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2010-01-11 鬼は外じゃさむいので家に入れます。鬼は内福も家
節分か。
【吉】048($33) ふなわ ふのなわのまつりと ほればいもをせもなか にみちひくふなわな り け り ∧ ∧ 〜′ ̄(´ー`)<だからそんなにでかいのは入らないと言っているだろ! UU ̄ U U
http://www.ge.st98.arena.ne.jp/2/2.html
Σ|D<あら? googleIMEに変わっちゃったな
使えんと噂の。
Σ:)<←この顔も2個しかないのでMicrosoftIMEに変えました。
誰よハッキングしてるのは。
Σ:<)<プチフリーズがたまらん。
ふのなわの 2の縄の
まつりとほれば 祀り通れば
いもをせも 夫婦も
なかにみちひく 中に道引く
ふなわなりけり 2縄なりけり
Σ|3<いもおせ、がなんか誤訳
ホツマ辞典を使うか。
ΣXD<CD−ROMホツマ辞典が欲しいなぁ!
CD−ROMつーか、デジタル。今はDVDじゃねっすか?
Σ|3<そかね?
そーですね。つーことで
Σ:)<翻訳ごっこ。プログラマーは品役が得意です
翻訳。
Σ|3<なんでか!
なんで?
そりゃ、クライアントの意思を
Σ:)<しかし、飽きてきたな。
いや、ここで商売してこっちが本業です、と警察官という名の地方公務員に宣言した以上
ΣXD<なんでよ!
悪徳弁護士死ねよ。イラネーよ
金を引っ張ってこれたら支払う。それまでは一切払わない。それがあんたの仕事でしょう?
Σ:)<わはは。
さて、辞典。
基賦兆導則左大吉
君政直徹能和民
欲結婚姻有実導
不和人当導和睦
猶失物在中病快
© 1775 井保勇之進
Σ:3<井保勇之進
知り合いの政治家
ええやん。おもろい。
http://blogs.yahoo.co.jp/umayado17/60154996.html
Σ:)<実績だなー。
実績ですね
ΣXD<何が!
いやほら、昔に書いたと思った。
Σ:)<強く生きるコツは「どーでもいい」です!
人生で大事な事は
Σ|D<タイミングにC調に無責任!
つまり
Σ:)<責任を回避することで精神的に安定し「コツコツできる」のでありましょう
http://d.hatena.ne.jp/gikonekos/20081215/1229343839
ΣXD<わはは、ヲシテの流れを継ぐ古文を発掘!
物語の語り方というか、作文法が同一
Σ:)<これを575757…の擬古文で書けば鏡の書が増えるなぁ
『世はいかに興(きよう)ある物(もの)ぞや。さりとも、翁(おきな)こそ、少々のことは覚(おぼ)え侍(はべ)らめ。昔さかしき帝(みかど)の御政(まつりごと)の折は、「国のうちに年老いたる翁・嫗(おうな)やある」と召(め)し尋ねて、いにしへの掟(おきて)の有様(ありさま)を問(と)はせ給(たま)ひてこそ、奏(そう)することを聞(き)こし召(め)しあはせて、世の政は行はせ給(たま)ひけれ。されば、老いたるは、いとかしこきものに侍(はべ)り。若き人たち、なあなづりそ。』とて、黒柿(くろがへ)の骨九つあるに、黄(き)なる紙張りたる扇(あふぎ)をさしかくして、気色だち笑ふほども、さすがにをかし。
http://www.j-texts.com/chusei/rek/fokgmall.html
このころは当然お持ちですな。文書によるミクサタカラ
Σ:)<ミカサフミ、カグノフミ、ホツマフミ。
でまぁ、多分仏陀の生誕伝説はアマテルカミ生誕伝説のパクリ
ΣXD<どのへんがよ!
ウヒルギ
Σ:)<何事かを言ったのではなく、何事かを聞いた*1
しかもわかる。
Σ|3<ツー感じの、逆転現象つーか。表記を逆転させてる気がするな、先代旧事本記。
聞いた人→言った人
Σ:3<わはは。
ではなく、元ネタはよ。実績の
Σ:)<でてくるかね?
一杯書いたので出ますかねぇ?
『世の中はおもろいな。じっちゃんが覚えてるんでは、昔のいい感じの天皇つったらもう「国内にはじっちゃんばっちゃんがいるだろがよ?」とまぁ聞いてじっちゃんばっちゃんの語る昔話を集めさせ、というか昔のやり方で政治を進めたんだよ。「な? 世の中には頭のいいじじばばがいるでしょ? 若い子もじじばばを馬鹿にすんじゃねーですよ?」つってな。』とオサレな団扇を仰ぎながら笑った。さすがにつられて笑ってしまった。
翻訳。
Σ:3<と。
さて、正解!
