ワワフラミンゴ『映画』

 
6月29日15時の回以外の回をみることが出来ていれば、また違う感想を抱くことになっただろう。会場となった王子スタジオ1が外からの音を遮断するようには出来ていないため、たまたまその時間帯に訪れたあいにくの雷雨は、作品の印象に良くも悪くも甚大な影響を与えた。舞台はおそらく家の中という設定で、登場人物たちの入退場はトイレなどに向かう時を除いて、基本的に劇場の扉の開閉で行われる。扉を開ければいきなり大通り、車の通行も人の通行もまばらながら絶えず、雑音が容易に劇場内に響きわたる。そのことが作品にとっていいことなのかどうかはよくわからなかった。むしろ眉をひそめたぐらいだった。というのも、ワワフラミンゴの魅力は、似たようなかんじのゆるふわな雰囲気の女性たちが、これまた似たようなトーンのとぼけた会話を延々としつづけるという「ユートピア性」に存在すると考えていたからだ。しかし、自動車のクラクションの音、高校生たちの粋がった話し声、近くに落ちたであろう雷、あきらかにいま進んでいる物語とは位相の異なるノイズが紛れ込んでくるたびに、わたしは怯えざるを得なかった。簡単に目の前の世界が壊れてしまうような気がしたからだ。ただ、もしかすると、今回の作品のポイントはそこにあったのかもしれない。ユートピアの存在を脅かす異物。
今回の最大の特徴は、登場人物のひとりが男性だったということだろう。岡崎藝術座の俳優、小野正彦が演じる、手汗のように醤油が体から滲み出るという謎の妖怪は、ゆるゆるでもふわふわでもない、あえて擬音語で表現するとしたら「ざらざら」がふさわしい、不穏な雰囲気を身にまとっていた。劇中でわたしが最も笑ったシーン、皿に盛られた大量のクッキーを強引に一気食いしようとしてざらざらと口に流し込んだ結果、全然口に入りきらずにほとんどのクッキーを床にぶちまけるという一連の流れを、何の説明もなく何故か二度繰り返すというあのシーン、あのとき小野正彦は北村恵に「さっきやったばっかじゃん!!」という、終始穏やかなワワフラミンゴにしては幾分か強めの叱責を受けたにも関わらず、納得のいく返答は口にしない。遂に行為の意味は掘り下げられずにスルーされる。スルーに次ぐスルー。そうして蓄積していった一見意味のわからない行為の数々は、星座のように繋がっていき、やがてある種の一貫した行動原則にたどり着く。
いや、たどり着きそうでたどり着かない。ルールの確かな存在は肌で感じ取れるにも関わらず、ルールをうまく言語化できないもどかしさ。そのもどかしさは膨らんでいく異物として、ワワフラミンゴの醸成する平和さに、淡い影を落としていった。

ele-kingに『フラッシュバックメモリーズ4Dライブ』のライヴ・レビューを執筆いたしました。

ele-kingに『フラッシュバックメモリーズ4Dライブ』のライヴ・レビューを執筆いたしました。
3D映画を観つつ、劇中でほぼノンストップで流れるGOMA&The JRSのライヴを生演奏で再現するという異色のイベント。
今年、最も興奮しました!

http://www.ele-king.net/review/live/003826/

文学フリマに参加します。

アラビアの禁断の多数決

アラビアの禁断の多数決

演劇1・2 [DVD]

演劇1・2 [DVD]

世界泥棒

世界泥棒

http://bunfree.net/

来たる5月5日の文学フリマにて、映画美学校批評家養成ギブス第二期修了文集『クリテカ2』が販売されます。(『きれいごと、なきごと、ねごと、』終演後の会場でも販売することが決定しました。)充実の一冊です。僕は禁断の多数決「アラビアの禁断の多数決」について短いレビューを寄せました。

また、『ペネトラ4』の巻頭特集は僕も参加しました「コトバ・プレイ」。映画美学校アクターズ・コースと批評家養成ギブスとのコラボ企画。演劇と批評との関係をめぐるトークやアクターズ・コース第3回公演『美学』をめぐって発せられた言葉が収録されています。こちらのブースはエ53です。

http://spirale-gypsum.blogspot.jp/

また、『スピラレ』最新号は演劇特集なので、今回、多めに執筆しております。想田和弘『演劇1・2』論、桜井晴也『世界泥棒』レビュー、平田オリザ『S高原から』レビュー、2013年7月に新宿眼科画廊にて上演されました、戯曲「エデン瞬殺」を寄稿いたしました。

桜井晴也×綾門優季対談のロング・バージョンも載ってます。文藝賞受賞作家、桜井晴也さんのあらゆるジャンルに跨る知識を、引き出すだけ引き出しました。堂々の24000字。

