ブログトップ 記事一覧 ログイン 無料ブログ開設

歴史上の人物の考察 RSSフィード

歴史関連のブログは、こちらをクリック→歴史ブログ人気ランキングへ

2012-05-28

保元の乱

18:36 | 保元の乱を含むブックマーク 保元の乱のブックマークコメント

今晩の平清盛は「保元の乱」か。

予告編を観ると、鎮西八郎為朝の強弓が炸裂するようで楽しみだ。

保元物語」は為朝の絶倫の武勇を称える話で、一方の清盛はその強弓を恐れて、為朝の守っている門を迂回する様を、滑稽に描いている。それは「平治物語」が鎌倉悪源太義平を主役にしているのと同様に、鎌倉時代に書かれた書物だからどうしようもない。司馬遷の史記も全編を通して客観的な視点で書かれているが、漢祖の評価が著しく甘いのと同様だ。

「保元の乱」の平清盛も、平氏の頭領として恥ずかしからぬ働きがあったのは間違いはないと思っている。



f:id:aya_natu:20120528102420j:image:w360

2009-01-15

生類憐みの令

19:07 | 生類憐みの令を含むブックマーク 生類憐みの令のブックマークコメント

f:id:aya_natu:20090115185326g:image

   徳川綱吉


 「天下の悪法」と言われました。

徳川五代将軍綱吉の治世で行われた生類憐みの法令のことですが、綱吉の評価と共に、最近は見直されようとしています。

よく知られているこの法令の成り立ちですが、綱吉に世継ぎが出来ないことを心配した母桂昌院は、絶大の信頼をおいていた護持院隆光に相談したところ、子が出来ないのは前世で行った殺生が原因なので、特に戌年生まれの将軍は犬を大切にするようにと進言されました。桂昌院は隆光に深く帰依していましたので、早速綱吉に提案すると迷わず従い法令化したそうです。以後、飼犬に限らず野犬に至るまで傷をつけたり、殺したりすれば、厳しい処罰が待っています。庇護するものは犬のみならず、馬・猿・鳥類・虫にまで及び、それぞを法令化して取り締まり、庶民は野犬が子供を咬んでも追い払うことができず、食料の為に鳥獣を捕ることもできず大変苦しんだそうです。時代劇では、立派な駕籠に乗った犬を庶民が土下座している様子が描かれているものもあります。

また大手出版社の大学受験の参考書にも

「特に犬を殺傷したものは厳罰に処すという悪法と化し、民衆生活に重大な悪影響をおよぼした。」

という内容で記載されています。

 さて、以上が一般的に知られている「生類憐みの令」ですが、近年の研究では、これが相当に誇張されているのではないかと言われています。そもそも成り立ちから疑問で、この法令が出た貞享四年(1687年)には、まだ隆光は和州長谷寺の住持で、江戸に召し出されていないというのです。アリバイが本当で、隆光の発案でないなら、何を根拠にこの法令が発せられたのでしょうか。


 徳川綱吉は篤学の人物でした。幼い頃から桂昌院に学問を勧められ、その教えを守り、将軍になってからは諸大名に経書の講義をするまでになります。特に孝道を儒教から学び、多いに感化され、桂昌院への孝行ぶりは大変有名です。「上の好む所下これよりも甚だし」ですから、諸大名、諸旗本も武芸はそっちのけで勉強をするようになりました。それに因って林信篤をはじめ、新井白石、室鳩巣、荻生徂徠などの高名な儒学者を大量発生し隆盛を極めます。

 そもそも綱吉が考える生類を憐れむ心は、儒教の仁愛、慈愛の精神に基づいています。この法令も犬や動物ばかりが有名ですが、実際には社会的弱者や貧者を保護することが目的でした。その内容の一部には次のようなものです。


「一、捨子これ有り候ハゝ、早速届くるに及ばず。其所の者いたハリ置き、直ニ養候か、又ハ望の者これ有り候ハゝ、遣すべく候。急度付届に及ばず候事」

「御当家令条」巻三十三  貞享四年

訳:捨て子は見つけても直ぐに届けないでもよい。そこに居た者が自ら養うか、望む者は養子とせよ。よいか、重ねて申し付けるぞ。


当時は捨子が大変問題になっていたので、捨子や子殺しを防止するために、妊婦と七歳以下の子供を登録させました。また乞食や流民についても、役人が保護する義務を規定したともあります。この令状の最後にはこうもありました。


