがてそれと密接につながっている、「生きる力」や「自己承認」そのものをも蔑ろにし始める。そうして「自分は自信家ではない」という見栄を守り通そうとするため、やがてはそれを証明しようとするのである。つまり、自分が嘘をついていないということを(つまり自信家ではないということを)、死をもって示そうとするのである。「ほらね、私は本当に自信がないから死んじゃったでしょ」と、その嘘をつき通さんがために、ついには自らの命をも毀損する結果となるのである。


ところで、この人は文中に「似たような人いないかな」との問いを投げかけているが、似たような人は、はっきり言って少ない。なぜなら、似たような人たちは早晩自らを死に至らしめるため、絶対数が圧倒的に少ないのだ。これはキルケゴールが言うところの「絶望」――つまり死に至る病にとても近く、これに罹患している人間はその存在を長くは許されないため、どうしたって少なくなってしまうのである。


と、問題を指摘してるだけでも仕方ないので、解決法を一つだけ。

それは、自分が見栄っ張りであることを認め、素直に自分はバカだったと反省することである。そして、「自信がないなどと嘘をついてすみませんでした」と、はてなの読者と誰より自分自身に、心から謝罪することだ。

そのうえで、自分がとても下品な自信家であるということと一緒に、これからの人生をみっともなくも逞しく、楽しく健康に生きていくことである。


小説の読み方の教科書

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関連記事

Twitterで議論をするのは『風の谷のナウシカ』で巨神兵を蘇らせるようなものだ

こういう記事を読んだ。

これを読んでつくづく思うのだが、やはり人はTwitterをするべきではない。

なぜかというと、ちっとも生産的でないからだ。デール・カーネギーの『人を動かす』の中に、「議論に勝つ唯一の方法として議論を避ける」というのが記されているが、これをぼくも座右の銘としている。ぼくもこれまでの人生の中でさんざんに(むしろ人より多いくらいに)議論を重ねてきたが、それで何か生産的だったためしがない。だからぼくは、37歳の時に人と議論することをやめた。

それで言うと、このTogetterでつぶやいている人たちは全て負けだ。議論に負けているのではなく、議論をすることそのものが負けなのである(もちろん、口ゲンカや本当のケンカも、議論よりもましかも知れないが、負けであることに変わりはない)。


ところで、このTogetterの中で吉田豪氏がこう呟いている。

小宮山雄飛さんのTwitter本でボクはTwitterの面白さについて「その人が面白いのかどうか、いい人なのかどうか、センスがあるのかどうか、いろんなことがダダ漏れになるところ。こんなに恐ろしいツールを、みんな無邪気に使いすぎ!」とアンケートに答えたんですが、そういうことです!

Twitter

このつぶやきについて、ぼくはTwitterが「その人が面白いのかどうか、いい人なのかどうか、センスがあるのかどうか、いろんなことがダダ漏れになる」というところはまさにその通りと思うのだが、しかしだからこそ「面白い」とは全然思えない。なぜかと言うと、Twitterが「ダダ漏れ」にさせるそれらのものは、社会が円滑に営まれていくためには本来余計なものであり、だからこそ人間は、これまで生きてきた中で、そういうものをダダ漏れさせない文化や風習を育んできたのだ。それは、本来隠されていて然るべきものなのである。

だから、それを「ダダ漏れ」にさせては良くないのである。そして、それを面白がるのも良くない。

それはまるで、「宮崎駿アニメで事件の発端として誰かが本来してはいけないことをする」ような意味で良くない。それはまるで『風の谷のナウシカ』で巨神兵を蘇らせるようなものであり、『天空の城ラピュタ』でラピュタを復活させるようなものであり、『もののけ姫』でシシ神を殺そうとするようなことであり、『千と千尋の神隠し』で両親が神々の食べ物を食べてしまうようなことなのである。

それを面白いと思ってはいけないと思うのだが、どうだろうか?


小説の読み方の教科書

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人を動かす 新装版

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