「世の中はなんとも面白いものですね。私のような老人こそ、世の中の多少の事は知っておりましょう。昔、賢い天皇が政治をなさるときには「国内に高齢の翁や老婆はいるか」、お召し尋ねになって、昔の規範の様子などをお尋ねになられては、老人どもの奏上することをいろいろと参考になさって、政を行っていたということです。ですから、年寄りというものは、まことに賢いものなのだ。若い人たちは老人を馬鹿にしてはいけない」と言って、黒書きの骨が九本あり、黄色い紙が張ってある扇で顔を隠して気取って笑うのも、さすがに趣がある。
http://homepage2.nifty.com/kazenohoyo/ookagami.txt
Σ:)<まぁ、概ね正解
戦争の記憶を伝えていくということCommentsAdd Star 15:56
去る6月7日、笠原一人氏(京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科助教,専門は近現代建築史、「記憶・歴史・表現」フォーラムメンバー。著書「訪ねてみよう戦争を学ぶーミュージアム・メモリアル」)のお話「記憶と表現をめぐってー震災・戦争から考える」を聞きました。
http://d.hatena.ne.jp/masako-jo/
Σ:3<みっけた。実績
既にやってます、という。わらい。
Σ:)<なぁ。自分でやらんとどうすんのよ、といっときます→うまやど先生
水鏡の盾
第十二代 景行天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、景行天皇(てんわう)と申(まう)しき。垂仁天皇(てんわう)の第三の御子。御母、皇后日葉酢媛命なり。垂仁天皇(てんわう)の御世、三十年辛酉正月甲子の日、東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)二十一。父御門(みかど)、二人の御子に申(まう)し給(たま)ふやう、「おのおの心に何をか得んと思(おも)ふ」と宣(のたま)ふに、兄の御子「我は弓矢なん欲しく侍(はべ)る」と申(まう)し給(たま)ふ。弟の御子〔は〕「我は皇位をなん得んと思(おも)ふ」と申(まう)し給(たま)ふ。このことにしたがひて、兄の御子には弓矢を奉(たてまつ)り、弟の御子をば東宮(とうぐう)に立て奉(たてまつ)り給(たま)へりしなり。辛未の年(とし)、七月十一日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)八十四。
P021
世を保ち給(たま)ふ事六十年なり。五十一年と申(まう)ししに内宴おこなひ給(たま)ひしに、成務天皇(てんわう)のいまだ皇子と申(まう)ししに、武内宿禰と、その座に参(まゐ)り給(たま)はざりしかば、御門(みかど)、其の故を尋(たづ)ねさせ給(たま)ひしに、申(まう)し給(たま)はく、「人々みな御遊びの間、心を緩ぶべき折なり。その時、もし隙を窺ふ心あるものも侍(はべ)らんにと思(おも)ひて、門を固めてなん侍(はべ)る」と申(まう)し給(たま)ひしかば、御門(みかど)いよいよ並びなく寵し給(たま)ひき。武内は孝元天皇(てんわう)の御孫なり。この後代々の御門(みかど)の御後見として、世に久しくおはしき。今に八幡の御傍に近く斎はれ給(たま)へるはこの人にいます。五十八年二月に近江の穂穴宮に遷りにき。熊野の新宮はこの御時にぞ始まり給(たま)へりし。
http://www.j-texts.com/chusei/rek/mzall.html
Σ|3<おお。欠史八代。
ヤマトタケの父神様であらせられるのでありますが!
Σ:3<熊野の新宮?
あやしいっすね……
Σ|3<近江の穂穴宮?
たかあなほじんじゃ
穴太一丁目にある。祭神は景行(けいこう)天皇。伝えでは景行天皇が高穴穂宮に遷都の後、次の仲哀(ちゅうあい)天皇が先帝の遺徳を偲び宮中に前王宮としてまつったのが始まりという。高穴穂宮は大津で最初の都と伝えられ、本殿の背後には、高穴穂宮の跡碑が建つ。
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/jiten/data/061.html
Σ:3<検索テクニックを駆使して発掘
神上がられた御所にございますな
なんすかね?
