Hatena::ブログ(Diary)

風の歌が聞こえますか

2018-10-31

ブログの移行

2019年春に「はてなダイアリー」が終了するということで、当ブログを「はてなブログ」に移行しました。
新しいサイトは以下です。

https://away-sw.hatenablog.com/
風の歌が聞こえますか

今後は上記サイトで記事更新を行います(ここは記事更新を行いません)。
よろしくお願いいたします。

away

2018-09-18

らっきょうの皮を剥く猿

結局のところ、上機嫌に日々を送ること以外に人生に大切なことはないのではないか?と
最近考えるようになった。人間は哲学と思想を突き詰めることで神の存在を否定し宗教
破壊し、科学を突き詰めることで死後の世界も臨死体験も脳内の幻想と断じ、最近では
意識は単に進化の過程で生じた生存に優位性を持たせるための仕掛け(ヒストリー記憶)
であって自分の意志で決断する前に無意識は既に行動を決断しているという実験結果
を持って人間の自由意志まで否定しようとしている。
人間はますます裸の実存として世界の中でひとりぼっちにされてゆく。

よろしい。それらが全て正しいとしよう。
これらの全てが、立証は不可能であったったとしても最も蓋然性の高い仮説であること
を僕も認めるとしよう。
けれども。
これらの仮説は「人が日々を上機嫌に安定的な精神状態で生きる」ことにどれほど
資するのか?一人の人間のQOLを高めることに、どれほど資するのか?
恐らくはこれらの仮説を立てその実証を試みる学者たちや哲学者には「有効と思われる
仮説を立てたことによる喜び」なり「より真実に近づいたであろう喜び」を彼ら自身
には与えるだろう。
しかしながら、彼らの立てた説は、それを知ることになった人たちの「上機嫌な安定
した生」に何一つ資することはないのではないか?

19世紀以降、人間は自分で自分の皮を剥くようなことを繰り返し行ってきた。
メリメリと音を立てて皮を剥かれるその痛みに悲鳴をあげながら。
それはらっきょうの皮を必死で剥く猿と何もかわらないのではないか。
全部皮を剥ききってしまったら、残るものは何もない。
らっきょうは皮を剥くためのものではなく、食べてその美味しさを愛でるものだ。
人間は全く裸の実存として真実という世界に晒されて耐えてゆけるほど強くない。
たとえ自由意志が幻想としても、人々はその幻想を元に社会を作り営んでいるではないか?

もう、こういった世界から僕は離れることにしよう。
そして「日々を上機嫌に生きるためにどう考るか」を大切にしようと思う。

2018-09-08

アラン「幸福論」より

以下引用:
------------------
ほほ笑むことや肩をすくめることは 、思いわずらっていることを遠ざける常套手段である。

病気にかかった人を見たまえ。病気になることによって、自分は病気ではないかという
恐怖から、いかにたちどころにいやされてしまうことか。われわれの敵はいつも想像上
のものなのだ。

憂鬱な人に言いたいことはただ一つ。「遠くをごらんなさい」。憂鬱な人はほとんど
みんな、読みすぎなのだ 。

人間の眼ははるかな水平線をながめる時、やすらぎを得るように出来ている。

強靭な精神をもつ人間は、自分が今どこにいるのか、何が起きてしまったのか、まさ
に何が取り返しのつかないことなのかを自分で考えて、そこから未来に向かって出発
するような人だと、ぼくは考える 。

人にほんとうに与えうるのは、自分のもっている希望だけなのだ。自然を当てにし 、
未来を明るく考え、生命は必ず勝利すると信じなければならない。

われわれはいつも自分の苦痛に対しては耐えうるだけの力がそなわっていることだ。
また、ぜひそうでなければならぬ。

よく聴きたまえ。死者たちは生きようと欲しているのだ。君のなかで生きようと
欲しているのだ。君の生を通して、自分の欲したものがゆたかに展開されること
を望んでいるのである。
------------------
脳科学的には「意志」などというものはほぼないに等しい、とされているようだが、
人間が幸福に生きるためには「意志」という「幻想」なり「仮説」を取り入れて
生きるしかない、というのが今の僕の結論である。

幸福論 (岩波文庫)

幸福論 (岩波文庫)

