第79回 若葉の薫る5月 京のまちは王朝絵巻の葵祭

  花吹雪が舞う京都の東山は5月を前に麓から薄緑に衣替えする。山頂へ向けて萌黄が駆け上る頃、京は祭の季節だ。葵祭清少納言枕草子「4月、祭の頃」の項で若葉の都を綴っている。
  『祭 の頃はいみじうをかし(ことのほか趣きがある)。木々の木(こ)の葉、まだいとしげうはなうて(茂っていない)。わかやかにあをみたるに、霞も霧もへだて ぬ空(澄み切った初夏の空)なにとなくすずろをかしき。すこしくもりたる夕つ方、夜などしのびたるほととぎすの遠う、そらみみかとおぼゆるまで、たどたど しきをききつけたらむ(人目を忍んでいるホトトギスの遠く鳴く声を聞いた)。なに心地かはせむ(言葉や筆に表しがたい気がする)』
           ホトトギス
  そ の声はキョ、キョ、キキキキヨスという人もあれば、ホットキキョスと聞く人もいる。野鳥の本にはテッペンカケタカの紹介文がのるが、時鳥の名もあるように 初夏に日本へ渡る鳥で、早朝に鳴くが、夜にも鳴くことから歌に詠まれ、特に初鳴きを「忍音」(しのびね)として珍重した。清少納言と同時代の和泉式部は忍 び音を聞くため徹夜する歌を詠んでいる。
     時鳥の世に隠れたる忍び音をいつかは聞かんきょうも過ぎなば
  目 に若葉、耳にホトトギスの季節の移ろい。葵祭は盛り上がった。この祭は平安京以前の山城の国、賀茂一族の勇壮な祭だった。聖徳太子の祖父、欽明天皇の頃、 雨、風に見舞われ、飢饉が襲い、これを鎮めるため、旧暦4月の中酉の日、馬に鈴をかけ、人は猪頭をかぶり、馬の駆け比べしたところ風雨が治まったことか ら、朝廷とのつながりが生まれた。
  平安京になり、嵯峨天皇桓武天皇次男)の819年(弘仁10)、恒例祭祀に準じた国家行事になった。嵯峨天皇の即位後、薬子の変とよばれる兄の平城上皇 が弟の嵯峨天皇に反旗を翻した政変劇が起きている。都を平城京へ再遷都しようとした平城上皇に対して嵯峨天皇が拒否して迎え撃ち、平城側は挙兵するもあっ けなく降伏した事件である。
  薬 子の変とは、平城の愛人であり、義母(長女が平城の宮女)にもあたる藤原薬子後宮を支配し、平城をそそのかして遷都を迫ったという日本後紀桓武以降、 平安初期の正史)の記述によっている。薬子は挙兵失敗後、毒をあおり死ぬが、平城は剃髪して権力の座を降りた。この薬子の変の鎮圧に加勢したのが賀茂族と いわれ、賀茂別雷神社(かもわけいかずち)、賀茂御祖(かもみおや)両社は朝廷の崇敬を受け、祭は国の祭祀に格上げされたのである。嵯峨天皇の皇女は斎王 になり仕えた。
  以 来、祭といえば葵祭を指し、源氏物語では斎院に供奉して参拝の光源氏を見るため、葵の上と六条御息所(みやすどころ)の牛車が加茂川で鉢合せ、六条側の車 が傷つくもようが描かれる。時代は下り、鎌倉時代になると、徒然草は見物のにぎわいを戯画風に書いた。『さようの人(ここでは月や花見でさわぐ田舎者)の 祭見しさまはいとめずらかなりき』と前置きして、見物席に見張りをたて、行列が来るまで酒など飲み、連絡があると押しかけ、わめいて見物する姿を描写した。さらに夜明けとともに見物人がつめかけ、車の人物が誰かと云い合い、供のものに知り合いの姿をみつけて我を忘れている、と。
  映画祭のスターに憧れるフアンの群れよろしく、さながらレッドカーペット中継である。
  祭 は御所から上賀茂、下鴨神社までの行列、路頭の儀がハイライトであるが、祭は前儀から社頭の儀まで20日あまり続く。葵祭の名は御所の御簾、勅使以下 500人余の行列、馬、牛車、輿にいたるまで葵の葉を衣冠に飾り、歩くことから付いた呼称で、応仁の乱後の中断されていた行列が江戸時代に再開されてから だ。その前は祭、賀茂祭と呼ばれていた。葵には桂の葉がつくのは意外に知られていない。
           葵祭の行列
