劇団フライングステージ第42回公演『Family,Familiar 家族、かぞく』『Friend,Friends 友達、友達』(2016/11/05 下北沢OFF・OFFシアター)

同性カップルの結婚に相当する関係を認める渋谷区の条例や世田谷区の要項が相次いで成立し、同性愛者、結婚、家族をめぐる制度にとってひとつの節目となった2015年。その2015年の11月、今からちょうど1年前に上演された『Friend,Friends』と、その物語の登場人物達のその後を描いた続編『Family,Familiar』。今回、物語を時系列に追う形で『Friend,〜』から『Family,〜』という流れで観て、制度ではない「家族」の本質というようなものを『Family,〜』の中にいくつか感じた。


1.ただくっつくこと
『Family,〜』は、『Friend,〜』でパートナーシップ証明書を手に入れたゲイのカップルのその後も含めて、家族というものに対する懐疑的なまなざしをも含みつつ、どの家族のあり方(独身者も含めて)も否定しない温かさに貫かれていた。それは、セクシャリティや年齢、立場によらず、どの登場人物も自分の幸福を追うことに率直だったからだと思う。その率直さは「エゴイスティック」と表すこともできるのかもしれないけれど、自分にも他者にも犠牲や罪悪感を強いることなく「家族」であろうとするということは、こういうことなのかもしれないと思った。
パートナーシップ証明書を得て晴れて「結婚」したゲイのカップル(雅人と尚之)が、「別れた」後も制度としての「パートナーシップ」は解消せずにその証明書を持ち続ける(しかも、それをゲイの青年の両親が望む)姿は、制度としての結婚の持つ両義性(愛の証明/関係維持装置)を浮かび上がらせつつ、それも呑み込んで共に生きようとするしたたかさとしなやかさを感じさせた。
その一方で、同居しながらも自分達の関係を保証する公的な書類を作成せずに死別したもう一組のゲイのカップル(耕司と二朗)の、パートナー亡き後も(亡き後にこそ)自分達の愛を自分にも相手にも周囲にも説明し続ける姿は、苦しくもあるけれど純粋で美しかった。中学生の体を借りて、パートナーである恋人の二郎に自分の思いを伝えに来た耕司(故人)が、二朗を抱きしめるうちに心が満たされ伝えたいことを忘れてしまうその姿は、「結婚」や「家族」といったことのもっとずっと手前にある、「共にいること」の原初性を体現しているようだった。
ただくっついていたい、ただぬくもりを感じていたい――それが始まりであり、そこに「結婚」や「家族」という制度が介在してもなお、人はそこに辿りつこうとしているだけなのかもしれないということ。


2.魚肉ソーセージと玉ねぎと…
さまざまなカップル、家族の物語が交錯し合う『Family,〜』のなかで、ハイライトは、急に一緒に暮らすことになったレズビアンカップルの子ども(母親の連れ子同士)の雄太とひかりが、二人だけで料理を作る場面だった。その料理は、魚肉ソーセージと玉ねぎと卵を炒めて焼肉のたれで味つけして、ご飯にのせたもの。料理を作り食卓に並べ、食べるという一連の所作が、暗い光の中ほぼ無言で、映画の長回しのように展開されたこの場面は、自分自身の選択というよりは親の都合で「家族」となった二人が、自分達の意志で歩み寄り、共に暮らすことへと一歩踏み出そうとした場面だと感じた。
家族を象徴する食事や食卓。この物語の中でも、すき焼き、手巻き寿司、バーベキュー、いも煮と、母親やその知人達が二人の子どもに食べさせる料理はいくつも出てきた。けれど、その中でほぼ唯一、ともに食卓につき、ともに箸を口に運ぶ姿が描かれたのがこの場面だった。そして、それが劇中で最も幼い二人の、子ども同士の食事の場面だったことに、いろいろなことを考えさせられた。
母親から「何これ?」と言われた魚肉ソーセージの料理。それは、名前のない、料理とも呼べない料理ではあるかもしれないけれど、不器用ながらも自力で自分と他者を満たそうとし、それを分かち合おうとすることにこそ、「家族」というものの根っこがあるような気がした。だから、雄太が魚肉ソーセージの料理に大量のマヨネーズをかけるのを見て、一度は「いらない」と言ったマヨネーズを「ちょうだい」と求めたひかりの姿に、彼らが「家族」となる未来を予感した。


3.ずうずうしい親
これまで劇団フライングステージのお芝居に登場する「ゲイの家族」というと、「同性愛者の子どもを持つ親」だった。それが今作で初めて「同性愛者の親を持つ子ども」が登場したところに、この20年間の日本における同性愛者を取り巻く状況の変化と、それに寄り添い考え続けてきた主宰者の関根さんの一貫した姿勢と、劇団フライングステージの歴史を感じた。そして、初めて登場した「同性愛者の親を持つ子ども」達の姿を、その心の揺れ動きを、丁寧に描いた点に『Family,〜』の一層の奥行があったと感じた。
中学生の雄太と大学生のひかりを育てる友里も英子も、常に子どもと対話し、子どもを思う優しい親である。けれど、引っ越しにあたって友里は「学区は変更しないようにするから」と言いつつも、経済的な事情で結局は雄太の学校区を変更せざるを得なくなる。また、転校先の中学校で雄太が同性婚の親を持つ子どもであることをからかわれて不登校になった時に、友里はクラスメイトの前で自分達家族のあり方を説明すると担任に申し出る一方で、担任に指摘されるまで雄太との時間をより増やすことには思い至らない。ひかりが父と離婚したことを母親に詰め寄る場面で、「愛していたのよ」「仕方なかったのよ」とひかりに説明する英子の姿は誠実ではあるけれど、子どもにとってはやはりそれは「親の都合(エゴ)」なのかもしれないと思った。自分達の老後のために、ゲイの息子の代わりに留学生を自宅に住まわせようとした(結局は息子の友人の甥を住まわせることにした)雅人の両親も含めて、物語に登場する親は皆、「子ども」の立場からすると、善人ではあるけれどどこかずうずうしい感じがした。そのことに親自身が無自覚であることも含めて。
批判しているのではない。そのセクシャリティに関係なく、親というものは本質的に子どもにとって「ずうずうしい」存在なのだということ。と同時に、自己犠牲を装って子どもに献身することで子どもを縛りつける親よりも、自分の幸福を追求しながらずうずうしく存在する親の方が子どもにとっては有り難いのかもしれないと思う。親のずうずうしさを梃子に、自分自身の欲望にも素直に向き合い、ずうずうしい親の膝の上から飛び出す権利が、子どもである彼らには保障されているのだから。


4.「問い」としての家族
2つのお芝居を見て、「家族」とは「問い」なのだと感じた。愛情や血縁、戸籍といった「答え」を持つことで家族になるのではなく、それらの「答え」を問い、それらの「答え」から問い返されることが家族であるということなのかもしれないと感じた。その意味で、「家族」とは、完成形の見えない、永遠に描きかけの何か、建築中の何か、なのかもしれない。にもかかわらず、もし「家族」に答えがあるとするならば、その答えは「答えは一つではない」ということなのだろうとも感じた。

『Freind,〜』とともに『Family,〜』でも、中嶌聡さんがとても印象的だった。さまざまな役で登場するたびに、その役の色とともに舞台の空気が変わるようだった。特に、耕司として舞台監督としてセリフはなくとも、糸がこんがらがるように複雑に展開する物語を見守る姿が印象的だった。それと、石関さんの横顔の美しさと、関根さんのホームヘルパー姿(鉄板)。


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