『スピラレ』『クリテカ2』のブースはオ33です。16-17時は当番なので僕が売っているかと思われます。よろしくお願いいたします。



ちなみに想田和弘『演劇1・2』論の冒頭はこんなかんじです。



 平田オリザはいつ本音を口にするのか?
 平田オリザはいつ表情を緩ませるのか?
 『演劇1』『演劇2』を観ながら終始気になっていたのはその二点だった。想田和弘監督作品の観察映画シリーズには、第1弾『選挙』第2弾『精神』番外編『PEACE』第3弾『演劇1』第4弾『演劇2』第5弾『選挙2』の六本が存在するわけだけれども、純粋な観察が可能かどうかという意味では、『演劇1』『演劇2』は他の四本といささか事情が異なる。被写体の中心となる平田オリザは仕事柄、常時気を抜かずに演技をしているといっても過言ではなく、観察映画の醍醐味ともいうべき「無防備な顔」が全くといっていいほどさらけ出されない。唯一、稽古と稽古の合間の休憩で仮眠をとる平田オリザの寝顔はさすがに「無防備な顔」と呼んでいいだろうが、起きて動いて喋っているときには本心を覗かせる隙をみせない。たとえば『選挙2』では市民に笑顔をふりまいていても、想田和弘がカメラを持って近づくと即座に舌打ちや罵倒を送る、といった選挙という現場の裏表が垣間見られた。しかし『演劇1』『演劇2』ではパーティーであろうと稽古場であろうと、平田オリザの態度に、これといった変化はみられない。もちろん演劇という現場の裏表は映り込んでいるけれども、5時間42分のあいだ、遂に一度も平田オリザの裏表は姿を現さない。平田オリザの「オフ」の状態は、眠っているとき以外映り込まない。常にスイッチは「オン」なのである。『精神』では、感情がむきだしの状態と、魂を抜かれた状態が、極端な形状で露出する瞬間があった。ここで問題となってくるのは、平田オリザのあの穏やかで優しく静けさを帯びた表情が、魂を抜かれた状態ではなく、感情がむきだしの状態にむしろ近い、ということである。それは平田オリザの主宰する青年団の演劇の特徴とも響き合う現象だ。………

桜井晴也×綾門優季対談『楽園という閉じられた国のなかで』(後半)


口語と文語


桜井:台詞が自然かどうかは関係ないのかな?
綾門:そうですね。まず言わない比喩をあえてめちゃめちゃべらべらしゃべる効果って、もっと考えてみるといいかもしれません。僕は現代口語演劇のムーヴメントに乗り損ねたんですよ。2005年以降から岡田利規平田オリザが最強で、このふたりが現代口語で出来ることをものすごい勢いで整えたんです。鳥公園『緑子の部屋』とかもチェルフィッチュがやっていたことの発展形ですし、ままごとの柴幸男やサンプルの松井周も青年団から出てきて、現代口語演劇のフォーマットを更新している。いま、現代口語全盛期のムーヴメントがここ十年くらい大きな流れとして訪れていることはわかっているんですけど、いかんせん自分の口語がすごい下手だから、ムーヴメントに全然乗れない。
桜井:致命的だ(笑)
綾門:劇団旗揚げの頃は、すこし口語だったんですよ。そうすると、ただの下手くそな演劇になっちゃうんですね。だから、もう振り切ろうと。中途半端に下手くそだったので、下手くそな方向に思いっきり振り切って今の作風になったんですけど。現代口語演劇のムーヴメントに乗りたかったけど転覆したので(笑)じゃあ、文語の台詞をいまさらやるということに、どれだけの可能性があるかっていうことを、考えてる人がたぶん今あんまりいないから、僕がやろうかな、という感じです。
桜井:貧乏くじだけど。
綾門:大通りは雪かきがめっちゃされてるから凄く通りやすいんだけど、この狭い路地の雪かきは誰もしてないから、僕がやります、と。平田オリザさんと面接する機会があったんですけど。そこで、唐十郎の時代に生まれてたらアングラでいけたのにねって言われて。僕も心からそう思う。小説は大量の比喩が入ってもまだ大丈夫ですけど、戯曲はどんどん厳しくなってますね。わざとらしさって基本的にダサいから。
桜井:戯曲は、口語が流行ってるからっていうことでしょ? 口語が流行ってるから全然入り込めないわけでしょ? 俺が見始めた頃はチェルフィッチュが流行ってた頃だから、基本的に口語で当たり前みたいなイメージがある。商業演劇とかみにいっても、たとえばベケットの再演とかになると台詞が口語じゃないじゃん。それは観てて全然面白くない。
綾門:観てて面白くないタイプの文語ですからね。
桜井:なんでなんだろうね。ベケットベケットですごいわけで、戯曲を読んでも面白いわけなんだから。
綾門:発語の仕方でもっと良くなるはずなのに、そこを誰も考えていないまま上演してるケースがあると思う。
桜井:そうだよね。
綾門:岡田利規平田オリザがやったように、ナチュラルさへの解像度がずば抜けて高いと、それはよりぐっとくるわけですよ。ベケットを上演するにしても、変な台詞のほうに思い切り振っちゃうか、翻訳を頑張るかすればいいのに。
桜井:そうだよね、もう一回やるなら翻訳し直さなきゃいけないよね。
綾門:シェイクスピアを普通にやるよりは、いっそのこと坪内逍遥訳でやれば面白いかもしれない。そこまでくると逆に。小劇場でいまから出てくる若手は、平田オリザ岡田利規の薫陶をあたりまえのように受けてますよね。
桜井:そうだよね。
綾門:文語は自分で使ってて思うんですが、戯曲の文語の歴史は一回途絶えたんですよ、たぶん。ぜんぜん資料がないんです。野田秀樹とか八十年代演劇のあたりで途絶えた。平田オリザが出てきた九十年代から、たとえば岸田戯曲賞を取っている作家でばりばり文語、っていうのはぐっと少なくなります。八十年代まで戻るといるんですけど。松尾スズキはどちらかというと文語よりだと思うんだけどだいぶ世代も上で、だからいま五十代の人だったらナチュラルにいるんだけど、三十代・四十代とかが全然いなくて。いまあらためて文語でやる、というときに攻め方が違うなという意味では、まだやれることはあるなと思いますね。
桜井:小説は、文語が生き残ってる。地の文を書くやり方は明治から変わってない。会話文にも残ってる。会話は絶対にしゃべらないような文体で書かれてるわけだし。村上春樹もそうだし。鹿島田真希はロシアの翻訳をそのままやってるし。翻訳文体という意識が日本の文学は非常に強いから、そういう意味では全然残っている。初期の中村文則の「銃」や『遮光』は地の文章が何十年も前みたいに固い近代文学的な書き方をしてるのに、会話は「〜じゃん」とか若者っぽい書き方をしてる。
綾門:西村賢太もそうですね。すごい古くさいのに女性の口調だけいまどき。そういう意味では、鹿島田真希の作品は戯曲の文体を考えるうえでとても参考になるんですね。鹿島田真希は翻訳調と呼ばれるものを、現代の日本語にきれいに落とし込んだらどうなるかっていうことをやっているかたですよね。だから読んでると翻訳調の日本語の可能性、比喩の使い方や会話とか、かなり思考がクリアになる。一時期、参考資料として鹿島田真希をすごい読んでましたね。僕の戯曲は、普通の戯曲を読んでても参考にならないことが多いので。そもそも起承転結の付け方が違う。当たり前ですけど、普通の戯曲は会話で成立している。せいぜい一人台詞があるくらい。会話だけで起承転結つけるのと、戯曲の一部に会話もあるっていう感じだと、事件の起こし方も変わってくる。平田オリザの戯曲までいくと、素質が離れすぎていて、反面教師みたいな感じで参考になりますが。反面教師っていってもあれですよ、面白いですよ。