2018-07-21

トルストイ「イワン・イリッチの死」

久しぶりに衝撃的な小説を読んだ。
トルストイの「イワン・イリッチの死」である。

主人公のイワン・イリッチは裁判官。持ち前の頭脳と如才なさで
とんとんと出世を遂げた人物で、結婚生活はうまく行っていない
ものの(イワン・イリッチは口うるさい妻から逃げるようにさら
に仕事(というよりも僕が見るところ出世)に没頭していた。)
出世運動も実り、それなりの豪邸を建て、仕事では自分の判断で
人の人生を左右できるという万能感を密かに感じつつ送っていた
(凡庸かつ俗物的に描かれているが)順風満帆な彼の人生に、
いきなり病という不条理で不可解な事象が降りかかる。

イワン・イリッチは医者を変え、手を尽くすが病気はよくならず
どんどん死に向かってゆく。この間の彼の内面の苦しみの心理描写
は徹底しており、微に入り、細に入り、実にすごいものがある。
トルストイ、すごい!と改めて思った。
病に苦しむ人間、死に向かう人間の徹底的な人間の孤独と苦しみ
そして恐怖をこれほど的確かつ微細に表現した作品がかつてあった
だろうか?そして対比して描かれる「他人たち」の「自分以外の
人間の病の苦しみと死」に対する冷淡さと無関心さ。
これはリアリズム極致ではないだろうか。

小説ではイワン・イリッチは数ヶ月、激痛と心の苦しみにのたうち
回ったあげく、最後の瞬間に「自分が死ぬことでそれに耐えている
家族の苦しみを終わらせることができる」という悟りにいたって
その瞬間、死の恐怖や苦痛から解放されて彼はこの世を去る。
彼を最後の最後に救ったのは「自分の孤独・苦しみ・人生・恐怖
を頭で考え詰めること」ではなく「他者への愛、献身」だったのだ。
アポロン的なものに対するデュオニソス的なものの勝利とも言える
だろうし、陳腐な表現かもしれないが「愛は全てを超越する」と
言うこともできるのだろう。

最後に一言。
この小説は読み手を選ぶ、と思う。
あくまで他人事として読むか、自分がイワン・イリッチだ、と思って
読むか。これによって読後感の重さは相当違うはずだ。
僕は「僕はイワン・イリッチなのだ」と思って読んだ。
いや、そうとしか読めなかったのだ。

2018-07-06

いつか星屑になる

ここに書くのは2ヶ月ぶりである。
前の記事で書いた「身体表現性障害」の手足の汗や顔のほてりといった症状は
一応落ち着いており、薬も朝一回飲むだけでなんとかなっている。
しかしながら、6月中旬の欧州出張で体調はまたガタガタになって、風邪が
ぶり返し、最初に風邪をひいてからかれこれ2ヶ月弱になるのにまだ完全には
良くなっていない。体調は徐々には回復してきているものの、まだまだ完調
には程遠い。

こうやって不調になってみて初めて健康のありがたさが身に沁みてわかる。
この三ヶ月、「すっきりした気分で青空を眺めたい」とどれほど願ったことか。
(数日前にやっと一度、そんな瞬間が訪れた。その時は本当に嬉しかった)
身体表現性障害はすぐに治癒することはなかなか難しく「付き合ってゆく」しか
ない病気(病気には分類されていないようだ。あくまで症状)らしい。
だから、僕もそう覚悟を決めないといけないとやっと思えるようになってきた。
薬を飲みながら、時々は抜きながら、だましだまし、付き合いながら、楽しい
ことを見つけて、決められた終わりの日まで人生を生きてゆくのだ。

最近、いったい自分の人生って何なんだろう?と改めて思う。
僕は動物番組が好きでよく見るのだけれど、動物は飯を食って排泄し子孫を
残して死ぬ、以上。である。
僕の人生も結局同じなのだな、と思う。
僕の父が先日手紙をくれたのだが、こう書いてあった。
「神のご加護とはいえ、未だに自分が命を拾って元気なのは我々が宇宙の一部
である事なのだと考えます。宇宙とともに仏教の言う輪廻転生キリスト教
永遠の命を繰り返すビッグバンの星屑となって私達の家族も生き続けられるよう、
ただただ感謝したいと思います」

僕も、いつかは宇宙を構成する星屑になる、それだけだ、と思った。
そう思うと少し気持ちが楽になった。