大学ボッチに1番向いてるのは茶道教室では?

大学ボッチが卒業して10年経って、通ってみて思った。
日日是好日の小説にも書いてあったけど、茶道には自由がない。ひたすら利休さんの境地を目指して、右足から入るとか、袱紗の扱い方とか全てが決まっている。でも茶道をしてると、人より上手くなりたい、個性的になりたい、いいかっこしたい、そんな気持ちから自由になれる。
これって大学とは全く真逆だからだ。大学は自由だ。でも自由は不自由である。行動、服装、色んなものを決めるのに、大学生とはこうあるべき、個性、人との差異、など色んなものに縛られなければいけない。大学に馴染むには、承認欲求に縛られるか、他人の眼や世間体を気にするか、そういう人しか馴染めない気がした。
自由が礼讃される世の中で決まりごとは窮屈なイメージがある。でもアドラー心理学の承認欲求を捨て、共同体感覚を得るという感覚。それはなにか決まりごとがあってこそ、辿り着けるものだと、茶道を始めて実感する。
大学ボッチだった頃、友達がいないことを恥ずかしいとは思わなかった。でも共同体感覚に飢えていた。それを茶道が今与えてくれる。

反自由民主主義

ツイッターを見てると、反安倍政権、とかフェミニストの反男はいったいいつまで続くのかとうんざりする。

確かに、何かが改善される時、例えば酷い家庭で育った人が、自分の子供のを同じ目に合わせないよう一生懸命、子育てしようとする時、今まで当たり前とされてきた通例を改善しようとする時、ポジティブなエネルギーが拡散される。江戸時代初期や二次世界大戦後もこれから戦争のない平和な社会というポジティブエネルギーに溢れていたらしい。もちろんそれは良いけど、そういったものが長続きしないことは、今までの経験上、明らかな事であり、そこに何か欠陥があるのではなく、世の中そういう風に出来ているものだと学ぶべきだ。

資本主義は人を進化もさせたかもしれないが、退化もさせた。まさにスクラップアンドビルドである。一般大衆に物欲やら出世欲やらを植え付けた。だから、子供を愛することこそ一番大事というとなんだかいい事言ってるようだけど、物欲やら出世欲に囚われてなかった昔の人には極々当たりまえのことだったのかもしれない。

ここ100年で人が一番退化した部分は、ユートピアらしきものを民主主義により現世で実現可能と思ってしまってる事で、デモやらボランティア活動やら得た1時的なポジティブエネルギーを継続させていつかユートピアに辿り着けるのではないかと考える人もいるが、それは勘違いだと思う。昔の人は世の中所業無情である事を悟っていた。が現代人は忘れてる。

自由は人を不自由にする。なんだか矛盾してるみたいだけど、人は自由にされるほど、他人との比較に囚われる。規則で縛られるほど、他者との比較から解放され、マイペースで生きられる。ということを最近茶道から学んだ。

西洋人は芸術でも何でも、新しいもの革新的なものを好む。でもそれはただ同じ粘土をひたすらこねくり回しいるだけ気がする。西洋には文明の最先端でなくてはならないという意識なのか、ピカソみたいに奇抜な方向に進むが、東洋では昔に偉大な芸術家の境地に自分もたどり着きたいというのがモチベーションになっている。これは夏目漱石草枕参照。

人がもっと規則で縛られたコミュニティの中で暮らせれば、無駄なツイートなんかせず、もっと幸せに暮らせるのではと思った新年。

永井荷風とアドラー心理学

明治時代に生まれ大正、昭和に活躍した文豪、永井荷風の小説「濹東綺譚」ぼくとうきたんを読んだ。西洋化、近代化、資本主義化していく日本に嫌気が差した主人公の作家(永井荷風自身)が江戸の名残を匂わせる娼婦「お雪」に入れ込む話。話の最後の方でこんなくだりがある。

「スポーツの流行、ダンスの流行、旅行登山の流行、競馬他博奕の流行、みんな欲望の発展する現象だ。この現象には現代固有の特徴があります。それは個人がめいめいに、他人よりも自分の方が優れているということを人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている。―その心持ちです。優越を感じたいと思ってる欲望です。明治時代に成長したわたしにはこの心持ちはない。あったところで非常に少ないのです。これが大正時代に成長した現代人とわれわれの違うところですよ。」

もろにアドラー心理学的視点ですね。会社に行くと思うことは、逆で昭和に育った人間には、車、恋愛、結婚、仕事において自分はひとより優れていると示したいという気持ちが強い。これが平成育ちとなるとぐっと少なくなる。

つまりアドラー心理学ブームというのは、ほんとうに100年ぶりに明治以前の価値観に戻ろうとしているそんな現象なんだな・・と思うのである。(大正元年は1912年)

ぼく東綺譚 (新潮文庫)

ぼく東綺譚 (新潮文庫)

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

春画が予想以上に面白かった。

何が面白かったって江戸時代のフェミニズムであった点である。春画本のほとんどはパロディであり世の中に対する皮肉であった。当時、発禁本であり裏ルートで出版されていたらしい。