「一、犬ばかりに限らず惣じて生類、人々慈悲の心を本といたし、あはれみ候儀肝要の事」

訳:犬ばかりでは無く、人々は全ての生類へ慈悲の心で憐れみをほどこすことが必要である。


綱吉の仁愛の精神はお解りになると思います。それでは何故、これほど評判が悪くなったのでしょうか。幾つかの原因が考えられますので三つ書きます。

一、これだけの法令を取り締まるためには、役人たちの仕事を増やさなければならないので、それを快く思わない者が悪評を流した。

一、将軍の権力が強大だったため、迎合した役人たちが拡大解釈をして違反者を厳しく罰しすぎた。

一、将軍近習の権力争いの争点に利用された。

 伝わっている違反者の厳しい刑罰ですが、些細な事で島流しや追放になった、切腹させられたりとあるのですが、実はこれらの者たちは皆、反逆罪的な意味合いで処罰されており、庶民が生類憐みの令で厳罰に処された事例は、意外なほど少ないとされています。現代でも、良い法令の解釈を変えると悪法になるものもありますし、役人が自分の都合で法令を骨抜きにしてしまう場合もあります。

 

 大坂の役で豊臣家が滅んで七十二年、島原の乱が終わって四十九年。太平の世となり学問は盛んで、文化芸能も現代に伝わるものはほとんどこの頃に出来ています。悪法で暗黒政治が行われる最中に、これほど庶民が豊かに暮らしていたとも思えません。綱吉は武士が日常的に人殺しをする野蛮な時代から、日本を近代文明社会に導く担い手になろうとしたのかもしれません。実際にこの時期、身勝手な武士の「切り捨て御免」は無くなり、幕府は「耳削ぎ」「鼻削ぎ」など残酷な刑罰も禁止しました。私もあらためて、歴史上の人物を先入観で見てしまうと、意外な本質は見えなくなるものだと感じました。

 現代の私たちが「今日は寒いから、晩飯は犬鍋にしよう」とならないのも、徳川綱吉のお陰ということでしょう。



2009-01-12

増山弾正少弼正利

15:14 | 増山弾正少弼正利を含むブックマーク 増山弾正少弼正利のブックマークコメント

f:id:aya_natu:20090112150042j:image

       春日局



 さて問題です。この表題の人物は何者でしょうか?

ヒントは江戸時代、徳川三代将軍家光の治世の人です。


直ぐに解答ボタンを押した人は、相当な歴史通か時代小説のマニアですね。

今回、この増山正利を取り上げた理由は、まさに波瀾万丈、当時としては考えられない立身出世をした人物だからです。勇猛な武将、優秀な官吏、否、どちらでもありません。それでは何故、それほどの出世をしたのかお話しします。

 徳川家光の正夫人は、関白鷹司信房の女・鷹司孝子ですが結婚当初より大変不仲でした。公家から嫁いだ二歳年上の妻を家光が何故嫌っていたかは諸説ありますが、家光の男色趣味が原因というのが有力です。乳母のお福(春日局)は、家光が女性に興味を持たないと世継が出来ないので、大変心を痛めていましたので、自分の縁者のおふりと云う女を家光の枕席に勧めました。大恩あるお福の言うことには逆らえないので、家光も励み、おふりが寛永十四年閏三月五日に千代姫を生むと、家光はお役ご免とばかりに、また男色専門となります。

 ところが突然、家光が自ら女に目をつけました。寛永十六年、伊勢の禅寺で尼寺の慶光院の住職が就任の挨拶で江戸に上がり、家光に拝謁しましたが、家光は一目でこの尼さんが気に入り、お福を呼びつけると