  葵 (フタバアオイ)は賀茂川の源流、北山に自生するつる草。ハート形の葉が特徴で、根元から双葉がのびる。上賀茂、下鴨両社の神草として紋になっている。な ぜ葵なのかは諸説あり、葵を女、桂を男に見立てて、子孫繁栄の祈願説などである。私が20代の記者の頃、採取する地元民を取材したことがある。老人が一人 で山へはいり、こつこつと葵を摘む姿に見とれ、「わしの祭は葵摘みですわ。納めたら、祭が終わる」と、語った言葉が耳に残っている。
  フ タバアオイは、北山に数多く自生していたが、昨今はマニアらの乱獲もあり、激減している。両神社は境内に植えるなど保護に努めているが、祭に使う葵は1万 本をくだらず、それも路頭の儀直前に採取する制約から必要量の確保が困難になっている。両社は保存に乗り出し、葵プロジェクトとして地元小学校生らに栽培 委託している。下鴨地域には葵小学校がある。
           フタバ葵
  前 儀の5月3日は下鴨神社流鏑馬。祭の平穏無事を祈り、道中を祓い清める意味がある。境内の馬場には仕切りの埒(らち)ができ、終わると規制を解くが、こ とわざの「埒があかない」の語源になっている。全長500㍍の馬場に馬を走らせながら3つの的(50㌢四方)を射る。騎手は馬上で「インヨー(陰陽)」と 掛け声を発し、的板は縁起物として人気が高い。
  4 日は斎王代の御禊の儀。平安時代は皇女が斎院で奉仕したが、鎌倉期に廃止され、1956年に斎王行列が復活したのにともない、民間の未婚女性が斎王代とし て参加している。今年は京都出身の東京の聖心女子大生が選ばれた。上賀茂、下鴨両社が1年交互に禊の場になり、両手を水に浸して身を清め、女人列の40人 も加わるが、新緑に映える境内の平安衣装はまぶしいばかりだ。
           斎王代の禊
  5日、上賀茂神社で競馬(くらべうま)。古代から続く馬の神事ではかつて野生の馬が使われ、馬には能登国加賀国など荘園の名がつき、美作国名の馬がひときわ豪華な馬装で登場するのが決まりだ。
           競馬(うまくらべ)
  12 日、下鴨神社の御蔭祭(みかげ)。比叡山麓の御蔭山に降臨の祭神の荒御魂(あらみたま)を下鴨神社の和御魂(にぎみたま)と合体し、祭神の蘇りの儀式であ る。下鴨神社の祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、父は賀茂建角身命(かもたけつぬみのこと)。平安京以前から山城国で勢力を誇った賀茂氏の祖に あたり、桂川沿いの秦氏と勢力を2分していた。山城国風土記奈良時代編纂)逸文釈日本紀)によれば、ある日、川遊びしていた玉依媛が流れてきた丹塗の 矢を拾い、持ち帰ったところ、子どもができた。この子どもが上賀茂神社の祭神、賀茂別雷大神で、下鴨神社は親神にあたる。玉依媛命は父親の建角身命よりも 格上にあり、御蔭祭も玉依媛が主役である。おそれながら、かしこみかしこみ、勝っ手なる解釈を許されるなら、一年一度、男女の神が出会い、精を受ける神事 といえばわかりやすい。平安期に律令制による宮中の行事になった葵祭は、約束事多く、堅苦しくなったが、この御蔭祭は律令以前ののどかで、おおらかな祭の 様式を伝え、神々の出会いを喜ぶ古代人の姿が行列や舞に投影され、見るものを古の時代に誘う。
           あずまあそびの舞
  上 賀茂神社では12日深夜、神山に別雷神が降臨する御阿礼(みあれ)祭が営まれる。上賀茂神社で最古の重要神事にあたり、神職は外部に話すことも禁じられて いる。別雷神は玉依媛から生まれた後、成人し宴席で祖父が「そなたの父は誰か。父と思うものに盃を捧げよ」と問い質すと、盃を空に投げて、「われは天神の 皇子」と天にのぼり、こう告げる。
     われに会わん。葵桂のかずらで依り、馬を走らせ祭をして待てば来む