楽園系


綾門:『エデン瞬殺』は初めての短編集ですが、短編は攻め方が違いましたね。『エデン瞬殺』はファウストが流行ってた頃に文学読み始めた感じが露骨に出ちゃった。
桜井:めっちゃ出てる(笑)。セカイ系だよね。閉じた世界で、ひとつのシチュエーションで、最初から極限状態のなかにいて、ちょっとのきっかけで爆発していく。
綾門:僕の作品は毎回だいたいそんな感じですけどね。
桜井:『エデン瞬殺』は短編だからそれがわかりやすくて。一時期の西尾維新佐藤友哉が書いてたミステリーの流れだよね。
綾門:ミステリーではないですけどね。
桜井:ミステリー「っぽい」よね。
綾門:何を書いても閉鎖的なものを扱う傾向があって。楽園というのがそれにフィットした。自分たちの領域を犯さないでくれという気持ちがすごく強い。ハードピュア。ピュアすぎて息苦しい世界観があり、『エデン瞬殺』が楽園をモチーフにした作品だったから、その世界観がより濃厚になった。ピュアさは不純物がなくて、きわまればきわまるほど生きづらくなっていく。あそこに出てくる人たちは極端にピュアで、ちょっとしたことで爆発しやすい状況に置かれている。『エデン瞬殺』に限らず、僕の作品の特徴は、はじめから極限の危機という設定ですよね。ラスト五分くらいの危機が始まった段階で訪れている。普通の戯曲が1%から順に100%まで物語を追っていくとしたら、僕の戯曲は95%まで終わったあとの残り5%でやってるみたいな。それはやはり、現実の写し絵でありたいと思ってるから。今の社会の空気感は、普段からずっと危機というか、盛り上がったり下がったりしないで、どよーんと澱んでヒリヒリと危機がすぐ横にあるんだけど、つかむことはできないまま、毎日をやり過ごしている感じだと思うんですよ。なので、最初から追いつめられている人がなにかのきっかけではじけてキレて、愚痴や不満がダダ漏れになるのは、むしろ自然だと思っている。自然な起承転結を紡ぐほうが不自然だと。
桜井:まあ、そうだよね。
綾門:そういうふうに今の社会を捉えたいという思想が『エデン瞬殺』ではわりとクリアになってましたよね。設定はおかしいんですよ、ちょっとおばあちゃん頭がおかしすぎる、とか。でも、そういう極端な設定でしか出てこない今の社会の写し絵もあるなって。
桜井:残り5%から開始すると言ってたけど、それは長編と短編で変えるの? 良くいえば、『エデン瞬殺』は短編っぽい劇になってたよね。ちゃんと長編の最後の部分だけをやりましたという形であっても、そのなかでも短編っぽい短編になってたなと思う。
綾門:長編を書くときは時間軸を操作したりとか、時間の流れを遅くしたりとかして、残り5%をやるので戦略が必要なんですけど。短編はその5%をきっかりワンアイデアで駆け抜けられる感じですね。短編は展開展開展開展開ってだけで作れる。だれたりとか、テーマが複雑になりすぎたりはしない。テーマが複雑になっていくことはよくないことだと思ってるんです。伏線が複雑になっていくことはいいですが。ある一点がクリアにわかってほしい欲望がすごく強いんですよ。その作品のコアにあるもの。どんどん展開していくというよりは、あるコアをぐるぐるめぐりたい。という観点では、短編のほうがやりやすい。演劇は短編を観る機会がないので、もっとあってもいいなとは思うんですけど。ショーケースとかぐらいでしょ。短編と長編じゃ使う技術が違いますし。小説家は短編も長編も書けてこそ、みたいな話を村上春樹が以前言っていたと思うんですけど、劇作家は放っておくとほぼ同じ長さのものをずっと書いていくことになっちゃうんですよ。
桜井:長くても2時間。
綾門:短くて1時間。ただの2倍じゃないですか。だから範囲としてはすごい狭いんですよ。小説は、奥泉光のようにいつになったら終わるんだろうみたいな長い作品もあれば、すごい短い作品もある。戯曲はほぼ同じ長さに整えられてしまう。だから、色んな長さのものを観てみたいなとは思いますね。桜井さんの小説『世界泥棒』も一種の楽園ですよね、閉じられた国のなかにほぼ同じ人たちしか出てこない。