「あの住職が気に入った。なんとかせい」

と言います。よりによって尼さんが趣味とは、お福も腰を抜かすほど驚きましたが、家光がやっと女に興味を持ったのですから何とかしないといけません。お福はこの尼僧をさんざん口説いて、還俗させることにするのですが、髪を剃った尼さんを枕席に侍らせることは出来ません。髪が生え揃うまで田安屋敷に留めてから家光に供し、お万という俗名に変わりました。家光はお万を寵愛すること一方ではありませんでしたが、子が出来ませんでした。一説にはお万の素性が、公家の六条宰相有純の娘であったため、世継を生むと朝廷の勢力が徳川家に伸びてしまうので、堕胎薬を飲まされていたとも言われています。しかし、お万によって家光は女性に目覚めたのですから、お福の思惑は当たりました。


 ある日、お福が浅草観音を参詣している途中、ふと籠の中から一人の少女を見つけて大変驚きました。その少女の容姿や物腰がお万にそっくりだったからです。お福は家光が気に入るのではないかと思い大奥に召し寄せようと、直ぐに供の者に少女の素性を調べさせました。少女の名はお蘭、その時十九でしたが、調べてみると少々問題があります。それはお蘭が死罪人の娘だったからです。

 お蘭の父親は一色惣兵衛といって下総古河(下野国都賀郡高島村という説有り)の百姓でしたが、過って禁鳥の鶴を撃ってしまいました。鶴を撃てば死刑になる大罪です。惣兵衛は動揺しましたが捨てるのも惜しく、日本橋の問屋に相談すると数寄者はいるもので、思わぬ高値で売れてしまいます。貧しい生活をしていれば、違法と知りながらも大金の誘惑には勝てません。ちょくちょく密猟をして江戸で売っていましたが、遂には露見して死罪となりました。

 惣兵衛の家族は「あがりもの」といって、一生奉公の奴隷になり、古河の領主永井信濃守尚政に預けられました。家族は妻と娘二人、末の男の子一人で、娘の姉の方がお蘭です。永井家で妻は奥女中になり、二人の娘も女中、男の子は茶坊主にされますが、故あって奴隷の身分を解放されると、妻は神田鎌倉河岸の古着屋七沢作左衛門と再婚しました。お蘭と妹は連子となって作左衛門のもとに身を寄せますが、男の子の方の消息は分かりません。大方故郷で百姓でもしていたのではないでしょうか。

 お福もお蘭の身上話を聞いて驚いたでしょうが、それでも大奥へ引き取り、お蘭はお福の部屋子となって諸事指南を受けていました。あるとき大奥で、お蘭を田舎者と見くびる朋輩から、在所の麦搗唄を無理矢理唄わされているところ、ふと来た家光は、その無邪気な様子に心を惹かれ、お蘭はその夜から伽に召し出されました。お蘭は間もなく懐妊すると、寛永十八年(1641年)八月三日に男の子を産みました。それが家光待望の長男で、後の四代将軍家綱です。片田舎の百姓で死罪人の娘が、数奇な運命で将軍世子の生母お楽の方になったわけです。

 そうなると親兄弟も放っておくわけにはいきません。田舎から弟を捜し出し、母方の姓増山を名乗らせ、正保四年(1647年)に新知一万石を与え、家綱の教育係にも就任、従五位下に任官して、増山弾正少弼正利という仰々しい名前になりました。万治二年(1659年)には三河西尾二万石に移封され、常陸下館藩二万石、伊勢長島藩二万石と移り、増山家は幕末まで残っています。

 

 正利のそこに至る詳しい経緯は分かっていませんが、想像するなら、ある日突然田舎の農家に駕籠を持った侍行列が着き、十五、六の男の子に美服を着せると、誘拐するように連れ出し、どこかの大名屋敷で言い含めて諸事教育したのではないでしょうか。

戦国動乱の時代であれば下克上もありますが、太平の世となれば、百姓が大名になるなど、メダカが鯨になるくらい困難なことです。増山正利は自分で望まずに成り上がったのですから、まさしく奇跡的といえます。家綱が将軍になると、正利はその叔父として大変な権勢であったそうです。


鶴渡る (1972年)

鶴渡る (1972年)

