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2009-06-05
小林茂『チョコラ!』
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2010/05/29
- メディア: DVD
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ヴェーラから階段を降り、ユーロスペースで小林茂『チョコラ!』(公式サイト)鑑賞。シネマヴェーラとユーロスペースはポイントカードが共通なので、学生料金800円のヴェーラで貯めて下で使うのが吉。
ケニアの地方都市ティカ(ナイロビから車で一時間くらいだそうだ)に暮らすストリートチルドレンを撮ったドキュメンタリー。ナイロビのイメージで大都市を想像したが、人口10万程度のティカは田舎町という雰囲気。都市と農村の暮らしの差は相当に大きいようだ。「拾う」ことを意味する「チョコラ」と呼ばれる彼らは、両親と死別・離別した子供たちかと思っていたら、実際に焦点を当てられるのはむしろ家出少年が中心だった。
モヨ・チルドレン・センターという日本人女性が設立したNGOが関わる子供たちが次々と画面に現れる。もちろん松下照美さんという代表者にも取材しインタビューも重ねているのだろうが、彼女がカメラに向かって話す映像は一切出て来ない。ただ子供たちに向き合い、保護者や学校の先生、または別の支援センターの関係者と話をする姿が写されるだけだ。運営している孤児院の様子も映るが、入所できるのは両親のいない子供たちに限られている。
路上の暮らしには危険もあるだろうし、シンナーを吸い始める子も多い。それでも、村から何度も家出を繰り返し路上に暮らす子供もいる。ゴミ拾いや空き瓶集めで飢えることなく暮らしてゆけるようだし、そもそも子供たちのそうした労働が社会の一部分として割り当てられているかのようにさえ見える。友達と一緒に寝起きする自由気ままな生活も、家の手伝いや学校の勉強より楽しいと感じる子がいても不思議はない。どうやら育児放棄しているような親も登場するが、何度連れ戻しても家出してしまう息子に手を焼く父親もいる。息子の方は街で暮らしている姉の所に住んで学校に行きたい、と言うが、父は「結婚して子供もいる娘の所に住ませたりできない」と反対する。このあたりのやり取りは日本でもありそうで、どこの国も親というのは同じなのだなあと思う。親子の関係が一度難しくなってしまうと、どこまでも難しいというのも、どこの国でも同じなのだろう。
気の毒なのはせっかく通い始めた学校もすぐにやめてしまうという男の子で、女の子にいじめられると言う。「女の子くらい怖い事ないでしょ」と大人たちは言うが、「シンナー吸ってる」はともかく「女の子をレイプした」という噂を立てられて爪弾きにされたのだそうで、それはもう学校になんか行きたくないよなあと同情してしまった。先生ともきちんと話をして、無実が証明されたとはいうものの、一度そういう特殊な存在として烙印を押されてしまったら、中学生くらいの年齢ではもう取り返しがつかない。
子供たちに混じり、最後に写るのは26歳のHIV感染者である母親だ。幼い二人の子供を抱え、離婚した彼女はスラムに引っ越して来て洗濯で生計を立てている。他のどの子供たちの場合も見る事が出来なかった一家団欒のひとときが、ここでは映し出される。しかし、服薬の場面は無かったし(おそらく治療は受けていないのだろう)、特に説明はされないが、いつ発症するかわからないという危うさの上に成り立つ場面だ。それぞれの人物の登場時には簡単な説明がなされるが、社会背景などが解説されることはなく、カメラは淡々と何の評価軸も示すことなく写し続けるのみ。
撮られる側と撮る側の関係がそのまま作品になっているような感じを受けた。最初の方ではカメラに対して警戒心と敵愾心のようなものを持っている子供たちだが、最後のダンスの場面では自然に楽しんでいる。
言葉は日本人と話す時は英語、自分たち同士で話す時はスワヒリ語やキクユ語らしく、字幕をつけるのに大変苦労した旨が公式サイトのプロダクションノートに記されている。シェンというのは一種のクレオールなのだろうか、それらの混ざった言葉だそうだ。小学校の授業風景はちょうど英語の時間で、どうも皆家庭で普通に英語を話すというわけではないようだから、小学校でドロップアウトしてしまったら英語を身につける機会を逸することになるだろう。ケニアでは英語が不自由だという事がどの程度のハンディになるのかは分からないが、就労など様々な場面で選択肢が減少するはずだ。日本で家出したりあるいは不登校になって義務教育を受けそびれるというのとは、およそ異なる意味を持つのではないか。子供たちの抱えるあれこれは多分どこの国でもそう隔たりは無いのかもしれないが、その結果は社会によって全く違ってくるのだろう。
島耕二『女性操縦法』