桜井:閉じられたところは、凄く難しいと思ってる。山崎ナオコーラの『人のセックスを笑うな』は、凄く狭い話。でも小説を読むとこれがセカイ系か、西尾維新か、閉じられた楽園の話かというと、そういう感じはしなくて。で、井口奈己の映画版を観たら4人しかでてこない。他に誰かいるだろう、なんでそんなに狭い環境のなかで思い悩んでるだと思って。映画自体は面白くてすごい好きなんだけど、そういうのが出てきちゃって。で、逆に仮に大人数出して大きな話を出すというのは、どういうことなんだろうな、と思って。それに対して良いサンプルがない。ジョージ・オーウェルの『1984』からそうだけど、楽園系は必ず共産主義的な楽園だよーって言ってて、個々の人たちは窒息しそうな状態にいるのが一種のテンプレになっている。そこで爆発する、みたいなパターンがある。エンタメとして作るなら極端な状況に置いたりしてやるんだけど、純文学寄りの人はそれを普通の日常で全部やってる。だから、楽園系って、全部が楽園系ともいえる。濱口竜介の『親密さ』も一種の楽園系じゃん。韓国と北朝鮮が戦争してみたいなストーリーがあるんだけど、前半はほぼ稽古場で後半はほぼ本番っていう。戦争というのが外部からの圧迫感、プレッシャー的なものとして世界に完璧に入ってこない。入ってきたとしてもそれが持ってる空気感だけが訪れて、そういう状況下で大切なことを語れるだろうかっていうことをものすごくピュアにやってる。だから、綾門くんがやってるやつも、『親密さ』で4時間でやってるところを凄く短くやってる感じだよね。
綾門:濱口竜介の他の長編や短編を観ても、ある種の閉じられた感はあると思っていて、それは濱口竜介がどうこうというよりは、ここ5年くらいで閉じた作品が目立ってきているから、時代の流れとも関係あるかと。濱口竜介は特に顕著だとは思うんですけど。不気味なものが遠くにあるんだけど、それを直接目撃できない。

※この対談のロング・バージョンは、『スピラレ』vol.2に掲載されます。

http://spirale-gypsum.blogspot.jp/

※この対談で言及された劇団、演劇作品についての桜井晴也さんのコメントは、以下で読めます。

チェルフィッチュ『フリータイム』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-192.html
劇団、本谷有希子『甘え』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-828.html
ロロ『ミーツ』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-1262.html
Cui?『きれいごと。なきごと。ねごと。』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-1013.html
青年団若手公演+こまばアゴラ演劇学校“無隣館”修了公演『S高原から』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-1300.html
鳥公園『緑子の部屋』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-1302.html
Cui?×お布団『エデン瞬殺』http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-1268.html

桜井晴也×綾門優季対談『楽園という閉じられた国のなかで』(前半)

文藝 2013年 11月号 [雑誌]

文藝 2013年 11月号 [雑誌]

桜井晴也×綾門優季対談『楽園という閉じられた国のなかで』

インタビュー・テキスト:綾門優季、松山悠達
(2014/04/06)

「これは私がはじめて出会った、文章は粗く、雑で、欠点ばかりの、でも見たことのないものが立ちあらわれてくる新しい小説かもしれない。(角田光代)」など、選考委員の絶賛を受け、2013年、『世界泥棒』で第50回文藝賞を受賞した小説家・桜井晴也さん。『きれいごと、なきごと、ねごと、』の初日トークゲストに来ていただくついでに、舞台についてがっつり対談してみました。桜井さんと僕に共通している要素は「楽園系」であることでした。でも、「楽園系」って、いったい?(綾門)

桜井晴也(さくらい・はるや)
1985年埼玉県生まれ。2004年ごろから現代文学に触発されて小説を書きはじめ、同時に、映画、演劇、ダンス等の鑑賞を日常的に開始する。2013年、河出書房新社主催第50回文藝賞受賞、同年10月、受賞作「世界泥棒」発売。ブログ「首吊り芸人は首を吊らない。」(http://kizuki39.blog99.fc2.com/)。

