第119回 江戸の奇想の画家・若冲を歩く

  日本画の因習を破ったユルキャラの元祖〜

  10年前、2006年のことである。東京国立博物館は長蛇の列が続いた。「若冲と江戸絵画展」の入場者は主催者も驚く1日6500人に達した。英国の美術専門誌は一日の入場者として世界NO1 の展覧会と紹介した。今年は若冲生誕300年を迎え、全国の美術館は関連イベントを組んでいる。いまや最も人気のある江戸の画家である。狩野派尾形光琳琳派の伝統絵画の殻を破り、絵の構成、筆のタッチなど写実と想像の世界を組み合わせた奇想の画家の評価を受け、フアンは若者から高齢者まで幅広い。特に 描かれた動物は戯画風でユーモアがあり、ユルキャラの元祖とまでいわれている。
  京都の台所、錦通りの入口に動物絵のバナーがかかっている。若冲は錦の青果卸商「桝源」の長男として正徳6年(1716)2月8日に生まれた。時代は徳川吉 宗が8代将軍に座り、享保の改革を始める転換期。「桝源」は生業のほかに地代、家賃の不動産収入もあり、錦小路の大店だった。若冲は父の死にともない23 歳で4代目伊藤源左衛門を継ぐ。商家の主人としての仕事の傍ら趣味の絵画の世界に身をおいた2足わらじは、弟子入りして学んだ当時の画壇にあって異色の経 歴である。
          
  錦小路商店街は「若冲」をまちづくりに取り込み、バナーやモニュメントを商店街に飾っている。生鮮品の町に絵画のモニュメントはいかにも京都らしい。文化を 商いに活用している。若冲は趣味として狩野派の絵師から絵画を学び、あとは独学で宋元画の模写を繰り返したあと、真似の限界を知り、動物や植物を描いた。対象を昆虫、魚まで広げ、独特の画風を確立してゆく。錦の家の窓下に数十羽の鶏を飼い、何年も写生に費やした。若冲の作品で制作時期がわかるもっともはやい作品は『松樹番鶏図』で、[壬申春正月]の書き込みから若冲37歳の作になる。壬申は宝暦2年(1752)にあたり、この作品を基準に研究者は制作年を想 定し、ぶどう、いんげん豆、とうもろこしなどを初期作品にしている。
  錦の青果商ならではの作品は「野菜涅槃図」。釈迦の入滅のようすを描いた涅槃図になぞらえて野菜や果物を配置したユニークな絵画は若冲の独壇場である。若冲 は一時、錦の世話役年寄を任され、奉行所との折衝にあたっている。任期中に五条問屋街のよこやりで錦閉鎖の沙汰がくだり、農家、商店を含めて閉鎖撤回の運 動を展開した社会派の一面を持ち合わせている。
          
  40歳で家業を弟に譲り、画業に専念して独立不羇の画風に磨きがかかった。48歳の時、売茶翁・高遊外の知己を得て数少ない肖像画を描いている。高遊外は佐賀に生まれ、13歳で宇治の黄檗宗萬福寺で修行、22歳の時、東北各地を遊歴し、61歳で茶店を開き、81歳まで自ら煎茶の道具を担いで京の町なかを歩いて 茶をふるまっていた。若冲は高遊外の人生感に心打たれ、尊敬していた。千利休の茶道でなく形式にこだわらない茶の味わいこそが遊外の茶の世界であった。こ れは狩野派尾形光琳らの絵画流派に属せず、独自の絵画の世界を目指した若冲にとって、遊外の生き方は画の道にも通じるものがあったのだろう。
  遊外は若冲の『動植綵 絵』全30幅を見て感嘆し、交遊を深めた。遊外は「丹青活手妙通神」の賛辞を贈り、心にしみいる絵画と評している。若冲は遊外の辞を印に刻んで愛用してい た。晩年、水墨画の画料にわずかの米をもらい斗米翁と称していたのも売茶翁の姿を自らに重ねていたからだ。『動植綵絵』は動物、植物を写実と想像で描いた 若冲の傑作で、相国寺に納められると、当時から評判を呼び、年一度の観音懺法会には絵を見たさの参拝者が列をつくったという。しかし、明治維新廃仏毀釈により相国寺が困窮し、皇室に献上されたのちは皇室行事や外国の賓客の接遇のさい、飾られてきた。宮内庁病院の医師で若冲画を研究の赤須孝之医師は若冲を 美の巨人、知の巨人と呼び、先見性からレオナルド・ダ・ヴィンチに比肩した。
  赤坂医師は若冲が京で興隆しつつあった博物学に接し、かつ禅宗に帰依していたことを作風の背景にあげているが、一度、若冲に遭遇すればフアンになる絵の真髄 は因襲を破った手法にあるというのが研究者の一致した見解である。現代の若者たちが若冲の画を前にしてため息でなく、歓声をあげるほど斬新で、ユーモアー に富んでいる。若者はアニメやユルキャラを見る目で若冲画に接し、絵画展にない笑いの渦をつくった。
          