2009-01-07

天地人

13:25 | 天地人を含むブックマーク 天地人のブックマークコメント

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

しっかり正月休みを取ってしまいましたが、今日からまた再開しますので、よろしくお願いいたします。

 NHK大河ドラマ「天地人」の第一回を観ました。高視聴率だったそうですが、なかなか内容も良かったですね。上杉輝虎(謙信)役の阿部寛も、最初は心配だったのですが、執着心が強くマニアックそうな性格が、私の持っている謙信のイメージに似ていたので好印象でした。あとはまだ本格的に出ていない、妻夫木くん次第でしょうか。私の家には録画機能のある機器が無いので、一年間欠かさずに観るのは大変ですが、今回は頑張ってみようかと思います。


「『利』を求める戦国時代において、『愛』を信じた兼続の生き様は、弱者を切り捨て、利益追求に邁進する現代人に鮮烈な印象を与えます。大河ドラマは、失われつつある「日本人の義と愛」を描き出します!」


 ナレーションでも流れていた、番組の宣伝文句がこれです。褒めた途端に「突っ込み」を入れるようですが、この文句はどうでしょうか。私はちょっと違和感があるのですが。

多分、この文句に出てくる「愛」は、直江兼継が愛用していた兜の「愛」の前立からイメージしたのでしょう。この「愛」の前立の由来は二つの説が有り、一つは兼継の仁愛の精神を表しているという説、一つは愛宕権化(或いは愛染明王)の頭文字「愛」を取ったものである説です。どちらが正しいかは、ウエッブ上でも論議が盛んで、結論が出ていないようですが、二つに一つなら、私は後者の説に一票入れたいですね。

 そう思う理由は、いくら何でも生死を賭けた戦場で被る兜に、現代人が考えるような意味での「愛」という字を、戦国武将が入れるとは考えにくいからです。そもそもこの時代に、宣伝文句が意味するような、「愛」という概念が有ったかどうかさえ疑問です(特別な根拠はないのですが...)。何かで読んだのですが、謙信が毘沙門天の「毘」の字を旗印にしているので、兼継は愛宕権現の「愛」の字を前立に用いたと書いてありました。この説の出典も、信憑性が有るのか無いのか分かりませんが、愛民や仁愛、親子愛の「愛」が由来と言われるよりは信じたくなります。

 火坂雅志氏の本を読んでいないので「『愛』を信じた兼続の生き様」が、原作にもあるテーマなのかは知りませんが、これも何の史料がもとになっているのか知りたいですね。兼継が、民を愛して治世を行ったと言っている人もいますが、同じ様な善政をした戦国武将は他にも沢山いますから、兼継だけが特別とは思いません。

 私が直江兼継の事を知らなすぎるのかもしれませんが、この話に限らず、余りにも時代考証に飛躍があると、鼻白む思いがするのですが、皆さんは如何でしょうか。


[rakuten:book:13090424:detail]

2008-12-31

加藤肥後守清正

13:19 | 加藤肥後守清正を含むブックマーク 加藤肥後守清正のブックマークコメント

f:id:aya_natu:20081230102221j:image

 「加藤肥後守清正」  本妙寺所蔵品


 「賤ヶ岳七本槍」を取り上げてきましたが、残った最後の一人、そして、区切れ良く本年最後の書き込みとなった、加藤肥後守清正をご紹介します。

 

 七本槍の中で最も有名な武将は、加藤清正だと思います。逸話も沢山残っているので、何を紹介しようかと迷ったのですが、その中で、芝居や講談のネタにもなった「地震加藤」の話を選びました。

 慶長元年(1596年)閏七月十二日、畿内で未曾有の大地震が起こりました。どのくらいの地震かと言うと、後年の研究で、阪神淡路大震災を上回るマグニチュード8に近い地震だったそうです。竣工したばかりの伏見城は崩れ去り、天守の五階に居た豊臣秀吉は無事脱出しましたが、「増補家忠日記」に因ると「上臈女房七三人、仲居下女五百余人横死す」と書いてあるような大被害を受けました。秀吉は庭に仮屋を造らせ、淀殿と嫡男お拾を抱いて非難していましたが、まさにそのとき、梃子を持たせた屈強な手勢三百人を引き連れた武将が現れます。その、いの一番で駆けつけた武将が、謹慎中だった加藤清正だったのです。