  神 話であっても、父親のわからぬ孫に祖父が問いただすところは、いかにも人間臭い。川で妊娠といい、宴席の中から娘をはらませた男を探す神話は、まことに あっけらんかんとしている。葵祭の本番は15日であるが、出来るなら12日から京で祭見物を勧めたい。路頭の儀が近づく14日、滋賀県びわ湖畔の堅田か ら琵琶湖でとれたフナ、コイ、鮒鮨奉納の堅田供御人の行列が出発する。祭の食饌の魚だ。この行列は近年に始まるが、食饌の魚を下鴨神社の御厨であった堅田 から届ける見返りに、税の免除や湖上の航行権が与えられた。下鴨社の鮎は長良川、上賀茂社は琵琶湖畔と産地が決まっている。神社では神々の食事、食饌づく りが夜を徹して行われる。
           食饌
  火を通し、包丁を入れるものを熟饌といい、米、野菜の調理は大炊殿、鳥・魚は供御所でするのが決まりである。前日に食材を運び込むが、清澄さが絶対条件になっていて、清らかな火、水、器が欠かせない。
  ではどんなものを召し上がっていたのか。ご飯、塩、お汁、干し鯛、打鮑、餅、詔陽魚(ゴマメ)、鮎、鰆、海老などが本膳に並ぶ。下鴨地域には膳部(かしわべ)町という町名が残っているが、かつて食饌を調理した世襲の人たちが住んでいた。現在は神職、社中が総出であたる。
  本 番の路頭の儀は15日、騎馬隊に先導され、御所から上、下両社までの8㌔を歩くが、御所での見物が観光客に人気あるものの、葵祭には下鴨神社境内の糺の 森、上賀茂神社に向かう賀茂川堤の風景がぴったり合う。午後の陽光を受け、若葉の下を歩く行列は、人馬とも疲れもあり、緊張感なく、なごやかなことこの上 もない。上賀茂神社には午後4時前に到着して社頭の儀、勅使による御祭文の奏上で長い一日が終わる。
  す でに陽は西に傾き、賀茂堤のにぎわいはまばらになっている。祭の余韻にひたり、賀茂川沿いを一人歩きする気分は、感傷的というか寂しさも交じり、味わい深 い。私には小学校の運動会が終わり、帰路の道筋で感じた寂寥感にも似ている。運動会前の学校は練習の繰り返しで宿題もなかった。腕白たちには最高の祭だっ た。それが明日から勉強、先生の「気持ちを切り替えて勉強だ」のあいさつがずしり、胸にこたえた。
  徒然草吉田兼好は、さすが、祭のあとの心境をあざやかに綴っている。
  ― 日が落ちて黒山の人も去り、目の前がさびしくなり、永遠のものなどなにもない、とはかない気持ちになる。終日、大通りの移り変わりを見るのが祭見物なの だ。人たちがみんな死んでしまった後に自分が死ぬ運命であったとしても大した時間も残されていない。『大きなる器に水をいれて、細き穴をあけたらんに、滴 ること少しといふとも、怠る間も洩りゆかば、やがてつきぬべし』―
  徒然草の随筆から200年後、英国の詩人、ジョン・ダンは、波に洗われる土を人の死になぞらえて、詩にした。『for whom the bells tolls it tolls for thee』。
  「誰 がために鐘はなる」の訳で知られる一節は、ヘミングウエイの小説の巻頭詩になった。要約すれば、何人も孤立した島ではない。いかなる人も大陸の一片であ り、一塊の土が海に流されても、誰かが死ぬのもこれに似てわが身を削られるのも同じ。なぜなら自分も人類の一部のだからー。
  ヘミングウエイは、スペイン内戦における男女の恋と別れをテーマに、戦場の兵士の死は、我々の死にほかならぬ、と書いた。
  吉田兼好もまた、葵祭の項の終わりに、『閑なる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや。その死に臨めること、軍の陣に進めるに同じ』と結んでいる。
  時代、国境、民族の違いはあっても時空をこえて死をみつめる人の心には通い合うものがある。ジョン・ダンは波に洗われる孤島の石に、兼好は祭後の人のいない通りに、人間の死、無常の世を見たのだった。世界で弔鐘が鳴り続けている。
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