綾門優季(あやと・ゆうき)
1991年生まれ、富山県出身。劇作家・演出家・Cui?主宰。日本大学芸術学部演劇学科在籍。こまばアゴラ演劇学校・無隣館演出部。早稲田短歌会所属。2011年、専属の俳優を持たない、プロデュース・ユニットとして「Cui?」を旗揚げ。2013年、『止まらない子供たちが轢かれてゆく』で第1回せんだい短編戯曲賞大賞を受賞。短歌や批評等、演劇外の活動も多岐にわたる。


舞台を観るようになったきっかけ


綾門:桜井さんは小説家ですが、かなり前からやられているブログ「首吊り芸人は首を吊らない。」では小説に限らず、映画や演劇、美術にも触れているし、けっこう広範囲に渡って論じていると思うんですね。しかも感想ブログというわけではなく、批評ブログのようになっている。すごい例えを使いまくる批評ブログみたいな。
桜井:「例え」というのは、ある作品について書くときに別の全然関係ない作品をぶつけて書くということでしょ。
綾門:そうです。そういうブログをずっと前からやられていて、映画のイベントで渡邉大輔さんとのトークがあったりとか、文学関連のイベントで高橋源一郎さんと対談をしたりされてますよね。でも、以前から舞台をかなりみられているのに、桜井さんの舞台に関しての話はおそらくいままで正式には一度もでていない。ですので、今回は舞台をメインにお聞きできればと思っています。もともと舞台を観るようになったきっかけは?
桜井:7、8年くらい前なんだけど大学の頃に文学とかを読み始めてて、読み始めると同時に映画や美術館に行くようになり、そのときに舞台もみにいくようになった。そのときにチェルフィッチュがすごいと、たしか高橋源一郎が言ってて、それで、チェルフィッチュの『フリータイム』を観て、なんだこんな面白いのかと思って。当時は前田司郎や本谷有希子岡田利規が文芸誌に出てくるようになってた時期なので、基本的にそういうところから知っていった。
綾門:たぶん僕も同じような経緯ですね。僕がいわゆる文学というものに関心を持ち始めたのが高校一年生くらいからで、年齢を考慮すると桜井さんがそういうふうになっていった時期とほぼ同じなんですよ。本谷有希子、前田司郎、岡田利規が小説をがんがん発表してて、ちょうど舞城王太郎佐藤友哉もちょくちょく文芸誌に載ってる頃。
桜井:やっぱその頃だよね。
綾門:桜井さんは現代詩にも造詣が深いですよね。その頃は三角みづ紀最果タヒ水無田気流、文月悠光みたいな新世代が登場してきて、あのとき詩の業界が一変したというか、なんだこんなことできるんだっていう感覚がわりと同時期に共有されていたと思っていて、僕もその頃に興味を持って意識的に読み始めた。だから本谷有希子に最初に触れたのも舞台ではなくて、小説なんですよ。本谷有希子は戯曲もまるで小説を読んでいるような気分で楽に読めるみたいなところがあって、それで『遭難、』や『幸せ最高ありがとうマジで!』に触れて、戯曲に全然触れたことなかったけど、小説みたいに楽しく読めるんだって気づいて。それで上京して、『甘え』を青山円形劇場で観たときに、いわゆる現代文学を楽しんで読んでいる延長線上で舞台も観れるなと思った。それでチェルフィッチュを観て、すげー、ってなって。だから、舞台に興味を持つ導入部は、僕と桜井さんは近いのかなあって。
桜井:近いのかなあ。一番最初に衝撃を受けたのはやっぱりチェルフィッチュ。言葉の使い方と体の動きというものの出てくる感覚が一致しているように見えるんですね。小説は言葉しかない。だから、言葉と体という別々のものが同じかたちで動いているということ、そういうものの見方がすごい面白かった。小説は、少なくとも僕のなかのベースは、村上春樹、一人称で語る場合は村上春樹があるんですね。で、村上春樹的というのはアメリカ的だったり、翻訳調だったり、基本的に日本語のだらだらした感じをだすのではなく、きちんと書くというのがあって、村上春樹みたいな人がどこまで文章とか体とかを崩せるのか、みたいなことはやってないと思うので、そういう全然違うところからきてるのがすごい面白かった。
綾門:岡田利規の小説はどうですか?
桜井:岡田利規の小説は、舞台とは違うよね。小説は視点の話。体の動き、物、風景とかをカメラ的な視点でどこからどうやってとらえるのか、という話。基本的に人がいるところをカメラから撮ってて、もしその人の心の動きとか、体の痛みとかを表現する場合は、カメラがそのまま体の内側までめりこんでいってしまっている印象を受ける。だから、舞台とは違うような気がする。
綾門:本谷有希子は、小説を読んでも戯曲を読んでもほぼ同じ感覚を受けますよね。
桜井:同じだよね。ネタは同じだから。


