ショートカッツ

 休みの日に駅前のスターバックスに行ったら、バイトの後輩のりかちゃんと彼氏がいた。すらりとした和風美人のりかちゃんが掛け持ちでこの店でもバイトしているのを知ってたのもあって立ち寄ったのだけど、りかちゃんは客席に座っていた。
「佐々木さん、髪の毛伸びましたねぇ。」
ちょっとぼんやりした笑顔でりかちゃんはとんちんかんな挨拶をした。りかちゃんとは先週も一緒にバイトに入ったばかりだ。その時から比べて、髪の毛が伸びているはずはない。
「えー、なにそれ。おはよう。今日は休み?」
「いやこいつ、ちょっと大変なことになってな」
りかちゃんと同棲している彼氏の田中さんが言った。仕事はできるけど気難しい人で、それほど話したことはない。
「実はこいつ、記憶喪失やねん。」
「はぁ?」
「いや、一年分くらいの記憶がないねん。」
「ええ!マジすか?」
 りかちゃんはのんきにアイスコーヒーを飲んで笑っている。困った顔してるのは田中さんだけだ。
「どういうこと?頭とか打った?」
「それがね、お風呂に入って貧血でまた倒れたらしいんですけど、それは覚えてないんです。とにかくバイト終わって疲れて家でちょっと寝て、起きたら全然知らない場所にいて、田中さんがいて。」
「風呂で倒れたんであがってから座布団のうえでちょっと横になってたんやけど、起きたらいきなりすごいびっくりした顔で俺に『あのー、調理場の方ですよね?』とか訊いてくんねん。話かみあわへんからいろいろ訊いたらなんか実家で寝てたはずで日付けは一年くらいさかのぼってて」
「はあ?じゃあ頭打ったからとかじゃないんですね?なに?りかちゃん田中さんのことっていうか、付き合ってること忘れてるの?」
私と田中さんは興奮して話してるけど当人のりかちゃんはどことなくぽけーっとしている。ともかく彼女はある日突然、彼氏と付き合い始める前の、一年前まで巻き戻ってしまっていたらしかった。この一年間のことをきれいさっぱり忘れている代わりに一年前のことは本当にまさに昨日のことのように覚えているというのだ。不謹慎ながら私は初めて身近に会う本物の記憶喪失の人に夢中になった。訊きたいことが山ほどある。このスタバでバイトしていることも覚えていなかったので、店の人に事情を説明するのに田中さんも一緒に来たらしい。何しろ教えてもらった仕事も忘れてしまって新人に戻ってしまっているのだ。
 訊きたいことは山ほどあったが病院には行ったらしいし(ストレス?かなにかが原因で一時的なものでしょうと言われたようだ)、あんまり面白がるもの悪いのでその日はコーヒーだけ飲んだら二人と別れた。
 私とりかちゃんは同じホテルのウエイトレスのバイトをしていた。そのことがあってからすぐにバイトの日が来たけど、やっぱり彼女は本物の記憶喪失の人としてみんなの度肝を抜き、話題をさらった。そして一年前の出来事を細かく話してみせることはできるけど、覚えたはずの仕事を忘れているので新人並みのことしかできないこともわかって黒服を慌てさせたりした。
 仕事が終わったら勿論私たちはりかちゃんを取り囲み、あらゆることで質問攻めにした。みんなが訊いてもわからないのは記憶喪失になった原因だったけれど、いろんな細かいことがいちいち私を含めたみんなの興味を引いた。
「家で寝てたはずやのに、目が醒めたら知らん部屋で、田中さんがいて、俺らはつきあってるとか言うんですよ。何月何日か聞いてびっくりしましたけど。」
 どことなくぼんやりした風情なのはちょっと気になったけど、仕事のほうはみんなでフォローして、じゃあ時給も一年前に戻すかとか軽口を叩いたりしながらなんとかこなして、私たちは悪いけど面白がって笑った。中にはこの一年間で新しく会ったほかのバイトで顔も名前も忘れられていたコがいて「はじめまして。」って挨拶されてショックを受けていたりしたけれど。
 そのうち、田中さんの話やりかちゃんの話を詳しく聞いていく過程で、おぼろげながら彼女の記憶喪失の原因はわかってきた。いや、そういうことでひとが記憶喪失になるものなのかどうかは神秘というか私には未だにわからないけれど、仮説は立った。
 りかちゃんは田中さんと付き合う前に短期間ほかの同僚と付き合っていた。その人と別れてから田中さんに告白されて付き合い始めたことは私も知っていたし、それについては「済んだことなのに今の彼氏がその前の同僚彼氏にやきもちを焼く」ということで悩んでいたり揉めたりしていたことも本人から聞いていた。
 その人と付き合ったりさえしなければ、けんかしなくて済むのに。記憶を失った当日も実はけんかしていたらしい。りかちゃんの後悔はピークに達して、そして、その前の彼氏と付き合うより少し前の一年前に自分だけ戻ってしまったようなのだ。
「忘れてること、思い出したい?」
私が訊くとりかちゃんは「ううん」と首を振った。
「欲しかったバッグはお金貯めたらしくてもう買ってるし、彼氏はできてるし、嬉しかったですよ。」
「じゃあいいか。あは。」
「はい、もういいです。」
できたらもう思い出さないといいのにな、私はのんきにそんなことを考えていた。りかちゃんは笑っている。できれば彼女がこのまま笑っていられるように。




wrote by (リンク)sasaq
http://d.hatena.ne.jp/sasaq/

実際にあった、いいのか悪いのかはよくわからないけれど好きな感触の話。名前は仮名に変更してあります。


(リンク)記憶喪失 - raurublock on Hatena
友人のお兄さんが大学時代、交通事故で頭を強打して、記憶喪失になったそうです。中学生から事故直前までの記憶が無くなって、自分が小学生だと思っている始末。自分の彼女が見舞いにきてもわからない状態だったそうで。

raurublockさんが耳にした、記憶喪失からすこしづつ記憶が戻る話。記憶が彼女と出会った時まで記憶が戻りそうになった時、母親と彼女はどんな様子だったのだろうかと想像しました。この設定というか状況、やがて記憶が戻るとわかっているので安心できるということも含み、とても興味ぶかいですね。