ただいま おかえり いってきます サンプル

1.ファースト・インプレッション

 仕事に疲れ帰宅した彼がドアを開けると、暖かい部屋の中は緩やかなリズムで満ちていた。
 まな板の上で野菜が刻まれていく音は、四分音符の軽やかさで彼を迎える。それは彼が少年の頃から聞きなれた、彼女が奏でる音楽の一つであった。
 器用な彼女は、家事の全てを音楽にしてしまう才能を持っていた。その才能は彼の頬を緩ませる効能を持っている。
 彼は軍服の詰まった襟元を緩めながら、己のオンとオフを切り替え、穏やかな笑みを浮かべる。

 遥か昔、まだ少女であった頃から、彼女はとても器用な女の子であった。
 父親と二人暮らしの家庭の中で、幼いながらも彼女は料理や洗濯などの家事全般をそつなくこなし、その上で、きちんと学校にも通っていた。人より自由になる時間も少ない中、学業でもそこそこの成績を修め、家事だけでなく父親の弟子の面倒まで見てしまうのだから、まったく大したものだと感嘆せざるを得ない。
 黙々と家事と勉学に励み、ホークアイ家という一つの単位を取り仕切り、気難しい研究者である父親の機嫌を損ねぬよう気遣いの行き届く、まるで子供らしくない子供だった。

 その一方で少女であった頃から、彼女は今以上にとても不器用な女の子でもあった。
 あまり笑顔を見せないどころか、表情の変化の乏しい子供であった。素直な感情の発露の方法を知らず、怒りや哀しみや様々な感情を飲み込むことに慣れ、自分を律することばかり上手な、まるで子供らしくない子供だった。

 彼と彼女との出逢いは、春まだ浅いある日の夕暮れ時であった。
 彼女と初めて会った時、どんな会話をしたか、彼はまったく覚えていない。ただ、その日はとても風が強く、寒さで鼻の頭を赤くした幼い少女が、まるで彼の養母の様な大人びた口調で彼を師匠の書斎まで案内してくれたことだけが、強く彼の記憶の中に刷り込まれていた。
 恐らく彼女の方でも、幾人も迎え入れた父親の弟子候補の内の一人としか、彼の第一印象を覚えていないだろう。彼を案内した彼女は、あっという間に姿を消してしまったのだから。

 共に歩む人生の始まりは実に平凡で、呆気ないものだった。
 だが、所詮、人生などとはそういったものである。運命の出会いなどというロマンティックなものは、往々にして想像の中にしか存在しないものであるのだから。
 台所から聞こえるリズムに耳をそばだてながら、彼は過去に想いを馳せ、アパートメントの扉を静かに閉めた。

         §

 コツコツと、リズミカルにドアをノックする音がする。
 マスタングは描きかけの構築式から血走った瞳を上げ、壁の時計を見上げた。短針と長針が重なった時計は、彼に日付の変更を知らせている。
 彼はあまりの時の流れの速さに、驚きと焦燥を感じた。もうこんな時間であるというのに、先程から彼の頭脳は構築式の同じ場所で、堂々巡りを繰り返している。彼は苛立ちを覚えながら、手元の構築式をぐしゃぐしゃと黒く塗り潰す。
 焦っても仕方がない。彼は自分に言い聞かせるように頭の中でそう唱えると、苛立ちを表に出さぬよう気をつけて、部屋の扉を向かって返事をする。こんな時間に、この家の客間の扉を叩く人間は、一人しかいない。
「どうぞ。開いているよ」
 彼の予測どおり、そこには短く髪を切り揃えた少女が、ニコリともせずに立っていた。
「夜分に失礼します」
「なんだい、リザ?」
 マスタングの問いかけに彼女は無表情に、手に持ったサーバーを胸の高さまで持ち上げて、彼に示して見せながら言った。
「父に珈琲を淹れ直したのですけれど、マスタングさんも飲まれますか?」
「ああ。ありがとう」
 マスタングは無理に微笑を浮かべると、ほとんど空になったカップを取り、僅かに残っている冷めた珈琲を一息に飲み干した。
「ご馳走様。美味しかった」
 律儀に礼を言うマスタングの言葉に特に答えるでもなく、リザは黙って部屋に入ってくると、彼が差し出したカップを受け取った。
 彼女が熱い珈琲をなみなみとカップに注ぎ足すと、強い芳醇な香りが部屋に満ち、マスタングはその心地良い空気にふっと大きく息をついた。新鮮な空気と豊かな香りは、彼の表情を少し緩ませる。
 そんなマスタングの様子を横目に、机上にカップを置きながら彼女は言う。
「お夜食がご入り用でしたら、冷蔵庫の最上段にサンドイッチが入っていますから、ご自由に召し上がってください」
 そして彼女はマスタングの返事も待たずに、ぺこりと頭を下げると、さっさと踵を返して立ち去ってしまった。
 忙しない少女の後ろ姿をぼんやりと眺め、彼は淹れたての芳しい珈琲を口に運ぶ。すると、そこには普段は入っている筈のない、僅かな糖分が感じられた。夕食をとっていないマスタングへの、彼女なりの気遣いなのだろう。熱くて甘い珈琲は、煮詰まっていた彼の神経をじんわりと解きほぐしていく。
 まったく、頭が上がらない。マスタングはゆっくりと珈琲を味わいながら、微かに苦笑した。