御由緒
明細書に創祀年月不詳とあるが、祭神景行天皇は即位五十八年近江滋賀に遷都され高穴穂宮と称したが、在位三年で崩御(百大歳)された。 次帝成務天皇は先帝の御遺徳を追頌され、高穴穂宮の内に祀り天徳前王社また前王宮と称した、これが当社の発祥と伝えられる。
Σ|3<いわばヲシテ文献の原作者。企画者であらせられる偉大なる神なんだが
そこはずずっとスルーしてますなぁ。笑える
Σ:)<この人がいなかったらそもそもヲシテ文献は残らなかった。
というのが、景行朝信奉者の間で参詣したという記録がみえんか?
Σ|3<参詣してるんだろうけど、しかし3年。
この近所の寺社に未発見のヲシテ文献が眠っててもおかしかないっすね
Σ:)<わはは。
うつろ船
建部神社の社伝によると、旧社殿は箕作山の中腹の宮立というところにあったが、天武天皇の白鳳四年(六七五)に、建部連安麻呂が勢多に奉遷したと書かれている。白鳳四年、大和朝廷から勢田に奉遷の勅命を受け建部連安麻呂は当惑した。この建部連安麻呂は、壬申の乱で近江朝廷大友皇子軍の一武将であったが、大友皇子軍敗北後、野に下って「建部公伊賀麻呂」という朝臣の姓を捨て、領下伊野部に落居し建部明神社の社守となっていた。この勅命奉遷に関する一つの伝説として、哀れとも悲しい物語が秘められている。
この建部神社の社守安麻呂は、天智天皇在世の頃は建部荘大領であり、また奥方との間に一人の美しい姫があった。天女の再来かといわれたほどの姫だった。しかし不幸にして、このいとしの姫を残して奥方は、かりそめの病のため帰らぬ旅路に赴かれた。安麻呂も幼い姫も一心に建部の宮に祈願されたが、亡くなられた。まもなく父安麻呂は、事情により新しい後母を迎えられたが、その母、性邪険で前妻の子として姫を憎むこと甚だしく、幾度か姫の殺害を企てた。父安麻呂は、翌年の春、大和飛鳥に向かって旅立った。
それは、建部明神、勢多奉遷辞退のためであった。姫の後母は折こそよけれど秘かに同腹の下僕に命じて鬼の住むと伝えられる鈴鹿の山奥に捨てさせた。
この下僕もあまりの無惨さに心を改めて、姫を密かに神殿の奥深くにかくして保護していたのであった。大和の国に向かった安麻呂は勅命を辞退したという罪に罰せられて遠く越前の国に流されたと伝えられてきた。
下僕は到底、姫を庇護することができなくなって、むしろ神の加護に任せ、いかなる国なりと流して、安らかに命長らえさせ給えと檜でうつろ舟を造り、姫を乗せて涙ながら愛知の支流大登川の流れに放たれた。うつろ舟は川の激流に流されて、やがてはるか琵琶の大湖の沖合いにその影が隠れた。それが揺られて漂うこと幾日か、うつろ舟は西へ西へと漂うて、今はなき志賀の保良の都、勢多のあたりに着いた。端元の丸目という漁り人が網打していたが、見慣れぬうつろ舟が流れ着いたので、引き上げて押し蓋を打ち割って見ると、中から黄金の光が輝いた。神々しいまでの貴かな姫の姿が、丸目は名の如く眼を丸くして見た。不思議なるかな、それはそれは金色に輝く御女神様の像であった。金色の女神像を得たこの丸目は勢多のあたりに御宮を立てて、この女神像を斉き祀った。安麻呂は後、罪を許され建部の庄へ帰って来たが、姫の姿はようとして知れず、しかし天武天皇の勅命、これを奉載して湖の南、勢田庄へ、安麻呂は建部公伊賀麻呂と任官して勢多へ向かった。かくして伊野部建部明神は勢田に奉遷されて行ったが、現地に到着して安麻呂は驚いた。もはや勢多には立派な宮居ができて、宮居より静々と迎えに出られたのは、数年前行方不明であった千草姫であったという。
伊野部の農業倉庫の中に、横三五cm、縦八〇cmぐらい、深さ約五〇cmぐらいの角型檜作りのさながらノアの箱舟のような、掘り抜いた角材が保管されている。年代は相当古く、おそらく、御神体の古い厨子であろうかと思われる。伝説の千草姫が流されたうつろ船のヒナ形かも知れない。
※ふるさと伊野部のあゆみ 第11章 伝承・しきたり・方言 222p〜223p
Σ|3<という。
……ええ話や。
Σ:)<珍しくハッピーエンド。
後妻がどうなったのか、は知らない。






質問します。
ここで登場する丸目という漁り人は創作なのでしょうか?
それとも建部神社の社伝にも登場するのでしょうか?
教えてください。