  私が若冲に遭ったのは四国・金毘羅宮取材の奥書院の間「花丸図」である。200点余の花が上下左右に整然と並び、モダンで幾何学的、図鑑的な構成に見とれて しまった。まさにこれが江戸の画家と、目を疑った。京都国立博物館所蔵の『百犬図』は毛のもようが異なる子犬を描いているが、図鑑の面白みと、アニメを見 る楽しさがある。この絵が85歳の作品と聞いて、驚かない人はいないだろう。
  当時の京でも若冲の画はすでに人気を集め、人気物ランキングの平安人物誌の画家部門で円山応挙に次ぐ2位を占めていたが、明治以降、画壇から忘れられた存在になり、好事家の鑑賞にとどまっていた。江戸時代の大衆的人気は影をひそめている。江戸時代の京町衆の美的センスは、現代人をはるかにしのいでいた。スポ ンサー好みの画風よりも、絵の好きな住民たちが求める多彩な絵画を生みだした。
  若冲の再評価は大正15年(1926)、美術史専門の元東京帝室博物館学芸課長秋山光夫が『動植綵絵』の展覧会を開催したのが、一般を対象にした最初の展覧会になった。若冲に大正の残光あたるも、軍国主義の世は、再び影をさし、戦後まで若冲が話題になることもなかった。
  1953 年(昭和28年)ニュヨーク。パイプラインの接続技術で財を成した実業家を父に持つ青年が帝国ホテルの設計などで著名な建築家フランク・ロイド・ライトの案内でマデイソン街のある店を訪ねていた。ジョー・D・プライス24歳。東洋美術の店に掛け軸が下がっていた。作品名も作者も聞かないまま、青年は即刻、 買い求めた。ベンツ車を買うため、ホテルに置いてきた金を取りに行くほどの衝動買いである。
  美術品などの世界では出会いがすべてというが、手持ちがなく、あるいは価格でためらい、後日、買い求めると、すでに売られていた例は多い。これが世界的有名 な若冲プライスコレクションの始まりになった。東洋美術に関心もなかった青年の心をとらえた若冲画は後に京都で妻となる日本人女性との出会いをつくった。
  当時の金で600ドルというから現在の円価値に直せばン百万円になるだろうか。しかし、いまでは億の値がつく若冲画からは想像もつかない掘り出したものになる。投機目当ての美術品は失敗することはバブル破綻で多くの日本人が経験したから、出会いの大切さを教えるエピソードだ。5年後、知人の持つ若冲大正展覧 会図録を見たプライスは画に魅せられ、くだんの店で若冲画を注文したところ、あなたはすでに持っているではないか、と、いわれこの前買った画が若冲の『葡 萄図』と初めて知った。
          