 彼女はいつだって、まるでマスタングが珈琲を飲み終わるタイミングを見計らったかのように、熱い珈琲の入ったサーバーを持って姿を現す。
 師匠に珈琲を持っていくというのは嘘ではないだろうが、彼女が同時にマスタングのことも気に掛けてくれているのは間違いないだろう。それなのに、彼の礼の言葉に頓着するでもなく、事務的に淡々と己の仕事をこなしてく彼女の姿は、まったく彼より年下の少女とは思えないものであった。
 この家に慣れた今となっては、彼女の驚くほどに細やかな気配りと愛想の欠片もない表情のギャップが面白いと思えるようにもなったが、この家に弟子として出入りするようになった当初、マスタングは彼女の少女らしからぬ、否、女らしからぬその寡黙さに驚かされたものだった。
 夜の商売を生業にする養母を持った彼は、幼い頃から様々な女を見て育ってきた。
 そんな彼にとって、女という生き物は甘え上手で賑やかで、少し哀しいものだと認識されていた。
 養母の店で働く女たちは皆一様にかまびすしく、表では陽気に男を手玉に取り、裏ではつれない男の為に愚痴と共に涙を流して生きていた。
 儚く、逞しく。しなやかに、したたかに。
 人生の表舞台においても楽屋においても、彼女達からは常に豊かな感情が溢れ、言葉が、表情が、彼女達を鮮烈に彩っていた。
 勿論、学校に行けば彼と同じ年齢の少女たちと話す機会もあった。少女であるところの彼女らは、水商売の女たちよりも更に賑やかに、無邪気さをもってその感情を解放していた。彼は自分と違う生き物を見る目で、泣き、怒り、笑う彼女たちを眺めた。きっと、彼女たちも大人になれば、養母の店で働く女たちのようになるのだと思いながら。
 そのような特殊な環境で育ったお陰で、彼は少し大人びた視点で女というものを見るようになっていた。だが、そんなマスタングの目から見ても、リザという少女の姿は、全く分類の仕様のないものであった。
 まだ少女であるというのに、リザは驚くほどの無表情を保ち、感情を表に出さない娘であった。否、表情だけではない。師匠の教えなのか血筋なのか、彼女は全くと言って良いほど、無駄口をきくことがなかった。その証拠に、ホークアイ家に弟子として出入りするようになって半年、彼は未だ事務的な会話以外に彼女と口をきいた覚えがない。
 不思議な娘だ、と彼は思う。だが、それが彼女の他人との距離の取り方であるのなら、それは尊重するべきだとも思う。
 だから、彼はリザの仕事の邪魔をしないように、常にほんの少しの距離を置いて彼女と接するようにしていた。
 それは、養母の商売に関わる見知らぬ大人たちが頻繁に出入りする環境で育ったマスタングの処世術であった。大人の世界には、見て見ぬふりをしたり、気付かないふりをしたりせねばならないことが往々にしてあることを、彼は知っていた。
 それに、士官学校への進学を目指すマスタングは、錬金術の修行と並行して学校に通う必要があり、常にホークアイ家にいるわけではなかった。
 彼は週末だけの居候として師匠の家の客間を借り、一昼夜をかけてみっちりと錬金術の世界に没頭するというサイクルを繰り返していた。
 師匠の教えは基礎に忠実で、とても丁寧なものであった。だが、それは一方的に彼が教えを乞う形式ではなく、彼の自主性に任せたものでもあった。彼は与えられた書架の中から、自身で課題を見出し師匠に提示せねばならなかったのだ。
 彼が師匠から閲覧を許されたのは、広い書庫の中のたった一架の本棚であった。だがほんの七段程のその棚の中には、驚くほど膨大な知識の海が広がっていた。マスタングは週末毎にその海にどっぷり頭まで浸かっては、拾い上げてきた疑問を師匠に投げかけ、ディスカッションを繰り返した。
 学校の授業とは全く違う、自由でありながら自分からアクションを起こさないと何も始まらないその手法は、とても厳しくて容赦のないものであった。マスタングの中に眠る才能を試すような師匠のやり方に、彼は必死に食らいついた。
 溺れかけた人間が酸素を求めるかのように、彼は凄まじい勢いで知識を求めた。週末という短い刻限の中に無駄にする時間は一時もなく、彼は眠る時間さえ惜しむ程であった。
 一心不乱に修行に励む弟子を、師匠の娘が邪魔をする筈もない。
 その結果、マスタングの方からも、リザの方からも踏み越すことのない、見えないラインが二人の間に引かれることとなった。
 それが出逢って半年の彼らのルールであった。