 清正は、文禄の役の命令違反で、秀吉の勘気を蒙り、釈明の目通りも許されず、伏見の屋敷に蟄居していました。しかし地震が起こると、秀吉の身を案じ、矢も盾もたまらず伏見城に駆けつけます。これは、本能寺の変も記憶に新しい時期ですから、ひとつ間違えると、謀叛を起こしたと誤解されても言い逃れ出来ない振る舞いですが、清正はそんなこともお構いなしに、秀吉に対する純粋な忠義心で行動しました。

 秀吉は混乱の中での暗殺を恐れ、女物の着物を着ておろおろとしていましたが、清正が前に来て平伏すると

「虎か、よう来た、よう来た。一番早かったぞ。流石は子供の頃から手塩に掛けて育てただけはある」

と言って、いつもの調子に戻り、上機嫌で褒めました。

そのとき、ふと秀吉は篝火に照らされた清正の顔を覗き込み

「そなた、暫く会わぬうちにやつれたのう」

と一転、優しく声を掛けました。

それを聞いた清正は堪えきれず、堰を切ったように号泣しました。叱られてしょげている子供が、母の優しい言葉で泣き出すのと似ています。幼い頃から、母一人の手で育てられた清正にとって、秀吉は父親にも等しい、いやそれ以上の存在だったからです。


そして同時に、秀吉へ讒言して自分を陥れた、石田三成小西行長への憎しみが増幅されたことも、間違いないでしょう。


 加藤清正の幼名は虎之助。三歳で父加藤清忠を病で亡くし、母伊都に女手一つで育てられました。伊都は秀吉の母奈加と従兄弟、或いは叔母姪の間柄だったとの二説がありますが、年齢差を考えると後者の説が自然です。つまり清正と秀吉の関係は、また従兄弟になります。

 元亀元年(1570年)伊都は九歳の虎之助を連れて尾張を訪れ、秀吉母子に息子の将来を託しました。血族を大変大事にする秀吉ですから、二つ返事で虎之助を引き取り、秀吉の妻寧々は我が子のようにして育てました。この頃の秀吉は、三千の兵を率いて朝倉義景討伐の真っ最中ですから、虎之助の養育は寧々が一身に行ったと思われます。

 清正は宝蔵院胤栄に槍術を習い、秀吉の家中でもその腕前は有名になりました。また母伊都は、少年の頃から可愛がっていた、森本義太夫、飯田角兵衛という少年二人を連れてきて、虎之助の配下に据えました。これが後に庄林隼人を加えて、加藤家の三傑と呼ばれる忠臣に育っていきます。

 

 天正九年(1581年)、清正は、鳥取城攻めで初めての武功を上げると、翌年の山崎の合戦、翌々年の賤ヶ岳の戦いと、自慢の槍を縦横に振るい、次々活躍します。賤ヶ岳の戦いで七本槍に名を連ね、三千石(のちに追加され五千石)を加増され、従五位下主計頭に任官。天正十四年、秀吉の九州征伐の後に、肥後の領主佐々成政が一揆の鎮圧に失敗し、その責任を負って切腹になると、清正は肥後半国十九万五千石(二十五万石の説もある)を与えられました。

 肥後の残り半国は小西行長に与えらましたが、入部して間もなく、小西領の天草で一揆が起こります。行長は三千の兵を差し向け戦いますが、一揆勢は強く、思わぬ苦戦を強いられ、行長は清正に助勢を頼みました。元々仲の良くない二人でしたが、清正はそれほど料簡の狭い男ではありません。ましてや秀吉から「力を合わせて肥後を治めろ」との命令もありましたので、清正は腹心に千五百の兵を預け救援に送り、一揆を平定しました。秀吉は清正を大坂城に呼びよせ、言葉を尽くして激賞し、自らの腰に差していた左文字の脇差を、褒美として与えています。

 秀吉が、二人を肥後の領主に就けたのは、近く実行を計画していた朝鮮征伐の先鋒とする為でしたが、激しく憎しみ合う間柄になろうとは、夢にも思っていなかったことでしょう。

 九州征伐、小田原征伐が終わり、人臣を極め、関白太政大臣となった秀吉には、もう以前のような頭の冴えはありませんでした。「人たらし」と言われ、相手の心を読む達人だった秀吉が、後に豊臣家滅亡に繋がる火種を作ってしまうとは、急激に老衰したとしか思えてなりません。


