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風の歌が聞こえますか

2012-05-26

「エウレカ!」という蜜

最近ずっと自分はしかめっ面でいるように思えてならない。

多分、実際そうだと思う。

周囲の人間はさぞ、うざったく思っていることだろう。

何が自分をそうさせているのか。


いろいろな理由はあるけれど、焦燥感がそのひとつにある。

いろいろな焦燥感。

例えば、、僕は、宇宙の真理を、世界の全てを、人生のあらゆることを

自分なりに納得し、あるべき場所に整理して死にたいと思っているのに

いっこうにその思索が殆ど進んでいないことに対して苛立っている。

本屋にいくといつも絶望感と焦燥感に苛まれる。

世界にはこんなに沢山の本があるのに、僕が死ぬまでに読める本は

ほんのわずかだ、という思いに責め苛まれる。そうすると下らない

本など読まず、本当に読むべき本を厳選して読まなければ、と思う

のだが、つい、手軽な文庫やら新書やらに手が伸びてしまう。

誘惑と欲望に負けるのだ。


今の僕は、空っぽの袋だ。

自分自身が空っぽだから、意味ある事も、いい文章も書けない。

余裕がなくて出す一方で、十分な蓄積がなされていないからだ。

小器用に手先の技術だけで書き飛ばしている作家に近い。

こんな日々を続けていたら絶対駄目なのだ。


そして現実をコントロールできていない焦燥感。

たとえ、現実が偶然うまく転がっても僕は嬉しくないのだ。

自分がコントロールして、自分の思った通りにできて始めて嬉しい。

それが、なかなかそうは行かない。

そうなると面白くない。

そんな風に思っているから、つねにしかめっ面になる。

常に渋い難しい顔になる。


たぶんどこかで僕は人生を間違ってしまったのだ。

「観念」という細菌が僕の頭の中に忍び込んで増殖しているのだ。

でももうその増殖は止めることはできない上に、彼らは時々、

甘い蜜を出すのだ。

エウレカ!」という蜜を。

2012-05-20

インテリ

僕はつまりのところ「インテリ」なんだな、と改めて自覚した。

「インテリ」とは、つまりは「観念的」ということで、自分の中の「観念」と

実存」が遊離していて、実存部分と観念部分の葛藤に「苦しむ」というのが

その特徴だ。そんなものを遊離させなければいいのに、やたら思念的なものだから、

この観念に実存が束縛され、悩んだり、苦しんだりすることになる。

観念的な本を沢山読んだから「観念的」になったのだろうか。

もっと、実存の要求するままに観念を捨てられたらどんなに楽か、と思うがもう

そうはいかない。他から見ると馬鹿じゃないの?と思うような苦しみ方だ。

でも観念の呪縛から逃れられず、いつも自分が作り上げた観念に引き戻される。

こういうのは立派な病気、というべきなのかもしれない。


そして、インテリだから自分の欲望を開放することが下手だ。

常に観念に縛られている。

そして、開放するときには下手なやりかたでする。

それが問題だ。


犬や猫を見てみよう。

彼らには「観念」はない。

いつだって自らの実存が望むまま生きている。

死ぬときは、僕だって犬猫だって同じだ。

つまり「特に何もなさずに」死ぬだけなのだ。

そこまでわかっていても「インテリ」は犬猫と同じになりたくない。

何故って「実存が望むまま」の『望む』の対象に「自らの観念が命じるように

生きたい」という項目が繰り入れられてしまっているからなのだ(苦笑)。


悟りを開くしかないか?

