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2012-01-16

[]10年ぶりの『悪霊』 10年ぶりの『悪霊』を含むブックマーク



 10年ぶりにドストエフスキーの『悪霊』を読んだんだけど、とにもかくにも「こんな話だったんだ」という驚きがありました。


 大学1年の教養の授業で新潮文庫版を読まされた時は、本当に歯が立たなくてちんぷんかんぷんで、当時それは人名が覚えられないせいだと思ってたんだけど、今読み直すと、もっと根っこからまるごと読めてなかったのがわかる。

 この小説は登場人物の会話やしぐさの中にある含みやほのめかし、あてこすりや隠された願望が大きな意味を持つのに、言葉の意味を表面通りに受け取っていたので、それぞれのキャラクターがなんでこんな風に動くのかというのが全然わからなかったんですね。この辺り、18、19当時の自分のコミュニケーション能力がどれほど貧しかったのかがわかってしまっておそろしい(いまだって貧しくって困るんだけど)。


よくって。わたし、あなたにさっきこう言いましたよね。わたしは、自分の時間を一時間だけって決めていたって、だからもう落ち着いたものよ。あなたも、ご自分の一生をそうお決めになったら……といっても、あなたには目的がない、だって、これから先も、まだいろんな《一時間》や《一瞬》をたくさんお持ちになるんでしょうから


 悪魔的な美男子スタヴローギンに誘惑され、婚約者がいるのに一夜を明かしてしまった令嬢リーザがスタヴローギンに向けたあてこすりまみれの辛辣な言葉。スタヴローギンの中に底知れないものを感じ、強烈に惹きつけられていたリーザが、実際に誘惑者と一夜を明かしてみたら、その飽きっぽさ、底の浅さ、キッチュな俗悪さを認めてしまい、一気に軽蔑するという場面です。


 今なら「こんな風に幻滅することってあるんだろうな…」と感じ入ってしまうけど、10代の頃はリーザの態度がどうして一変したのか全然わからなかったし、そもそも《一時間》や《一瞬》が何を示してるのかもよくわかっていなかったように思います。相当なネンネ読者ですね。

 この後、リーザが群集の中にふらふらと出て行ってしまう場面は、19世紀の小説とは思えないくらい生々しさと暴力に満ちている気がします。


  結末近くに、「自分が何も信じていないということさえ信じていない」スタヴローギンが幼なじみの農奴出身の娘、ダーリヤに力を振り絞るようにして送った、文法的にも稚拙な手紙のいびつなメッセージと願いがなぜか胸を打ちます。


あなたはかつてぼくの《看護婦》になることを願って、いざというときには、あなたを呼びによこすという約束を取りつけました。ぼくは二日後にはここを出て、もう戻らないつもりです。ごいっしょしますか?

(中略)

ぼくたち、いっしょに出かけ、そこで永久に過ごしましょう。ぼくは、どこにもけっして出ていくつもりはありません。


 しかし、18、19やそこらの学生(NOT文学専攻)に「ついてきなあ!」とばかりに『悪霊』を読ませた先生は、なかなか無茶をさせるお人だったんだなあと思うけど、こういう蛮勇が10年後、20年後に感銘を呼び起こすこともあるんだから、教育って奥深いやね……あれ、びっくりするほどまじめな結びに……。

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