同じく渋谷・シネマヴェーラの特集「シナリオライター小國英雄のすべて」にて。太宰の未完の遺作『グッドバイ』を元に49年に映画化したものの短縮版ということで、80分足らずの作品。
四つまたをかけている色男の編集者(森雅之)が苦心惨憺、女たちと手を切るコメディ。原作ではただ関係をやめたくなったという理由だが、こちらは富豪の令嬢に見初められ縁談を持ちかけられたためということになっており、それが結末につながるように工夫してある。
髪の毛を分けて髭を生やした森雅之が、角度によっては『2046』の梁朝偉(トニー・レオン)のようだ!相手役は高峰秀子、東北弁の小汚い担ぎ屋だが、たまには別人のように盛装して街に繰り出すのが森雅之の目に止まり、疎開先から帰ってきた妻の役を手伝わされる。『新編 丹下左膳 隻眼の卷』(感想)での着物姿の彼女しか見た事がなかったけれど、洋服を着てみればあまりにスタイルが良いので驚いた。なるほど、『カルメン故郷に帰る』のストリッパー役なんていうのも頷ける。
労働者の女性が実はすばらしい美貌に恵まれているが、物腰や話し方でお里が知れる、というのはなんだか『マイ・フェア・レディ』を連想させるが、バーナード・ショーの原作はいざ知らず、映画は六十年代のカラー作品だからこの映画よりはるかに後。ついでに言えばレコードの使い方もよく似ている。女たちの前では口を開くな、と言い渡された高峰秀子のサイレント映画のような動きと、普段のあけすけな物言いが可笑しい。「おめえの魂胆は分かってるだ、電気消して暗くなったすきにカラスミちょろまかす気だな」というので腹を抱えて笑ってしまった。
そういえば、父は東北の産で、東北人は自分の言葉が恥ずかしいものと思い込まされているのだとか何とか言っていたが、この映画でも東北弁は人前に出せない滑稽なものの象徴として用いられている。もちろん、嘲笑の対象というわけではなく、言うなれば親しみやすい「こちら側の話し方」なのだけれど。
とってつけたようなエピローグで大団円に持ち込んでいるが、オープニングに対応させるものとは言え、なくもがなという気がする。短縮版でなく元のバージョンなら、もう少し本筋にうまく絡むような仕掛けになっていたのだろうか?
中川信夫『吸血蛾』
- 出版社/メーカー: 東宝
- 発売日: 2006/11/23
- メディア: DVD
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渋谷・シネマヴェーラの特集「シナリオライター小國英雄のすべて」で鑑賞。横溝正史の同名小説を原作に、中川信夫監督により56年に映画化された作品。蛾の採集に凝る老人がひっそり暮らす場所が武蔵小金井というので、当時は相当な田舎のイメージだったらしい。
ファッションデザイナーの浅茅文代のショーの最中、狼のような歯の男が、彼女に渡すようにと歯形のついたリンゴを預けて立ち去る。それを見た途端失神する文代。やがて、フランス留学時代に同棲していた「狼憑き」の伊吹という男だということが明らかになる。行方不明になり死亡したと考えられていた彼だが、帰国して復縁を迫り、さらに文代が自分のデザインを盗用していたことをネタに強請を始める。加えて、彼女の事務所に所属するモデルたちまでもが、一人ずつ殺害され胸に蛾を飾られた亡骸となって発見される。
出演者の最初にクレジットされていた池部良なのに、いつになっても出て来ないからどうしたのかと思ったら、半分以上経ったかと思われる頃になってようやく金田一耕助役で登場。スケジュールが押さえられなくて出番が少なくなったのか、と勘ぐりたくなってしまうくらいだ。
被害者の遺体が送りつけられるところや、切断された足がレビューを踊るといったような、乱歩の『盲獣』を思わせる猟奇性もあるのだが、この映画ではそうした描写はかなり控えめにしてある。特に後半の次々に殺人が起こる部分は、殺されたことを口頭で報告するにとどめられるのでいっそうだ。
ファッション業界が舞台でショーの場面も多く、衣装が見所か。特にモデルの職業柄という設定もあるのか、普段の場面でもワンピースなどドレッシーな装いが多い。今は随分カジュアル化してしまったものだと思う。白黒だからいっそうエレガントに見えるというせいもあるかもしれないが。
最後まで生き残るモデル役の安西郷子は、顔が小さくて今風の、ちょっと幸薄そうな感じの美人。この作品で初めて観たが、一瞬「なぜこの時代に宮沢りえが?」と真剣に考えてしまった(角度によっては似てません?)。刑事の恋人という設定で、今だったらきっと彼女にもう少し焦点が当てられるのだろうが、ただ刑事の後をついてウロウロするだけの役どころというのは少々もったいない。
筋の運びは後半が慌ただしく、なんだか結局よく分からなかった…。金田一が一度死んだように見えた、というところも結局どうやって生き延びたのか説明されなかったし。犯人は金目当てだったのが、途中から猟奇の血に目覚めてしまったということ?あまり殺す必然性のない人間もずいぶんたくさん死んでいたようだが。原作ではどうなっているのだろう。