  父親の会社を手伝っていた青年はビジネスに疲れ、ヨットで旅に出かけ、日本に3カ月滞在した。京都での通訳が後の悦子夫人。鳥取から京へ出て、体をこわし大学休学中の悦子は友人から頼まれ、「変な外人」の通訳を引き受けた。東京オリンピックで再会した二人は結婚する。悦子夫人の協力でコレクションは京の細見美術館と並ぶ若冲コレクションになった。宮内庁京都御所で行う秋の曝涼(書画の虫干し)に招かれたプライスは若冲の『動植綵画』を食い入るように見つ め、涙した逸話が残っている。
  日本人美術家の間でも若冲が話題になっていく。東京オリンピック後の大学紛争時代である。辻維雄東大教授(美術史、現名誉教授、ミホミュージアム館長)が若冲長沢芦雪歌川国芳ら6人の江戸の画家を『奇想の系譜』にまとめてとりあげた。因襲の殻を破った画家たちの再評価は評判を呼んだ。舞台でいえば脇役に甘んじる評価を受けていた画家を主役にした本は、美術界の因襲を打破する試みだった。学生たちが世直しを叫び、ぶつかっていった風潮と、無縁ではない。
  2000年、京都国立博物館で開催の「没後200年 若冲」は会期後半から入館者が急増し、列をつくった。新聞社に関係ないため、宣伝もなく、マスコミは若冲に無関心だった。これが若冲にたいする当時の世間の目である。ところが後半から入館者の列ができていく。しかも日本画と縁の薄い若者の姿が目立った。新聞が紹 介しない展覧会はインターネットで広がり、たちまち若冲ブームを起こした。さらに2006年、日本経済新聞社主催でプライスコレクションの「若冲と江戸絵 画展」が東京国立博物館で開かれ、爆発的な人気を集め、入場を待つ列が延々と続いた。新聞雑誌の既成メデイアの殻を突き抜け、口コミとインターネットで存 在を明らかにした若冲絵画。まさしく奇想の展覧会を催したことになる。
  京都伏見区深 草の黄檗宗石峰寺(せきほうじ)。伏見稲荷大社の南にある寺はゆるやかな坂をのぼり、寺の門前から振り返れば京都駅、東寺が遠望できる。深草は淀川水運の 交通の要衝にあたり、大阪と京を行きかう人でにぎわった。若冲を訪ねた文人、画人も多かったにちがいない。本堂南に若冲の墓があり、毎年9月10日には若 冲忌の法要が営まれる。若冲はここを晩年の住まいにし、庵で85歳の生涯を閉じた。土葬され、法名は「米斗翁若冲居士」。遺髪が菩提寺の宝蔵寺と相国寺に 埋められた。
          
  石峰寺境内には500体余の石仏が表情豊かに並んでいる。若冲は10年がかりで描いた下絵像を石工に彫らせ、その数は千をゆうに越えたというが、かなりの石仏が流出している。
  若冲の暮らした庵の跡地に立って若冲をしのぶ。錦生家も幕末に廃業している。85歳といえば、昔なら超のつく長寿である。同い年の与謝蕪村若冲より17年 前、世を去っている。現在の景色から若冲の毎日見た風景をたぐり寄せるのは遠すぎて無理がある。しかし、木漏れ日が陰影をつくる石仏の顔はまぎれもなく若 冲の心を刻んでいる。

          
  【メモ 2016年の若冲
  生誕300年の本年は記念展が各地で予定されている。昨年から継続しているのは東京渋谷広尾の山種美術館の「ゆかいな若冲めでたい大観展」。1月3日から4月10日まで開催。若冲の「ふぐと蛙の相撲」が笑いを誘う。
  本年の美術界の話題を独占しそうなのが4月22日から5月24日まで東京上野の都美術館の「若冲展」。 若冲の代表作をそろえ、若冲展の決定版の前評判が高い。宮内庁所蔵のため、展覧が限られていた代表作「動植綵絵」30幅すべてが展示されるのが話題。群鶏 図など動物、植物が克明に、大胆に描かれている。会期が1カ月と短く、主催者側は混雑を予想して対策を練っているが、主催する側も鑑賞する側も頭が痛い。
  静岡県立美術館は「東西の絶景」のタイトルで若冲・大観、モネ・ゴーギャンの作品を並べる東西の巨匠の対決。4月12日から6月19日まで。企画の面白さもさることながら、モネ、ゴーギャンと比肩する若冲作品は楽しみ。
  若冲コレクションで定評のある京都岡崎の細見美術館は6月25日から9月4日まで「伊藤若冲」開催。

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