 リザに珈琲のお代わりを淹れてもらったこの日、マスタングは師匠とのディスカッションに向けて、客室に籠もりきりで必死にひとつの構築式と向き合っていた。
 この日の午後、彼はある興味深い練成陣を師匠の書庫で見つけていた。午後以降、彼は食事もとらずに、この構築式に夢中になっている。
 それは、錬金術の教本の最初のページに載っていそうな程シンプルな練成陣であった。修業を始めたばかりの頃のマスタングであったなら、そのシンプルさ故にそれを基礎問題だと見間違えて、一顧だにしなかったであろう。
 だが、大量の文書が溢れる本棚の片隅に、忘れられたように仕舞い込まれていた紙束に描かれたそれは、見れば見るほど彼を魅了するものであった。彼はその紙束を部屋に持ち帰り、詳細な分解作業に入った。
 コンパスと定規で正確なその線分と円との比率を計算しながら、マスタングは改めてその陣の凄まじいまでのエネルギー変換率と、恐ろしい程の才能によって作り上げられた緻密さに震え上がった。その練成陣は、想像できない程の情報量をその小さな円の中に隠し持っていたのだ。
 だが、調べれば調べるほど、彼はその練成陣に首を傾げざるを得ないことに気付く。
 この錬成陣の中には、何かが足りないのだ。
 彼には、それが何なのかが分からない。でも、この美しい円の中には、描き足されるべき何かが絶対にある筈だった。それがあって、初めてこの練成陣は完成する。その何かを求めて、彼は必死になっていた。
 彼は今まで、自分はそこそこ錬金術には秀でている方だと思っていた。それなのに、こんなシンプルな構築式が解けないのだ。シンプル過ぎて、完璧過ぎて、これ以上何を足して良いか分からない。こんなことは、生まれて初めての経験だった。
 これ程までに美しい構築式を目の前にして、それを解くことが出来ないと言う悔しさに、マスタングは歯噛みした。完璧な世界に手が届かない歯痒さ。解けそうで解けないもどかしさ。マイナスの感情は、彼の集中力の邪魔をする。その度に、構築式を綴る手が止まった。
 それでも彼は、この美しい謎を自分自身の手で、どうしても解き明かしたかった。どう見ても、それ程難しくはなさそうな構築式を解くのに師匠の手を煩わせるのは、自分の無能を露呈するようで恥ずかしかった。彼の小さなプライドを刺激するその練成陣に、彼は己の知識の全てをぶつけた。
 まるで自分で自分を追い詰めるように、彼は小さな円形の世界の中に没頭していた。

 そんな小さな世界の中で、煮詰まって煮詰まって、どうにもならなくなっていた彼を、いつもの世界へと引き戻したのは、彼女が淹れ直してくれた一杯の珈琲だった。
 芳しい珈琲の香りは、まるで、彼に肩の力を抜けとでも言っているかのようであった。そして、いつも変わらぬリザの無表情は、それだけで彼に平時を思い出させた。こんな幼い少女が落ち着き払っているのに、自分だけが焦燥に振り回されて感情を乱していることが彼に羞恥を感じさせた。
 すとんと肩の力が抜けたマスタングは、焦って先走りすぎた自分の視野の狭さを笑った。
 そうなのだ。彼はこれを自分で解けなくても構わないのだ。分からなければ明日のディスカッションの時間に、これを解けなかったという事実をそのまま師匠に言って、素直に教えを請えば良いだけの事なのだ。どれほど基礎的な問題であろうとも、師匠は懇切丁寧に教えてくれる人なのだから。
 それに。
 珈琲に入っていた僅かな砂糖の甘みに空腹中枢を刺激され、ぐぅぐぅ暴れ出した腹の虫を押さえ、マスタングは笑った。血糖値の下がった栄養の足りない頭で何か考えたところで、空回りするのは当たり前なのだ。
 あまりに完璧すぎるリザの先回りにもう一度苦笑したマスタングは、彼女の気遣いに甘えて夜食をとるために、椅子から立ち上がった。
 冷蔵庫には、彼の好物のサラミソーセージとレタスを挟んだサンドイッチが用意されていて、彼は感謝と共にそれを平らげたのであった。