表現とか 2

ふと、松田聖子が聴きたくなって、しかも「青い珊瑚礁」であって、聴いて、いいなあと思う。「風立ちぬ」も、良かった。YouTube
中森明菜がこの曲をモノマネしている映像があって、歌もモノマネも上手いし、なにか気さくで親しみやすくて、彼女の曲のイメージとは全く違う魅力に驚く。
石川ひとみの「まちぶせ」なんかも聴いてしまう。この方を数年前にテレビで見たけれど、いまだに大変お美しかった。この曲を名曲というのには気が引けるが、名曲か。
高田みづえの「私はピアノ」も聴く。ここ数年お気に入りだ。
しかし、石川ひとみ高田みづえも聖子、明菜にはちょっと及ばない。
あ、でも、薬師丸ひろ子の「Woman」だったかな、「Wの悲劇」の曲、歌は上に出てくる人たちよりさすがに下手だけど、なんというか、名演。
これらの、消費されるための音楽、アイドル、つまりは性的な欲求の発露を横目に消費される表現(ということばはひどすぎるとは思うが)・・・なのに、なんという切実な美しいものか。


ラジオでRCサクセションの「雨上がりの夜空に」を聴いたが、シングルヴァージョンなのか、アレンジが軽い感じで、少し興ざめ。アルバムはライブヴァージョンだったのか。
同じ頃のRCでも、「トランジスタ・ラジオ」になると、軽い感じに違和感がない。


AKB48前田敦子も「風立ちぬ」を歌っているのがYouTubeにあり、見てみたが、何か値がない感じがしてしまった。ファンの方が読んで不快になったら失礼した、が、それは松田聖子中森明菜がすごいと思ったからで、前田敦子というひとも、そこそこに優れたパフォーマーなのだろう。が、中森明菜が「聖子ちゃんのアルバムを全部持っている」と言ったその後のモノマネのキュートな上手さというのは、今見ると、見ていて少し泣けてくるような、優しくなるような気分だった。その後に前田敦子を見ると、正直、イラっと来るというか・・・。
ふと、松田聖子は、中森明菜はどれだけ幸せであり得たのか、などと思う。中森明菜のその後については松田聖子の半分ほども知らないが、かつての大スターのその後としては切ないものだったんじゃなかったか。なんだろうなあ、こういうのは・・・。松田聖子が後悔しているなどと言わない気もするが、彼女が幸せだったかどうかも知らない。しかし彼女はそういう次元の人でもない感じもする。
前田敦子などどうでもいい気もするが、松田聖子のデビューした頃などは、山口百恵などと比べられたのだろうか。あとは、美空ひばりなどとも・・・。そういえば、桜田淳子のコンサートのトークなんかをラジオかなにかで聴いたのだったか、ちょっと忘れてしまったが、完璧に楽しめるプロのトークだった気がする。あ、レコードだったか・・・。


パフィーの「渚にまつわるエトセトラ」を聴いてしまった。これはまた、全く異質な世界の出現だったかもしれない。
ファンキーなアレンジ、と、言っていいのか。ディスコのビートなのだろうか。
歌唱力が何とかいうよりも、突き放したという言葉はあわないか・・・放り出したというか、それがしかし極めて良質な表現になっている気がする。
とりあえず、木村カエラについては書かない。パフュームについても。


とある美術評論家が、マイケル・ジャクソン・・・じゃないか。プリンスやマドンナに比肩する表現が美術に存在しないというようなことを書いていたのを、何年も前に読んだ。大きな書店で立ち読み。なんとなく納得した。
パフィーに比肩する日本の美術は・・・。
先日何気なく、絵が上手いヤツがクラスのヒーローにはなかなかならないかなあ、それはしょうがないのか、でも、アメリカではもしかしたらアンディ・ウォーホルがヒーローだったことがあったのか、なかったのか、なんてことを考えたのを思い出した。玄関まわりの草むしりをしていて、ふとそんなことを考えた。


ジュディ・アンド・マリーを思い出した。「そばかす」は、なんのアニメの主題歌だったか。私が教員だった頃、担任のクラスの悪い方に分類された女子がこの曲を好きだったらしく、その話を知ってからとても悪い子に思えず、そういう子にしてはなぜか珍しく私に親しみを感じてくれていた気がする。それはまあ、単になめられていたのに気付かなかったんじゃないかと誰しもが思うだろうが、たぶん、違うだろう。

風立ちぬ

風立ちぬ

ラプソディー

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JET CD

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THE POWER SOURCE

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