小説と戯曲の新人賞の違い


綾門:戯曲と小説では新人賞の捉え方が異なりますよね。戯曲は、いま売れてる人でも賞を取ってない人はざらにいます。戯曲の新人賞を取ってデビュー、とかでは全然ない。小説は、新人賞を取らないとそもそも本にならない。世に出ない。そういう意味で、死活問題のグレードが戯曲と小説で違うと思います。桜井さんは過去に新人賞にめちゃくちゃ応募してるじゃないですか。
桜井:してるしてる。
綾門:高橋源一郎さんとの対談を聞いてて衝撃的だったのは、新人賞に20回くらい応募してることでした。メフィスト賞にも応募してて。この作風でメフィスト賞は厳しいでしょ(笑)
桜井:そうだね、20回くらいは応募してるかな。メフィスト賞は、舞城王太郎佐藤友哉の影響で応募したい人はいっぱいいると思うんだよね。文学系の人でもメフィスト賞に応募してる人はいっぱいいるんじゃないかな。
綾門:新人賞を文藝賞に絞るまで、紆余曲折はあったんですか?
桜井:あった。最初はエンタメ書いてたから。今は消え去った賞とかにも出してた。Yahoo! JAPAN文学賞みたいな。
綾門:あったなー、そんなの。
桜井:当時はファウストが流行ってたから、ファウストに応募して、ファウストに入りきらないのはメフィストに応募して、みたいなことをやってた。で、だんだん読む本が文学よりになっていって、エンタメは読んでも一部をのぞいて全然面白くなくなっちゃったんで、あとはほぼ文藝メインになっていった。今回は文藝に二作品応募して、ひとつは一次で落ちて、『世界泥棒』だけ拾われたかたちになった。
綾門:『世界泥棒』が通ったから、もうひとつのほうは一次で落としたんじゃないですか?
桜井:いや、編集の人に訊いたら知らなかったって。二作品出してたんですか、って。
綾門:出来が全然違ったということなんですね?
桜井:ほんとに出来が全然違って、編集にいく前に下読みの人に落とされた。
綾門:『世界泥棒』がいくな、と思いませんでした?
桜井:受賞する前の年に、四次選考まで残ったやつがあるのね。四次のあとは最終選考だから、かなり良いところまでいってる。あれで四次までいくんだったら、今回の『世界泥棒』はいけるだろうと。
綾門:戯曲の新人賞って、それに比べると取る意味あるのかなっていうところもあるんですが、僕は取ってよかったなと思ってます。なぜかというと、20代前半でいわゆるプロの演劇の業界で認知される機会が少ないからです。もともと認知されている人がわざわざ新人賞を取る意味はあまりないと思いますが、自分はデビューして間もなかったから、あの受賞がきっかけで知ったっていう方も多かったんですね。せんだい短編戯曲賞は、本が必ず出るというふれこみでもあったので、受賞作の戯曲集をプロデューサーに直接渡せるので、売り込みやすくなりました。データでもらうのと本でもらうのは印象が違いますから。
桜井:せんだい短編戯曲賞は自分から送ったの?
綾門:平田オリザさんがやってる、演劇学校の無隣館ってところの生徒なんですけど、青年団の木元太郎さんがせんだい短編戯曲賞の選考委員に就任したから、演出部の人たちは応募してみれば、みたいな感じでメールが回ってきて、とりあえず応募しようみたいな流れになったんですね。それで応募しました。ふさわしい新人賞を血眼になって探していた、みたいなわけでは全然ないですね。実際、戯曲の新人賞に応募したのって、せんだい短編戯曲賞の一回だけだし、これまで。
桜井:戯曲は賞自体が少ないよね?
綾門:そうですね。若手で新人賞取ってるなかで幸福な例はロロの三浦直之さんかなあ。三浦さんは王子小劇場主催の新人戯曲賞のはじめての受賞者で、それを取ると王子小劇場で一回公演するのがタダになるんですね、劇場費がかからない。それで新人賞を取った戯曲を上演しようということになって、集まったメンバーがいまのロロの中心になってます。その公演がとても評判が良くて、劇団組んじゃえってなって、そのあとにロロが正式に発足していったんじゃなかったかな。そういういきさつがあるので、戯曲の新人賞が劇団をひとつ作ったともいえるんですけど…。あんまりないですね、こういうケース。キャリアが長いと、新人賞を取ったことで環境が激変することはないんじゃないかな。賞金ラッキー、くらいのことですね(笑)


