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2009-01-11
エリアス・カネッティ『眩暈』
- 作者: エリアス・カネッティ,池内紀
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 1972/11
- メディア: 単行本
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二段組みで500頁の大著だが、この本を一言で表せ、と言われたらとりあえず「変態小説」と答えるしかないような気がする。日本語のヘンタイではなくて、中国語の biantai。登場人物がみな自分の中だけで完結した世界に生きているような具合で、あらゆる意味においてすれ違っている。
カネッティ(1905〜94)はブルガリア生まれのユダヤ人で39年にイギリスに亡命している。ブルガリアには、15世紀にスペインを追放されたユダヤ人がもたらした古スペイン語がそのまま残っている地域があるそうで、その子孫であるカネッティもその言葉を母語とし、ついで英語やフランス語も学んだそうだが執筆に用いたのはすべてドイツ語であった由。その文体に何か特徴的なものがあるかどうかは分からないが、この『眩暈』は主人公が中国文学者なので「かくして死せるテレーゼが生ける《盲人》を走らした」なんて言い回しが出て来たりする。もっとも、カネッティが本当に孔明と司馬仲達の故事を踏まえてそう書いたのか、偶然の一致かあるいは翻訳の過程でそうなったものかは分からないが。
中国文学者のキーンは学校で教えたりはせず、家で書物に埋もれて論文を書くのをもっぱらにしている。そこにつとめる住み込みの家政婦が「ちゃんとした」が口癖のテレーゼ。彼女は「まだ四十八歳にもなっていない」時に彼の家にやって来て、それから八年ということなので五十五、六歳くらいなのだろうが、本人は「どう見てもたかだか三十歳」と思っている。この二人がちょっとした誤解から「善ヲ見テコレヲナサザルハ勇気ノ欠如ナリ」と結婚してしまったところで、話はややこしくなる。
キーンは書物さえあればあとは何でも良いといったタイプの男で、結婚していようがいまいが自分の生活に変える点があるなどと想像だにしない。しかしテレーゼは、もはや家政婦ではなく妻となった以上、ちゃんと部屋には家具を置き、せっかくのレースの下着を無駄にしないよう夫にも毎日ベッドでかわいがってもらうことを期待する。そして何より大事なのは、書物なんて無駄な物に金をつかうことをやめさせ、貯金通帳を自分が取り上げることだ。
キーンの遺言作成での場面で、互いにすれ違ったまま進行する夫婦の会話は抱腹絶倒もの。テレーゼはキーンが前に書き上げた遺言状の額面にこっそり0を書き足し、さあ公証人のところへ行こうと呼び立てる。家具屋の「興味ある男」グロープさんはきっと目を丸くすることだろう、と自分の妄想上の恋人にその金を渡すところを想像して、それを口走ってしまう。キーンはそれを聞いて、てっきり「興味有る男」とは縁者でテレーゼに遺産を贈与してくれたものと思い込み、さっそく書物購入の皮算用を始める。
一事が万事この調子で、誰もが他人の話から都合の良い言葉しか聞き取らず、周囲の人間はみな自分の狂妄のしもべだと確信している。やがてテレーゼはキーンを追い出し、キーンはホテル住まいをしながら家に残してきた蔵書の埋め合わせとなるよう本を買い続ける。そのうちにテレーゼはひとり閉じこもって死んだものと信じ込むようになり、ぴんぴんした彼女が現れてもその存在を信じようとしない。各人の内に展開されるストーリーは、あちこちにその矛盾を露呈させているが、それを解きほぐしきれいに梳きとるような登場人物は現れず、物語にいっそうの混乱を付け加えるばかりだ。最後にようやくキーンの弟、精神病医のゲオルグ(もしくはフランス風にジョルジュ)が現れて混乱状態が収束に向かうかと思いきや、キーンは書斎の絨毯に火をつけてもっとも恐れていたはずの火災を自分の手で起こし、炎に巻かれて哄笑しつつ人生の幕を閉じる。
とんでもない話のようでもあるが、こういうぐちゃぐちゃにすれ違った世界というのは、実はごく普通の日常の場面がこういうものなのかもしれない。誰もが自分の人生では主役であって、自分が他人の生活の脇役にすぎないなどと思っていはしまい。