例えば江戸時代に女子教育のための教科書として「女大学宝箱」という本があった。儒教の基づいて書かれた本で、平たく言えば「女は自己主張してはならず、人生を楽しむ事は控え、舅、姑、夫の言うことには忠実にしたがいうべきである。」という趣旨の本である。それに対し「女大楽宝開」という春画本が書かれている。もちろん「女大学宝箱」に対する皮肉である。
女大学宝箱では「結婚生活において大事な事、それはまず舅姑に気に入られることであり、舅姑の教えには決して逆らってはならない。それが幸せな結婚生活を続ける秘訣である。」それ対し、女大楽宝開では「結婚生活において大事なこと、それはまず色道である。色気と愛嬌を失わず、幸せな性生活を続けることこそ、幸せな結婚生活を続ける秘訣である」

当時の時代背景を考えると、女大楽宝開が書かれたのは徳川吉宗の次の徳川家重、江戸時代が始まり100年つまり平和な時代が100年続いた頃の話である。平和な時代が続くと男が威張っていた戦争の時代とは変わってくる。しかし当時の時代背景を考えると女が自立して生きていくことは難しく、親の決めた結婚相手のところに嫁に行くしかなかった。当時の女の幸せ、楽しみとは何か・・それは性生活を楽しむことだったのである。

その他、家庭用の医学書として「医道日用重宝記」という本があるが、それに対して「艶道日夜女宝記」という春画本が書かれている、前者には当時の医学に基づいた健康、体操の方法などが描かれてるが、性については一切書かれていないそれに対し後者の春画本にはセックスの時はどの様に快感を得るべきか、また女が自慰をする際、どんな道具を使い快感を得ると良いかまで書かれている。

200年以上前(1700〜1750年頃)にこんな本が書かれていたと思うと本当に笑える。開国して戦争に巻き込まれキリスト教系の堅苦しい教えに戻ってしまうのだが・・・

そもそも文明はサイコパスが作った?

「格安居酒屋ができたのは、サイコパスが作った企業の恩恵である。アマゾンが欲しいものをすぐに届けてくれるのは、サイコパスが作った企業の恩恵である。iPhoneができたのは、サイコパスが作った企業の恩恵である。」
それでもサイコパスが世界を廻す - 珈琲をゴクゴク呑むように
そう、世の中の便利なシステムは皆サイコパスの経営者が務める企業の恩恵である。でも突き詰めて考えると、もしかしたらインターネット、電気もガスも水道も以前サイコパスの人たちが作った・・いや作らせたのかもしれない。今住んでる快適な家も電車や車も作った職人さんやエンジニアの人はいい人だったかもしれないけど、元々の作らせた経営者は多分サイコパスだったんじゃないだろうか?だってこんなに快適なんだから・・
「人間だけが労働するのは、人間の消費する量が自然からの贈与分を超えたからです。石器時代までは、自生するバナナを採ったり、皮で泳ぐ魚を捕まえたり、野山の獣を狩ったりするくらいで食料源としては十分だった。狩猟や採取や漁労じゃ「労働」と言えるほど体系的なものではありません。ですから1日のうちごくわずかな時間しかそのためには割きません。石器時代の労働時間がどれほどのものであったかについては、レビストロースの「悲しき熱帯」を読むと想像がつきます。マトグロッソインディオの集団ですけど、食料を集めるための労働は2、3時間くらい。あとはごろごろしてるんです。おしゃべりしたり、入れ墨をいれたり、髪を編んだり、呪術儀礼をしたり、昼寝をしたりして過ごしてる。」(困難な成熟、内田樹これを読んで思った、、稲作ってサイコパスが始めたんじゃないだろうか?サイコパスが文明を作ったんじゃないだろうか?国の支配者は皆サイコパスだった。始皇帝とかチンギスハンとか源氏も平氏織田信長豊臣秀吉徳川家康も・・我欲のために人をいくらでも殺せる人物だから王になれた。でもそういう人物が文化を作り、他国を征服しようとするから文化交流が始まったのではないか?

私は、世の中から戦争やブラック企業や虐待をなくしたいと思ってる。多分99%くらいの人は真剣に考えたことがなくても、そう思ってる。そこで、2つの大きな疑問を持った。
他の動物は、決して自分が生き延びる以外の目的で必要以上に働いたり、他の生き物を傷つけたりしない。なぜ人間だけが、必要以上の労働や戦争等により傷つけあうのか?
なぜ企業や政府のリーダーは人から尊敬されるような人物ではなく、サイコパス的人物なのか?