文体に対する意識


綾門:小説で求められる文体と戯曲で求められる文体は違いますよね。最大の違いは、戯曲はしゃべらなきゃいけない点。
桜井:そうだよね。つらいよね。
綾門:つらい(笑)桜井さんと僕は、文体に関しては近いゾーンにいるなと思っていて、ふたりとも文体が「詩」っぽい。散文を書いていても、比喩や表現に「詩」の感触が残っているなと。僕のほうが全開だと思いますが。いわゆるフラットな散文とは違うなと思ってますし、『世界泥棒』も詩的文体が云々、絢爛豪華とか言われてるじゃないですか。そういう文体になっていった経緯をお聞かせください。ブログもだんだんと文体が変わっていったじゃないですか。ひらがな増えたな、とか。
桜井:やっぱり村上春樹の存在が大きい。女性作家はともかくとして、いまの男性作家が「僕」という一人称を使って小説を書きたいとなると、ほぼ手詰まりなんですよ。なにをどう書いても村上春樹っぽくなってる気がする。舞城王太郎や前田司郎も村上春樹っぽいところがある。そういう呪縛から逃れるためにはどうしたらいいのかとなると、自分はああいう文体にシフトしていった。村上春樹舞城王太郎は短文系なんですよ。舞城王太郎なんかは一文が長い作家だって思われてることがあるけど、そうじゃなくて、あの文章は「俺は何々して何々して何々して何々する」みたいな単発な意味を直線的につなげてるだけでしょ。だからいくら一つの文章が長くても本質的にそれは短文なんです。それがさっきちょっと言った村上春樹アメリカ系だとか翻訳調だとかそういうことで、でも日本の文学はフランスとかからきたものだから、本来はそうじゃなくて、もっと長文的なんだよね。プルーストとかジャン・ジュネとかは一文のなかで意味が揺れたり、視点が揺れたりするわけで、だから、村上春樹的な短文に対して、一文を長文的にどこまで延ばせるのかを考えると、あえて一文を長くしよう長くしようという試みをわざとやる。そうするとだんだん自分の書くペースもあがってくるし、気持ちも変わってくる。あとは堅くなりすぎるのが嫌だった。ひらがなを使うのは、それをどうこういうつもりはなくて。江國香織だってひらがなを使ってるし。見た目の柔らかさとか。嫌いな漢字は使いたくない。
綾門:漢字に好き嫌いあります?
桜井:あるある。見た目。
綾門:たとえば何が嫌いですか?
桜井:「事」とか。あえて漢字にしているように思えて、それが嫌で自分が使いたくないのは使わないようにしてる。でもあまりひらがなにするとおかしいので、そこはバランスを取りつつ。
綾門:漢字の好き嫌いは考えたこともなかったので、新鮮な話ですね。というのは、戯曲は結局しゃべるからどう書こうが関係ないんです。戯曲を応募するとか出版するとかになったら書き直しますが、上演するだけだったら、字面とか、見た目の美しさはほとんど気にしない。僕はまだ気にしてるほうですが。気にしないほうがいい気がする。
桜井:綾門くんは戯曲で「?」や「!」のあとにスペースを入れないのはどうして? 普通だったら、スペース空けるじゃん。小説とか。舞城王太郎は空けてないけど。
綾門:それは、意識的にと無意識的にが半々なんです。舞城王太郎がスペースを入れてないのは、文が全部つながっているようにみえる、饒舌にずっとしゃべっているように見えるという効果のためだと思うんですよ。スペースが入ると途切れるので。ずっとダーっとなっててほしい。僕もそれは同じで、掛け合いにつぐ掛け合いという感じで最後まで途切れなくいってほしくて。そこにスペース入れるとしっくりこないんですよ、見た目的に。せんだい短編戯曲賞に応募するとき、直してもよかったんですが、やっぱりどうしてもすわりがよくなくて、スペースなしで突っ走ろうと。受賞以降に書いた戯曲も全部そうなってますね。あと、僕は会話、一人台詞、もはや台詞ではない部分の三つの文体を適宜使い分けていますが、そういうのは小説ではなかなかないのかなと。シーンごとに文体をころころ変えるというのは。
桜井:ないね。綾門くんのは、だれの台詞でもないのが入ってるでしょ。でも、あれを役者は実際にしゃべってるでしょ。そういうのは絶対小説には入ってこないから、戯曲はずるいよね。
綾門:あれが戯曲として認められたのも、戯曲賞を取ってよかったと思えることのひとつですね。それまでは、戯曲ではないテキストを使って無理矢理に演劇してる人っていわれてたり(笑)自分は戯曲だよって主張してたんですが。戯曲賞を取って、みんなが戯曲として認知してくれるようになったので、やりやすくなりました。でも、桜井さんも僕の舞台を見たときにブログに書いてましたよね、あれは脚本と呼べるのか、って。確かに、形式的に微妙なラインだとは思うんですよ。
桜井:微妙なラインだよね。あれは、人の動作を全部台詞で入れちゃってるでしょ。それは、どうなの? ありなの? あまり戯曲読まないからわかんないんだけど。
綾門:いわゆるト書きと呼ばれる部分が、ほとんど台詞に内包されていて、その台詞を役者が読んだときに、その動きにならざるを得ない、ということですよね?
桜井:そうそう。そういうのは、小説にもあるっちゃある気がするんだけど。一般的にはものすごい下手くそなものだよね。初心者がやるやり方でしょ。逆にそういうやり方をギャグの意味を込めてやってる人もいると思うんだけど、徹底してやってる人はあんまりいないよね。