いや、悟りなんか開きたくない。

何故なら、心の底では、本音では、僕はインテリとして死にたいからだと思う。

2012-04-21

公ホリック

「おおやけホリック」と読む。

僕の造語だ。

男の多くは、この「公ホリック(=公中毒)」に罹っている。

反対の女性の多くは「私ホリック(とりわけ恋愛ホリック)」に罹っている。

とはいうものの、どちらのホリックのどちらが具合が悪い、というものでもない。

男女にはそういう傾向がある、というだけのことだ。

結局、人間は何かに対するオブセッションから離れられないものなのである。

その対象が、たまたま「公」なのか「私」なのか、という違いだけだ。


僕もまた「公ホリック」なのかもしれない。

「公」(たいした「公」じゃない。ごく小さな共同体にすぎない会社の仕事)を

「私」の領域に優先し、かつ、そこに払っている自己犠牲に何らかの「快感」

を感じている倒錯者だ。

昔はこんなじゃなかった、と自分でも思う(哀しい)。

こんな男どもは多くの女性から見ると「馬鹿」に見えて当然である。

だから、命を賭けて戦場に赴く男たちに女性は「男は勝手よ、後に残される者の

ことなんか考えてもみない」と逆ギレする。


閑話休題

思えば、哲学と思想は「公」と「私」、言い換えれば世界と実存を統合できる

「統一理論」を生み出そうと苦心してきた。

残念ながら、未だそのような理論は存在しない。

以下、哲学的「公」と「私」について、僕の思考の備忘のために記す。


加藤周一の「羊の歌・余聞」にこのような文章がある。

サルトルの)その「方法の問題」というのは、歴史、社会、人間の現実を

理解するためには二つの原則が必要で、一つはヘーゲルによって象徴される

ような全体を大きく見た客観的な枠組。それと、一人ひとりの個人は歴史の

段階であり社会の部分であるというのではなくて、それ自身が自己目的で

一つの完結した世界をつくっているという考え。そこに深みがあり高さが

あるという、しかし社会的、歴史的な広がりはない。

それはキェルケゴールにもっとも鋭く代表されている実存主義です。

ですからヘーゲル的歴史哲学普遍性と、キェルケゴール実存主義の深さ

との特殊性、その交わるところに現実があるということを「方法の問題」は

言っているわけです。


その二つの軸に沿って、いわばその交叉点に人間的現実を見るという態度が、

他の哲学者に比べて、20世紀の哲学の中でも彼がもっともはっきりと、全力を

あげて研究した中心問題です。それはまた20世紀の社会の中心的問題でも

ありました。それはヘーゲル的枠組−−それはあとでマルクスになるわけ

だけれども−−、それと実存主義的な個人の経験との両方が交わるところに

人間が位置する、ということですが、その二つの見方による人間理解の関係

を体系的に解決し、体系的に叙述ということには彼は成功しなかったと思います。

しかし他の誰も成功しなかった。

また先日亡くなった吉本隆明朝日新聞の記事でこのように語っている。

http://book.asahi.com/reviews/column/2011071700354.html

レーニンスターリンの対決で結末がついた問題もありました。切実な私事

と公、どちらを選ぶべきか、という問題です。


レーニンは、ロシアに本当の意味でマルクス主義の社会が成立するなら、

その時は共産党は解散しようと『国家と革命』の中で言っています。

共産主義の相互扶助、それが成就したら党を解散しようというのがレーニン

の考えでした。そして年をとったレーニンが病に伏し、妻が看病しますが、

スターリンレーニンに対し、おまえの妻は党の公事をないがしろにして

いると批判します。

そこから二人の対決が始まります。


家族の看病や家族の死といった切実な私事と、公の職務が重なってしまった

とき、どっちを選択することが正しいのか。東洋的、スターリンマルクス

主義者であれば公を選ぶのが正しいというでしょう。

ところがマルクスは、そうではないことを示しています。


マルクスは、唯物論でなんでも白黒つけちまえという論者たちとは異なり、

肉親が死んだときの寂しさ、闘病のつらさといった切実なことは、公の

利益のよさといったことと別のものだということを「芸術論」で言って

います。

この「私」をとるのがマルクス思想の本流であり、それは比較や善悪の

問題でもなく人間の問題なんだ、というのがレーニンの立場です。

真理に近いのはどっちだ、ぎりぎりの時にどっちを選ぶんだとなれば、

レーニンの立場を選ばざるを得ないでしょう。


日本でこれと似た問題提起をした人物といえば、親鸞がいます。

弟子から「死んだら極楽浄土に行くそうですが、私は少しも極楽浄土

行きたいと思えないのです」と打ち明けられ、親鸞は「現実社会という

ものは煩悩のふるさとだから、ふるさとを離れがたいのと同じように

人間は煩悩から離れられないものなのだ」と答え、オレもおまえと

同じだと伝えます。


しかし親鸞は「人間には往(い)きと還(かえ)りがある」と言っています。

「往き」の時には、道ばたに病気や貧乏で困っている人がいても、自分の

なすべきことをするために歩みを進めればいい。しかしそれを終えて

帰ってくる「還り」には、どんな種類の問題でも、すべてを包括して処理して

生きるべきだと。悪でも何でも、全部含めて救済するために頑張るんだと。


この考え方にはあいまいさがありません。かわいそうだから助ける、あれは

違うから助けない、といったことではなく「還り」は全部、助ける。

しきりがはっきりしているのが親鸞の考え方です。(談)