でも、もしかしたら、人間が脱動物を始めた文明を持ったその時点でリーダーや支配者はサイコパスだったのかもしれない。いや動物にはサイコパスがいないけど、人間にはある時点で何かの変異で必要以上に他人を傷つける、必要以上のものを欲しがるサイコパスが生まれた。そしてそれが文明を作ったのだ。
民主主義だって、元々フランスで民衆を国民として戦争に参加させたほうが、戦争に圧倒的に強かったから始まったものだ。まさしくサイコパスの創造物。

そう考えると、我々一般市民が、サイコパスの支配者、経営者を倒し理想郷を作るという青写真は描けない。支配者、経営者はサイコパスだ。それはもうあきらめるしかない。そのなかでどれだけマシな世の中を作れるのか・・それを考えていかなければいけないのかもしれない。

困難な成熟

困難な成熟

幸せになるには勇気がいるし、怒りが伴う

と最近思う。ここ1年仕事の環境がめちゃくちゃ良くなった。休める。寝れる。食生活も健康そのものだ。

私はもちろんこの幸せな環境をめいいっぱい活かしたいと思う。でも、本当に幸せになるっていうことは勇気がいるし、怒りが伴うものだとも思い知らされている。幸せになる・・というのは過去が不幸だった事を認めなくてはいけない作業だからだ。

休みを活かして、読書会や盆栽教室に参加している。引っ越した地元にも顔見知りが出来たし、何かコミュニティに参加してるという感覚がある。充実してる、幸せだ・・と思うと、過去の充実していない不幸な日々を思い出さなくてはいけない。機能不全で感情を麻痺させてた実家での日々、1日誰とも話さないのが普通だった欝そのものだった大学生活、数年前の1年のうち日曜休みが半分もないような会社生活。勇気を出して認めなかればいけないのだ。不幸だったこと、時間を失ったこと。そしてそのことを怒らなければいけないのだ。でないと幸せになることはできない。幸せなるには環境が整うだけではだめなのだ。

※読書会と盆栽教室は本当に面白いのでオススメ。読書会は区民センター等借りれば、安く開催できるし休みの日に人と交流するにはもってこい。盆栽もやればやるほど奥が深い、渋いイメージがあるかもしれないが、若い人にも1度体験してほしい。

知性主義は引き継がれなくなった。

私は学生時代、いわゆる音楽ヲタだった。ロッキンオンとかスヌーザーみたいな雑誌を読み、カラオケじゃ歌わないヒットチャートには上らないような音楽ばかり聴いていた。

当時好きだったatari teenage riotというアーティストがこんな発言をしていた。
「俺の好きだったアーティストには必ず主張があった。でも企業の音楽は絶対そういう主張をしない。聴いてる人が「なぜ俺はこれに惹かれたんだ。なぜ俺はこれをクールだと感じたんだ。政治のせいか?国のせいか?親のせいか?教育のせいか?性別のせいか?俺は何をしてるんだ?」って考え始めたら企業にとって悪夢だからな」

当時としてはこれが知性主義/反知性主義との分かれ目だったのだと思う。1番有名な例を引き合いに出せば、レディオヘッド浜崎あゆみみたいなのが、1番わかりやすい知性と反知性だった。そしてロック雑誌を読むと過去の偉大なバンドとして自分が生まれた1981年前後だと、クラッシュ、トーキングヘッズさらに10年前だとデビッドボウイなんかが当時として知性主義的な音楽であり、当時のヒット曲としてピンクレディ−とか松田聖子とかが反知性主義だったのかもしれない。生まれた前後なのでよく分からないが・・

そこで思うのだけど、レディオヘッド以降、知性主義を代表するような音楽は現れてない。スヌーザーは廃刊したしロッキンオンの表紙は過去の偉大なロックバンドばかり・・でもAKB48とかエグザイルみたいな反知性主義はしっかり受け継がれてる。先日20代前半のマイルドヤンキーっぽい女の子とカラオケする機会があったのだが、浜崎あゆみとかモーニング娘とかの曲も知ってて、何故かというと小さい頃から親とカラオケ行ってるから・・だからマイルドヤンキーの子は上の世代と似た感じのAKB48とかエグザイルなんかが人気が出るのだろう。

でもこうも思う。ポップミュージックは元々反知性主義だったのだ。ジャズだったり現代音楽だったり、芸術として優れた音楽は沢山あるなかで、誰にでも聞きやすくしたポップミュージック、それは反知性主義であり、それに芸術的要素を加えてちょっと聞きづらくしたのが、レディオヘッドのような知性的音楽だったのだ。だから知性的であろうとする人々は最終的にポップミュージックを聴かなくなったのだ・・と。

最近の音楽チャートがひどすぎると話題だが、これはポップミュージックがたどり着く必然なのだ。
小説にも同じようなことが言える。昔は村上春樹を読む人は知性的な人だった。でも今は・・もし何かを主張したいなら訴えたいならそれを直に新書にして出せば良い。わざわざ小説にする意味があるだろうか?村上龍が「この小説で何を訴えたいのですか?と聞く人がいるがそれが言えれば小説なんて書いてません」でも今の大衆は知性的であるならそれにしか興味ない。

そう言いつつも私の学生時代の楽しみは音楽を聴き、小説を読むことだった。学校を卒業するくらいから音楽も小説もあまり楽しくなくなり、私の知性主義はアドラー心理学により人間の行動欲求の根源は「承認欲求」というところに達した。もし私が今の大学生だったら退屈すぎて生きていけない。

知性主義の人達はもうあまり言いたいこともないし、することもないけど。反知性主義は前世代からしっかり文化を引き継いでいる。それが今の日本の現状なのかと思う。