綾門:普通はト書きが上手くなるとかですよね(笑)。受賞のときも、こんなにト書きがない戯曲はどうなの?って言った選考委員がいたらしく、もめたみたいです。なんですかね、あの下手くそさみたいなものが味になってるとも思うんですよ。あそこを整然とト書きにしちゃうと、きっちりしちゃう。今はあれを無理矢理に演劇にしてるからこそ出来てる作風だなって。僕も桜井さんと同じで舞城王太郎直撃世代で、舞城王太郎の影響が残ってると自覚するところもありますけど、自力で発明した部分もあると思っています。というのは、戯曲は上演されなければいけないから、最初から最後までガーッと畳み掛けてて、しかもその台詞のなかに動きが内包されてると、役者が必死になってくらいついていかなきゃいけない。台詞も超言いづらいし。台詞も無理に言って、動きも無理に台詞のスピードで変換していくという、クッソ疲れる戯曲。トラックの後部にひもでくくりつけて引きずるみたいな、西部劇で犯人が馬の尻に引かれてずるずるずるずるーみたいな状態を、一時間ぐらい続けないと上演できないようになっている。
桜井:それでも、『きれいごと。なきごと。ねごと。』とかは音楽が大きくて台詞が聞こえないじゃない。そこまでやらせといて聞こえないのかよ、って(笑)
綾門:桜井さんが初日のトークゲストにいらっしゃる、5月31日〜6月4日に上演する『きれいごと、なきごと、ねごと、』は二年前の舞台の改訂版再演なんですけど、音楽の大きさをどれぐらいにするのかもめてて。きこえないってお客さんに直接怒られたり(笑)あの戯曲で出来ることはもうちょっと突き詰めて考えたいですね。まだちょっと出来ることがありそうな気がしています。もともとは、僕は詩や小説に興味があったから、初めて戯曲を書いたときに無理矢理に書いた結果、あきらかに戯曲で使わない表現を使いまくってて、ずっと書いていったら上手くなるものだと思っていたら、まったく上手くならないままここまできて、作風になってしまったんです。
桜井:普通は綾門くんのような比喩は使わないよね。しかも戯曲のなかで比喩を使うと、その比喩に対して別の比喩で畳み掛けてくる、綾門くんの場合。そのやり方ないよなと誰がどう見ても思うわけで。最初の比喩もあり得ないんだけど、その次の比喩がもっとあり得ない。なんでそこにかぶせてくるのか(笑)
綾門:おまえら初対面なのにどうして比喩でツーカーなんだよ、って(笑)
桜井:そうそう(笑)。小説でもそうだけど、ベタな比喩はあまり使わないじゃない。比喩には二種類ある。ひとつは、村上春樹のようにそのものを的確に表すのではなく、そのものとは全然関係ないものをつなげる比喩。もうひとつは、読者に想像させるようなストレートな比喩。いまは、ストレートな比喩が使いづらくなってる。それを大仰にやってだめだから、皆あたりさわりのないとこでさらっと入れましょうみたいのが小説の書き方のスタンダードになってると思う。そのなかで、綾門くんの戯曲のひどさはすごいよね(笑)
綾門:笑っちゃうような比喩(笑)
桜井:シェイクスピアの時代かと思うよね。
綾門:「砂埃の奥に隠れていた巨大な蟻地獄が楽園を目指していた懲りない奴らをひとり残らず飲み込んでいった。」みたいなところですよね。
桜井:ああいうのはすごいなあ。
綾門:ああいうものを僕だけやってるかというと、他にないわけじゃなくて、近いなと思ったものがふたつあって。ひとつめは、村上春樹の『ノルウェイの森』の映画版。トラン・アン・ユン監督の映画ですね。日本人監督だったら比喩をそのまま口に出すわけないってわかるから台詞を変えるだろうけど、外国人監督だから日本人がどれくらいのことをしゃべるのがスタンダードかというのをわかってなかったからこそ、普通の雑談してるのに「南極の氷が」とか「ペンギンがもし○○だったら」とかを松山ケンイチが比喩を真顔で言ってて、シリアスなシーンなのに大爆笑しちゃって。『ノルウェイの森』を小説で読んだときは別に笑うところはなかったんですが、映画で観るとめちゃくちゃ面白いんですよ。「この髪型似合ってる?」「ちょっと横を向いて。うん、似合ってるよ」とかをマジでやってると滑稽さがやばいんですよ。でも、僕の比喩はあれに近いなと思っていて。マジでやるとマジで恥ずかしいぞっていう。もうひとつは、ロロの三浦直之さんに教えてもらった映画監督・山戸結希さんの作品。僕は『おとぎ話みたい』と『5つ数えれば君の夢』を観てるんです。山戸さんは哲学に興味があるらしくて、レヴィナスとかをすごい読んでるんですけど、女子高生がレヴィナスを朗読してるような台詞なんですよ。『5つ数えれば君の夢』は、女子高生が学園祭の前日に喧嘩になってるシーンで、哲学的問答してるみたいな、女子高生の思考回路じゃねーだろみたいな会話が後半ずっと続く映画。哲学的な禅問答みたいなことをいってるのに、出来事自体は文化祭前日から文化祭のミスコンの本番までのあいだに、女子高生のグループの中でいじめが行われてるっていうこの乖離。いじめられてた女子高生がプールに飛び込んでびしょ濡れなままミスコンの会場でものすごい勢いで踊るという驚愕の展開になるんですけど、そのあいだもずーっと哲学的な自問自答が行われてるんです。なにこれ? みたいな映画なんです。女子高生はしかも結構棒立ちで喋ってる。それの台詞の効果が僕の戯曲に近いものがあると思ったんですよ。勝手に思い込んでるだけですけど。

(後半に続く)

http://d.hatena.ne.jp/ayaayattottotto/20140423/1398261265

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また、 空間現代の野口さんが音楽を担当した『官能教育 三浦直之(ロロ)×堀辰雄「鼠」』についても文中で触れました。

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