小田和正

言わずと知れた元オフコース
オフコース時代に実は一緒のステージに立っている。
”猫”というフォークグループが解散し、そのボーカル、田口清とツアーを回ることになった。
ユイ音楽工房という事務所が原宿表参道と明治通りの交差点のビルにあった。
(この事務所は吉田拓郎南こうせつ、などが設立した、その後フォーライフというレコード会社までつくった。)
その当時私はウッドベース、弘太郎はアコースティックギター、と田口氏のギター。
田口氏はユイの所属。
この時代年末は(大晦日)武道館で”来年もよろしく”というユイの歌手全員出場のコンサートをしていた。
わたしも3,4回出させてもらった。
(その武道館では、たしか飛行場という曲では弓も弾いていたと思う、何か響き渡ってとても気持ちよかった。)
田口氏とはいろんなグループの前座というかたちでたくさん仕事した。
オフコースとは随分いろんなところをまわった。
楽屋ではジャズブルースをラン二ングで弾かされたり、セッションしたりしていた。
そのうち田口氏の人気も出、だきあわせで2枚看板でもやるようになった。
その時、浜田省吾庄野真代、長淵剛、サザン、などと一緒にやった。
浜田省吾はまだギター一人連れているだけ、長淵は弾き語り(今でもそうか、たしか順子という切ない歌を歌っていた)そんな時代。
サザンはまだ”勝手にシンドバット”がヒットする前でも、レオンラッセルのヤングブラッドなどを演奏し客を無理やりのせていた。
それでも全員がのるまでやめないというエネルギーはすごかった。
今では小田和正といえばドル箱スターだ。
その小田が年末吉田拓郎、若手アーティストなどと共演していた。
監修もすべて小田。
とてもよかった。
拓郎に対しても、仕事以上に気を使っていたし、リスペクトしているなと感じた。
また全部は観ていないが、ミスターポストマンなどはクオリティーの高い演奏とコーラスだった。
日本人もここまできたかと、嬉しかった。
急にバーボンロックが飲みたくなって、街に出た。