2012-03-14

ブリジストン美術館とフェルメールセンター・銀座

日曜日なのに早めに家を出て東京に向かった。

見たいアートイベントが二つあったからだ。

ひとつはブリジストン美術館で開催されている

「パリへ渡った石橋コレクション 1962年、春」

もうひとつは期間限定のフェルメールセンター・銀座で開催されている

「フェルメール・光の王国展」である。


最初にブリジストン美術館へ。

人が少なくてとてもゆったりと絵と向き合うことができる。

展示されている作品はブリジストン美術館が誇る逸品ばかり。

僕は今回、アンリ・ルソーの「イヴリー河岸」を見たくて行ったのだけれど、

どうしてどうして、それ以外にもまことに見応えのある作品揃いだ。

まず、コローの「オンフルールのトゥータン農場」が目に飛び込んでくる。

鬱蒼とした木々とその向こうに見えるフランスの農家。

草いきれと土の匂いがリアルに想像できる素晴らしい絵である。

他にもピサロの「ブージヴァルのセーヌ河」や「菜園」、シスレー

「森へ行く女たち」と「サン=マメス六月の朝」なども絵から土や空気の匂い

がこぼれ出てくるような見事な作品だ。

そしてなんといってもセザンヌ、そしてモネ(特に「黄昏、ヴェネツィア」は

素晴らしい)。


お目当ての「イヴリー河岸」も素晴らしかったけれど、ルソーの「牧場」には

さらに心打たれた。まるで子供が描いた絵のように見えるのだが、どうして

この絵はこれほどまでに僕を癒してくれるのだろうか。

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もうひとつ、僕を魅惑したのはジョルジュ・ルオーの「裁判所キリスト」。

小さな画像しかないのが残念だが、裁判所の中の人々の中でただ一人、はっきり

目を見開いて正面を見据えるキリストに、深く心動かされた。

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こじんまりとしているけれどもとても良い展覧会だった。

もちろん、名作ばかりというわけではなくて、習作や気持ちの入らない絵も

多数あるけれど、これだけ満足できる絵があったら何も言うことはない。


ブリジストン美術館を後にして銀座のフェルメールセンターに向かう。

こちらは期間限定で、全てのフェルメールの絵の制作当時の色彩をデジタル

技術で復元して、原寸サイズにプリントし、各地の美術館に収蔵している

ものと同じ額縁に納めたものだ。こちらのほうは日曜午後の銀座ということも

あるのだろうか、とても混雑していた。

さて、この展覧会(というよりもアートイベント)であるが、正直言って少々

失望した。いや、失望する僕が悪いのだ。なぜなら「本物じゃない」という

点に失望したわけだから。


確かに素晴らしいデジタル技術であるし、見事なプリントであると思う。

しかし「本物」ではないのだ。僕が今までに各地の美術館で見た15枚の本物の

フェルメールの絵の質感とは、やはり違う。それはどうしようもないことである

とわかっていても、心は勝手に失望してしまうのだ。

まったく贅沢というか我が儘なものである。

ただ、一点、これだけは意味があったと思うのはボストンのイザベラ・スチュ

アート・ガードナー美術館から盗難され行方不明になっている「合奏」と個人

所蔵の「聖プラクセデス」はこれからも見る機会がない可能性があるから、

複製といえどじっくり見れたことは収穫だった。

今回、複製品を見て、ますます「本物のフェルメールの絵」を見たくなった。

来月フィラデルフィアに出張するついでに足を伸ばしてニューヨークかワシン

トンで何枚か見てこようか。

ついそんな気持ちにさせられた展覧会だった。

2012-03-10

同音連打についての雑想(1)

自宅の楽譜棚を漁っているとスカルラッティニ長調ソナタK.435の楽譜

出てきた。昔、ちょっとだけ譜読みをしてちゃんと弾かずに放り出していた

ものだ。久しぶりにピアノで触ってみているうちに記憶が蘇ってきた。

この曲を始めて耳にしたのは15年ぐらい前。

ロシアの巨匠ニキタ・マガロフが来日して東京リサイタルで弾いたのを

テレビ放送で聴いたのだ。

どんな曲かというとこんな曲である。

(生憎、ピアノで演奏したYouTubeがなかったのでこの動画はチェンバロ演奏で

 あるが。。)

スカルラッティ ソナタニ長調K.435

チェンバロ演奏:スコット・ロス

スカルラッティはスペイン王室お抱えの音楽家で生涯に555曲のソナタを書いた。

そのどの曲もチェンバロのためのもので、同音連打が多いこともその特徴のひとつ。

例えば、このト長調ソナタなどもそうだ。

スカルラッティ ソナタト長調K.455

ピアノ演奏:ユジャ・ワン

同音連打はピアノの基本的なテクニックの一つで、普通に習っていくと学習者、皆が

大嫌いなツェルニー練習曲で必ず練習させられる。

これは僕もレッスンでやったツェルニー50番の35番の練習曲

速い同音連打を行うには、ピアニストのアスリート的素養(反射神経、運動神経)と

訓練はもちろん必要だが、それに加えてピアノのアクション機構のシビアな調整が

必要となる。

さて、スカルラッティの曲の同音連打はいろいろあれど、とにかくこれは凄い!と思う

のが、このアルゲリッチの演奏だ。

これは人間業を超えている。

それでいて詩情が失われていないのはすごい。

スカルラッティ ソナタニ長調K.141

ピアノ演奏:マルタ・アルゲリッチ

ところで、ニキタ・マガロフの演奏はどうだったろう?

記憶は定かではないけれど、それほどのスピードではなかったような気がする。

そのかわり、風格というか巨匠風味はたっぷりと感じられた。

僕もひとつ、味のあるK.435を弾けるよう練習してみるか。