 加藤清正の名が日本のみならず、朝鮮まで知れ渡ったのは、「文禄慶長の役」での働きが所以です。

 清正は、身の丈六尺三寸(約百九十一センチ)と伝わる巨体の上に、銀のたたきの長烏帽子の兜を被り、次々と敵を撃破して進軍しました。朝鮮兵は清正の、この怪物のような巨大な容姿を見て、「鬼上官」とあだ名して、恐れていたと云われています。

釜山港に上陸すると、向かうところ敵なしで漢城を攻略、更に北進して、臨津江の戦いで朝鮮軍を破ると、海汀倉の戦いでも勝利して咸鏡道を平定、朝鮮の二王子(臨海君・順和君)を捕虜にする抜群の手柄を上げました。清正は、部下の略奪や焼き討ちを厳しく禁じ、捕虜にした王子達も鄭重に扱ったと伝わっていますが、朝鮮側の記録では、大悪党の代名詞になっているのは大変残念です。

 水軍の戦いは、日本側が不利でしたが、陸地戦ではもう明国の国境近くまで進軍する勢いとなっていました。しかし、諸隊の連携はあまり良くありません。小西行長とは相変わらずの不仲で、抜け駆けの先鋒争いが絶えず、行長を擁護する石田三成ら奉行達と、清正を味方する黒田長政ら武断派の亀裂は深くなる一方です。朝鮮との戦争を早く終結させたい、石田三成と小西行長でしたので、策を労して和議に持ち込みます。このときに、前述の「加藤地震」の事件も起きているのですが、原因は三成らの讒言が原因で、清正との不和は決定的なものになりました。

 和議は直ぐに決裂して、慶長二年(1597年)二月、再び戦さが始まりました。清正と小西行長の二人は別路の先鋒となり、快進撃を続けて全羅道の道都全州を占領。駐屯していた西生浦倭城の東方に、清正自身が縄張りをした蔚山倭城を築城します。完成間近の同年十二月、明の大軍が押し寄せかて、有名な蔚山城の戦いが始まると、清正は待機していた西浦生倭城から、五百の兵を連れて援軍に駆けつけ、籠城しました。明軍約五万八千に対して、籠城軍は四千足らずの寡兵でしたが、よく善戦して持ち堪え、黒田長政、小早川秀秋らの援軍も到着し、明軍を撃退しました。慶長三年九月、第二次蔚山城の戦いも起こり、清正は再度籠城戦を行いますが、同年八月十八日、豊臣秀吉が死去すると撤退命令が出され、清正も帰国することになりました。


 豊臣秀吉亡き後のことは、一連の「賤ヶ岳七本槍」で書いてきましたので省略しますが、加藤清正の活躍も、秀吉の死の後は、あまり輝いていません。

関ヶ原の戦いのときは、九州の西軍勢力を次々撃破して、戦後の論功行賞で肥後全土、五十二万石の大封を与えられました。慶長十年(1605年)に従五位上侍従肥後守に任官。慶長十六年(1611年)3月の徳川家康、豊臣秀頼の歴史的な会見の実現に、福島正則らと尽力します。

無事に会見を終えた清正は

「清正もお暇を給りて 肌に隠しはさめる腰刀を抜出し一見して 則鞘に納め是を押戴て落涙数行の間に申けるは嗚呼、清正冥慮に叶ひ 古秀吉公の厚恩今日にて奉報と云り」

と呟き、落涙したと「難波戦記」に記録がありました。

 伏見城の会見の後、肥後に帰る船中で発病した清正は、同年六月二十四日、愛着の深い熊本城で没しました。享年五十。

清正の死は、あまりにタイミングが良かったので、家康の毒殺説も流れましたが、賛否両論がありどちらとも言えません。ただあと十年、いや五年でも長く生きていたら、豊臣家の運命も違っていたでしょう。


 歴史を見て思うのは、「偶然」と「必然」が間断なく発生していることです。しかし、一つの事象が、果たしてどちらだったのかを判断するのは、長年研究しても、確定することは難しいものです。清正の死も、偶然か必然かは解りませんが、豊臣家の滅亡に大きい影響があったことは間違いない、と断言していいのではないでしょうか。